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御茶ノ水橋で橋上の人となる(日記の練習)

2023年7月29日(土)の練習

 東京古書会館「中央線はしからはしまで古本フェスタ」二日目(最終日)に行く。明け方に寝たので起きた頃には夕方だろうと思っていたのに、九時前にすっと起きてしまったので、二度寝は諦めてお昼前には神保町へ。
 一日目(初日)は金曜日開催にもかかわらず開場前からひとが殺到したそうで、夕方にはほとんど空っぽの棚もあったようだ。いくつかの古書店は朝から本を補充した旨の投稿をX(まだ慣れない)にしていたので、それらの写真を見ながら電車に揺られる。
 二日目もかなりの賑わい。東京古書会館そのものは五年ぶりで、神保町にはよく来るが不思議と訪れる機会がない。
 りんてん舎が投稿していた写真に映る下段右端にらぼんやりと灰色の背を浮かべる本を見て、もしかして、と到着早々に確認したところ予想通り石原吉郎『北鎌倉』(花神社)で、破格の値付けに驚く。詩人として、そしてシベリア抑留の体験を記した『望郷と海』の著者として有名な石原吉郎が晩年、死の淵で詠んだ歌が唯一の歌集として纏まっていること、そもそも石原吉郎が歌を詠んでいたことを知ったきっかけは佐藤弓生の掌編集『うたう百物語』(メディアファクトリー)だった。
 初日から幸いにも残っていた吉岡実『「死児」という絵』(思潮社)も手に取る。吉岡実の詩論や随筆を集成した数すくない散文集の一冊である同書は、のちに筑摩叢書から増補版も刊行されているけれど、吉岡実の著書はやっぱり著者自装で持っておきたい。
 意外な収穫は安西均『安西均全詩集』(花神社)だった。きなり堂の棚だっただろうか、人文書に紛れて白々しくもならんでいて、思わず二度見してしまった。はじめて読んだ第六詩集『暗喩の夏』(牧羊社)は、主題でもある死そのものを想起させる暗黒の表紙に、口絵には篠田桃紅の作品を配う美しい造本に相応しい内容だった。かつて資生堂の主催で運営されていた現代詩花椿賞の第一回受賞作品でもある。『暗喩の夏』といい、もう一冊手元にある『チェーホフの猟銃』(花神社)といい、安西均の詩集は装幀が凝っているようなので一冊ずつ探したいが、ひとまず全詩集が本棚にあると見守られているかのようで安心する。
 安西均を知ったきっかけも佐藤弓生だった。第三歌集『薄い街』(沖積舎)「コラージュ・新世界より」のなかで、安西均の第一詩集『花の店』(学風書院)から表題にあたる詩の一節が詞書に引かれていた。

いいことだ 憂ひつつ花をもとめるのは
その花を頰ゑみつつ人にあたへるのはなほいい

けれどそれにもまして あたふべき花を探さず
多くの心を捨てて花を見てゐるのは最もよい

安西均「花の店」

 佐藤弓生に導いてもらったような二冊との出会いに奇妙な縁を感じる。
 中山義秀『咲庵』(講談社文庫)、安西均『安西均全詩集』(花神社)、石原吉郎『北鎌倉』(花神社)、吉岡実『「死児」という絵』(思潮社)を購う。

 東京古書会館をあとにして、駿河台をくだり神保町を靖国通りに沿って歩く。三茶書房から玉英堂書店、田村書店と均一棚を冷やかすが、あまりの暑さに白山通りとの交差点あたりで既に虫の息。途中で安藤次男『完本 風狂始末 芭蕉連句評釈』(ちくま学芸文庫)を見つけるが、ひとまず購うか後で考えようと歩き続ける。
 最後に東京特価書籍を見て……というところで、神保町ブックセンターの路地で偶然友人と遭遇する。友人も東京古書会館に行っていたらしい。すこし立ち話をするが暑くてたまらないので、その足でランチョンに行き生ビールで涼を取る。友人はカレーライスを、私はハヤシライスを食べながら本の話をする。

 友人と別れて仕事をしようと職場をめざすが、あまりの暑さに再び力尽きて図書館に逃げる。四年ぶりの訪問。空調のよく効いた屋内で昼食後の睡魔と戦いながら夕方まで、その後は気分転換に神田伯剌西爾に移って作業。ひさしぶりに食べるコニャックショコラがおいしい。

 二十時過ぎには帰り支度。御茶ノ水駅に行く道すがら、先日再読した北村薫『夜の蟬』のことを思い出して御茶ノ水橋に寄る。普段御茶ノ水駅を使う時には渡る用事がないし、神田明神へ行く時は聖橋を渡るので、すこし不思議な気持ちで橋上の人となる。

私は足元にバッグを下ろし、暗く沈んだ神田川の水面を見詰めた。
やがて、ごうごうと音がしてその川面に、向こうから駅に滑り込んで来る玩具のような紅色の丸の内線の電車が映った。電車の上には聖橋の灰色のアーチがあり、橋を通る人々の姿は胸から上だけが遠く小さく墨絵のように見えた。

北村薫「朧夜の底」

 御茶ノ水駅は長いこと改良工事をしており、神田川の中空には足場が設備されている。聖橋のアーチから丸の内線を望むことは叶わない。

 帰宅して、辻征夫『俳諧辻詩集』(思潮社)を読み終える。
 句と散文詩が俳諧のように連なるように書かれていて、第十四回現代詩花椿賞と第四回萩原朔太郎賞を受賞した本書は、挑戦的な構成と斯界からの高い評価からは意外なほどに飄々とした詩がならんでいる。つくりこもうと思えばいくらでも複雑なことができること、つくりこんでしまう誘惑から逃れるように一見してごく自然な言葉で詩がぽつんぽつんと書かれている。その、楽しくも戸惑いを感じさせる感覚は巻末の著者による覚書で氷解した。

 遊びといい、楽しみといいながら、詩のこととなるとついむきになり、詩の新鮮さを保つためには、まっこうから、力を尽して書かなければならぬなどと本気で思いつめたりしてしまう。現代詩というこの器こそ、短詩型文学の遺産をすべて引き受けうるものではないかと考えていることは事実だが、作者の思いほど詩の邪魔をするものはなく、まず力を抜かなければととりあえず窓を開け放ったりするのが、自室にいるときの私の動きの基本的なパターンであるにちがいない。こういう日には、詩は書くものではなく、風呂でも浴びているのがいちばんいい。

辻征夫『俳諧辻詩集』覚書

 日記を書いている自分自身、文章を邪魔する力みを自覚させられる。
『完本 風狂始末 芭蕉連句評釈』をすっかり買い忘れていたことに気づく。

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