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人生の滋味

 3連休の最終日、神保町へ。
 祝日だというのに、かなり賑わっておりました。

男「神保町はね、“本の街”って言われてるんだよ」
女「そぉなんだぁぁぁ、知らなかったぁぁ♡」

 と、すずらん通りですれちがったヤングなカップル。
 なんなんだ、その、撮影協力ロケ地を端的に説明する火曜サスペンス劇場(の昼の再放送)のオープニングみたいなベタな会話は!
 いちゃいちゃしてないで周りを見てみろ!本屋だらけだぞ!
 何しに神保町に来たんだ!

 いや、でも、まぁ、よしもと劇場に来たのかもしれないですね。
 神保町もすっかり変わりましたからね。
 休日もいつもにぎわっていて、カレー屋やラーメン屋やかわいいパンケーキ屋には大行列。今ではすっかりおされタウンになりました。

パンデミックの間、神保町はいろいろなくなりすぎた。

 スヰートポーヅもキッチン南海もなくなってしまったよ。

 今日は成人の日だった。
 思い起こせば、二十歳の頃の私は、毎日のように神保町をうろうろしていた。成人式の集いにも行かず、ひとりで本屋とレコード屋をさまよっていた。おなかがすくと、お金がないので水道橋の大学に戻って学食でごはんを食べていた。
 と、あたかも懐かしい思い出のように書いてみたが、やってることは今もぜんぜん変わっていない。包子餃子よ、俺は今もこの街をあてもなくさまよってるぜ。

 さて。ここで質問です。
 若者よ。その頃、神保町にあったいちばんナウな店は何でしょう。

 答え。ドトールだよ(笑)。今もある交差点のドトールだよ。

 さて。

 たしかに“本の街”の根幹をなしていた肝心の大型新刊書店はどんどん少なくなり、あるいは業態を多少変え、古書店もなくなったり、あるいは経営が変わったり、ずいぶん様変わりしたり(つい先日、古賀書店も閉店してしまった)。物心ついた時には「本はアマゾンで買うもの」だった世代にとっては、そりゃあ神保町が“本の街”といわれてもピンとこない時代なのかもしれない。
 若い世代でなくても、今は書店に行ったところでよほどのメジャー本でなければ目当ての新刊が買えないことも多いので、私もやっぱり結局アマゾンで買うことが多くなった。が。昨今、ユーザーレビューやSNSでもよく話題になっているように、アマゾンは本の発送がどんどん雑になってきて、帯が破れていたりハードカバーの角がつぶれていることなどざら。あと、踏みつけたのかと思うような汚れがついていたり。そもそも地元の小さな本屋や駅ビルのチェーン書店にはないマニアックな本とか高価な本だからネットで買うわけで、美しい装丁が欲しくて買った本の角がつぶれてたりした時の絶望感たるや…。

 なので、最近は欲しい本はなるべく書店で買うことにしている。本は本屋、レコードはレコード屋といったこだわりは特にないのだけれど、これだけ「アマゾンがこわい」感じになってくると、書店になくても取り寄せてもらうことを再び始めるべきかもしれない。

 今日、買いに行ったのは、故・池波正太郎の新刊『人生の滋味 池波正太郎かく語りき』。今年は生誕百年でいろいろ記念イヴェントも目白押し、この本もそのひとつだ。初単行本化のエッセイ、対談、インタビューなどを集めたアンソロジー。
 今年は池波正太郎記念文庫への初詣で新年を始めたくらい池波推し活がもりあがってまいりました私なので、この本ばかりは帯が破れていたりふんづけられている本は絶対やだなーと思って、現在、その刊行にあわせて池波フェアを絶賛開催中だという東京堂書店まで出かけた。

 実は昨今、わりと大きな書店でも、池波正太郎が全然ないことなども多くて、さすがにもうそういう時代になってしまったのかなー…としょんぼりしていたところだったのだが。東京堂の池波フェアはさすがだった。まさに“フェア”と呼ぶにふさわしい、かゆいところをかきまくってくれるフェアだった。ハードカヴァーも文庫本もあわせて、小説からエッセイからムック、関連書(ねこちゃん本まで!)までがずらっと平台に並ぶさまは壮観(今、どんどんタイトルが増えている傾向らしい)。胸熱。興奮した。

 たしかにアマゾンでも贔屓の作家の著作の一覧が見られるし、Kindleか紙かを選ぶ自由もある。たとえ絶版でもマーケットプレイスですぐ入手もできるから便利だけど。やっぱり、魂こがして店頭に陳列された本を手にとった時に感じるビビビ感とか、その本を今すぐその場で読み始めたくなるほどの高揚感…てのは間違いなくある。今日も、先日、アマゾンでポチろうかポチるまいか悩んだ末にやっぱりやめた…ばかりの本をお買い上げしたり。エッセイは未読や忘れてるものも多くて、けっこういっぱい買ったなー。値段のことも考えずにカゴにがんがん本を投げ込むという快感を久々に味わいました。たくさん本を買うの、しあわせだー。大人になったと実感する瞬間だ。

 最近、セレクト・ショップ的な本屋さんが増えた。なんというか「気が合う」店に出会えればラッキーで、欲しい新刊もすんなり入荷されるし、漠然と「何か面白い本はないかなー」と思う時には新しい発見ができたり。レコード屋でいうとパイドパイパーハウスみたいな、センスがよくて知見を広げてくれる素敵な本屋さんがあちこちにできたのはうれしい。ただ、同時に、私はやっぱり自分で「見つける」ことも本屋の楽しみだと思っている。子供の頃、お小遣いで買える1冊の本を選び抜くために渋谷の大盛堂の全フロアを行ったり来たりして、書棚を端から端まで眺め、そのうち買ってない本のタイトルまでたくさん覚えてしまった。そんな経験が自分のアイデンティティの基礎を作ってくれた。
 過保護すぎずに自主性を尊重し、だけど時にはお節介なほど親切で、読書のヒントや新しい視点を教えてくれる。そういう本屋を理想だと思うので、やっぱり東京堂はいつも楽しくて長居してしまう。

 併設カフェの2階でコーヒー飲んで、ちょっとだけつまみ読みして帰りました。

あと、写真撮る前に消えたけどモンブランもいただいた。

 帯にある「素人が売れる時代なんだろうけど、こんなことじゃ、これからの日本人はどうなってしまうのか、心配だな」というのは本書の最後にある、1986年に紫綬褒章を受章した時のことば。

あっ!
ウエストランドがM-1で言ってた「つかまりはじめてる」って…(ちがいます)。

 もったいないので、残りは大切にちびちび読もう。

 余談になるが、私が“東京の男”だなーと思う作家といえば池波正太郎ともうひとり、詩人の田村隆一がいる。池波は浅草聖天町、田村は現在の豊島区南大塚の出身。奇しくもふたりとも同じ大正12年(1923年)に生まれ、今年で生誕百年を迎える。

待乳山聖天宮のかたわらにある、池波正太郎生誕地の碑。

 田村は近代の東京はもう自分の育った東京ではなくなってしまった…と鎌倉に移り住んだ。池波は、どんどん変わりゆく東京の景色に嘆きながらも、それでも自らの心のふるさとは変わらずここにある…と生涯を東京で過ごした。このふたりの目に映る東京とは、わたしが見たことのない光景ばかりだ。でも、彼らの語る東京がとても好きだ。知らないはずなのに、懐かしいと思う。うんと年上の同郷のひと、という感じ。どちらの東京も愛おしい、と思う。

生誕百年にあやかりたい。今年のカレンダーはこちらにしました。




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