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蜘蛛

 水族館の前の広場で、「ウォーン、ウォーン」と大きな声が響いていた。リュックサックを背負った、太って身体の大きい男が、まっすぐみつめるような、それでいてなにも見ていないような目で、「ウォーン、ウォーン」と発していた。
 彼のすぐわきにはふたりの付き添い人らしき男女がいて、ひとりはなだめるように彼の手をにぎり、もうひとりは途方に暮れてあたりを見まわしていた。私は彼の視線のひだりがわに立ち、一体彼は何歳なのだろうと考えていた。

「ウォーン、ウォーン」
 それはひとの声というより、どこか禽獣類の鳴き声に似ていた。耳に突きいってくるその叫びの皮を剝いで、そのなかにある声を聞き取ろうとしてみる。音は声にはならない。しかしその音には強い意思があるように思った。彼は叫ぶことをやめない。全身でなにかを拒絶しているのか、全霊でなにかに抗議しているのか。
「ウォーン、ウォーン」
 休日の水族館の多くのひとが行き交う広場で、やりどころのない叫びはどこまでも遠く広がっていった。

 深夜、行くあてを失ったこの叫びは残響となって私の耳に巣食い、もぞもぞとかゆくなって私の目を覚まさせた。
 閉め切ったはずの六畳間に、風が吹いていた。ひんやりとした風はふとんから顔をだしている私のこめかみのすぐ上だけに当たっている。額の下の部分だけが、細長く吹きつけてくる風に晒されて冷たくなっている。風を避けようとして、顔を回転させ、天井を見上げた。ただ白く塗られただけのせいか、薄明かりのなかでも、黒くて小さい点があるのがわかった。汚れかと思って見ていると、ゆっくり右に動き出した。どうやら蜘蛛のようである。
 大きい蜘蛛は好きではないが、部屋にいる小さいものはさほどいやではない。好ましくさえ思っているその小さな蜘蛛の動きを、覚めて閉じることができなくなったまなこで追ってみることにした。蜘蛛はなにかに警戒しているかのように、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと動いた。部屋の天井をぐるりと半周するのを、長い時間見ていた。ときどき、こめかみのすぐ上にだけあたる風をよけようと、右に左に首を振ったりした。

 蜘蛛がようやく最初にいた位置にまで戻ってきたころ、私は眠りに落ちようとしていた。風はいつの間にかやんでいた。薄れていく意識のなかで、私は「ウォーン、ウォーン」と叫ぶ自分の声をはっきりと聴いていた。


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