瀬戸川猛資の『夢想の研究』を再読しながら考えたアレコレ―読書月記49

(敬称略)            

瀬戸川猛資の『夢想の研究』(創元ライブラリ版)を再読した。最初に読んだのは、1999年に同書が刊行されて間もない頃だったと記憶している。ときどき、部分的に拾い読みをすることはあったが、通読するのはかなり久しぶりだ。
創元ライブラリ版が刊行された時点で、著者は鬼籍に入っていた。著者はミステリや映画に関する文書を多数発表していた。しかし、私は映画も観ていたしミステリも読んでいたが、どういうわけか著者が存命の間に、その文章に触れたことはなく、そのことは今も残念に思っている。
なお、『夢想の研究』は本(活字メディア)と映画(映像メディア)を中心に論じており、2か月前に刊行された『夜明けの睡魔』では、海外ミステリが取り上げられている。

とにかく面白いのだ。「奇説・珍説」がいくつも出てくる。すべてに首肯できるわけではないが、読んでいて楽しい。『市民ケーン』について書かれた「硝子玉とコルク玉」は、ある意味で本書の白眉とも言える内容だ。近年のハリウッド映画だけを見ているだけの自称「映画好き」の人は別にして、映画好きを他人に公言できる人なら、『市民ケーン』を知らない人はいないだろう。たとえ観ていなくても、タイトルやオーソン・ウェルズ、映画史におけるポジションなどは理解しているはずだ。その『市民ケーン』とミステリ史に残る、ある作品を結び付けて論じている(未読の方がいるかもしれないので、作品名はここでは書かない)。こちらの作品も、年末に発表されるミステリのランク付けに掲載された作品だけを読んで満足している「ミステリ通」は別にして、古今東西のミステリをこよなく愛する人なら、必ずタイトルを知っている作品だ。
そして、私がもっとも好きなのは、「月の山脈」「裏切る現実」「或るコンプレックス」の3つの文章だ。前の二つは映画『愛と野望のナイル』からはじまって、アラン・ムーアヘッドの『白ナイル』などを取り上げ、ベルリンの壁崩壊とスパイ小説、『千夜一夜物語』までが俎上に。「或る~」では、映画『インドへの道』を入り口に、映画と文学の関係、「コンプレックス」の問題などが書かれている。
まず、『白ナイル』を激賞していることが嬉しい。この本、ナイル川水源探索の歴史について書かれていて、クライマックスはバートンとスピークの争い。『愛と野望のナイル』は、この二人のお話。私は映画を未見だが、『白ナイル』は本当に面白い。『白ナイル』に関してはAmazonのレビューにも書いたけど、筑摩書房が文庫化しない理由が分からない。
「或るコンプレックス」では、映画人の「文学コンプレックス」も俎上にあがるのだが、現在はどうだろうか? 原作となるのは邦画であれば文学(小説)よりもマンガの方が増えている気がするが、後発メディアである「マンガ」に対して、はたして「マンガコンプレックス」が映画人にあるのだろうか。
同じようなことは文学とマンガの関係にも言えるのではないか。今はどうかしらないが、『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』を読むと、1980年代のコバルト文庫編集部には、マンガに対するコンプレックスが「文学信仰」という形で存在したのは間違いない。では、逆にマンガサイドから文学を見た場合は、どうなのだろうか。現在については分からないが、過去には手塚治虫も含め文学的教養・素養をベースに持つマンガ家はかなりいたはずだ。「24年組」の作品にも、著名な文学作品や作家の名前は幾度となく登場するし、枠組みを利用した作品やそこで描かれたものを作品に反映している場合も少なくない(代表格は、ギムナジウム)。ある意味、まっとうな「コンプレックス」をバネに、マンガ家は作品を生み出していったと思える。
そう考えると、手塚治虫が晩年にゲーテの『ファウスト』をマンガ化したことは、どこかでデヴィッド・リーンが晩年にE・M・フォースターの『インドへの道』を映画化したことと共通した部分があるような気がするのは私だけだろうか。

今回読み返していて、驚いたのは最後の「本の燃える話」。察しのいい人なら、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』が取り上げられていることが想像できるだろう。この文章が雑誌に掲載されたのは、冒頭の「まえがき」を読む限りでは「ミステリマガジン」1991年9月号。当時は、マンガに対する批判的風潮が残っていて、スマホどころか携帯電話普及以前のこと。それを頭に入れてもらって、以下の引用を読んでもらいたい。場所は、著者が「よく行く喫茶店」。

  近くに某大企業のコンピュータ室があって、そこの若手エリート社員た
  ちもよく顔を出す。エリートたちは通常三人づれか四人づれでやって来
  て、まずマンガ雑誌を物色してから席に着き、飲み物を注文する。それ
  からおよそ三十分間、憑かれたような表情でマンガに没頭したあと、気
  だるそうに立ちあがり、めいめいが代金を払って出ていく。その、互い
  に口をきくことはない。

この文章が掲載された1991年から著者が亡くなる1999年までは1996年を頂点として、マンガを含めてだが、出版業界にとっていい時代だった。しかし、2000年以降はひたすら下降し、2020年代、コロナ禍による巣ごもり需要と電子書籍とくにコミックの健闘で、若干の盛り返しがあるものの、現在の出版業界の売り上げは1990年代の3分の2程度でしかない。著者は、マンガを含む〝見る〟文化、ヘッドホンステレオなどによる〝聞く〟文化の隆盛によって、〝読む〟文化が危機に陥っている状況を認識し、それでも、『華氏451度』のように、本の燃える日が永久に来ないことを願いつつ、筆を擱いているが、先の引用の「マンガ雑誌」の部分がスマホになっている現在の状況を見たら、どう考えただろうか。
ほとんどの人はスマホで文字を〝読む〟。しかし、この〝読む〟は著者が、考えている〝読む〟とは別物で、マンガ以上に活字の世界を侵食している。さらに、マンガ雑誌にしろ、スマホにしろ、どちらであっても、連れ立って喫茶店にやってきてほとんど会話を交わさないということに、私はちょっと怖さを感じてしまう。


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