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裸の王様のむこうにあるもの

 ほんとうはうすうすわかっているのに、あえて知らないふりを決め込んでいることって、たくさんじゃないけど、確実にあるものです。なんかそれを言っちゃったら、身も蓋もないというか、自分たちが立っているこの足元の地面すらもあやしくなってしまう。だからあえて言わないでおこうという、無言の取り決めのようなものです。
「王様は裸だ。」
なんてことも、なんとなくわかっていながら、みんな言わないできたのです。それでなんとか幸せに暮らしてきたのですから、いたずらに裸を指摘してしてもいいことはない。むしろそうすることで、その国に住まうひとたちの暮らしや存在が「存立危機」におちいってしまうこともあるからです。だからあえて知らないふり、見ないふり、わからないふりをしていたのです。

 日本はアメリカの植民地だとか、51番目の州だとかっていうと、それは言い過ぎだというひとも、少なくとも戦後日本は、圧倒的な「対米従属」下にあるという事実は、全面的に否定することはできないでしょう。大きな政策や方針の転換はすべて外圧、具体的にはアメリカの圧力によって決められてきたことはみんな知っているのです。

 日本とアメリカは、対等なパートナーなどでは決してないということを、みんなわかっている。それは「ドラえもん」にたとえるなら、ジャイアンとスネ夫の関係です。けれどそれを見ないようにしている。
 いまや内田樹さんをはじめ、少なからぬのひとが、いま日本が抱えている問題の多くは、「対米従属」によって引き起こされていると指摘していますが、あれはまさに「王様は裸だ」と、わんぱく坊主が指摘しているのと一緒だと思います。
 みんなが、意識の下にモヤモヤと感じている疑問点や、口に出すのをためらっていたことを可視化してくれている。なにか新しいことや、斬新な提案をしているわけではないのです。でもそのおおもとにある、問題の「基礎の部分」に、まず目を向けることからはじめなければならないというのは、とても大切な提言だと思います。

 そういう意味でいうと、辺野古の新基地建設も安保法制も、まったくもって同じ位相の問題なのです。キャンプシュワブの前で、どんなに反対しても、県民が選挙で反対を公約する議員を選んでも、県知事が新基地建設はだめだといっても、結局、無理なのです。そのことをぼくたちはみんな知っているでしょう。なぜならアメリカというジャイアンに刃向かうことなどできっこないからです。
 知っている。だから目を背けざるを得ないし、あきらめざるを得ないのです。少なくとも戦後、ぼくたちはそうした裏にあるアメリカの大きな力へのあきらめとともに、暮らしてきたのです。

 安保法制もまたしかりです。国民がどんなに反対しても、たとえ安倍政権が倒れても、なにがなんでも成立させなければならないのです。なぜならそれはアメリカの強い意思だからです。日本のひとたちに受け入れがたい、ひどい戦争法案であったとしても、もうアメリカが決めてしまったことなのです。日本軍がアメリカ軍の下部組織として組み込まれるのは、既存事実なのです。アメリカの防衛予算はもうそれを織り込んで組まれているのですから、いまさらできませんという、そんな選択肢は、ぼくたちには残っていないのです。

 「なぜ国民の理解が得られていないのに、強行採決してまで急ぐのですか?」という疑問が多いそうですが、こういう理由です。まず結論があって、それを決められた期日までに果たさなければならない。だから焦っているのです。
 「日本はまだ主権国家になっていない」なんてことは偉い先生がたに言われなくても、50年くらい生きていれば、だれでも知っていることではないでしょうか。
 のび太としずかちゃんは、そんななかでささやかな自由を満喫しているのです。それをスネ夫政府が、ジャイアンと完全にグルになって、そのささやかなものまで取り上げようとするから、立ち上がらざるを得ないのです。
 ほんとうはスネ夫だって、ジャイアンからのいじめにあっている、同じ犠牲者なのです。だから歴代のスネ夫総理は、あいだにたって、ときにジャイアンをなだめ、ときにのび太やしずかちゃんをいたわりもしてきたのです。

 しかしいまのスネ夫政権は、ほんとうに笑ってしまうくらい「下手をうって」ばかりです。水面下で極秘裏に進めてきた両国間の取り決めを、浮き足立ってアメリカ議会の壇上で、世界に向けて歌い上げてしまったりする。それもジャイアン並みの音痴な歌声で。
 側近山本一太などは、総理のアカウントで自分のツィートをあげるなど、ヤラセという国家機密をやすやすとインターネット上で暴露してしまう。国会では安保法案の中身をなにひとつちゃんと説明できない。ヒゲの隊長が朝のワイドショーで長島一茂にやりこめられてしまう。高村副総裁はかつて大臣時代に、おおやけの発言として述べていた集団的自衛権の解釈を180度転換させてシラっとしているし、菅官房長官にいたっては腹話術人形よろしく口をパクパクさせているばかり。防衛大臣も外務大臣もみんな目が虚ろになっている。あきらかにアメリカに押し付けられた安保法制という大きな荷物を背負いきれなくなって、ほころんだリュックから、ボロボロと中身がこぼれだしている、それがいまの状況ではないでしょうか。

 これほどに大根役者ばかりの田舎芝居を続けられた日には、いよいよヤバいことになるという、まさに「存立危機」感が、ぼくたちのなかに沸き起こっても不思議ではありません。自分たちのささやかな生活や人生がおびやかされようとしているのに、ときの政府与党が、この配役とこの能力では話にならんし、ラチがあかないのです。だから、翁長さんをはじめ沖縄県の主要メンバーが、はやはやと見切りをつけて、直接アメリカに行って交渉しようとするのは、まったく道理にかなっているのです。
 これにはジャイアンも、おいおいスネ夫、どうなっているんだとばかりに、安倍政権に対して不信感を募らせていることと推測します。

 もはやスネ夫には用はない。ぼくたちは正面からジャイアンに向き合う機会を、いつの日か、迎えることができるかもしれません。それがうっすらと見えたとき、ぼくは「あきらめることをやめた」のです。

 いま国会前に集まって「アベはやめろ!」と叫んでいるひとたちも気がついているはずです、アベがやめればすべてが解決というわけではないことを。麻生になっても石破になっても、高村になっても、同じこと。その向こうにひかえているアメリカと、対米従属を解消するための政治的な交渉をしないかぎり、ほんとうの意味での自決権は得られないし、国民主権も民主主義も実現できないのです。

 これはものすごくたいへんで、過酷な、気が遠くなるような道のりです。でもそれを「あきらめない」でいこうではないかと思うのです。
まずはこの政権を倒し、安保法案を廃案に追い込むことです。そのとき、はじめてアメリカが烈火のごとく怒って、なんらかのアクションを起こしてくるでしょう。まずそれをしっかり見ておくこと。そして冷静に対処する準備をしておくことが大切だと思います。
 それをふまえて、ぼくたちは、選挙を通じてちゃんとした議員を選び、実現してもらいたいことを、しっかりしたビジョンとともに託し、外交、経済、文化、あらゆる分野で活躍してもらう環境を作らなくてはなりません。もはやひとまかせはできません。ひとりひとりが、重い荷物を背負わなければならない。そんな時代が近づいているのかもしれません。
 やや皮肉な言い方ですが、ぼくはその意味で、いまの安倍政権にとても感謝しています。そのあまりの下手さ、無能さ、ずさんさのおかげで、ぼくたちはやっと目を覚ますことができたし、立ち上がることができたのですから。

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