胸の高鳴りは聞こえない
胸の高鳴りには素直に従いたい。
だけどそれは大人になるにつれ難しくなる。
後のことを考えてみたり、楽な方を選んでみたり、慣れや計算が絡んでは、その高鳴りを深く鎮めるのだ。
「台所でスパゲッティをゆでているときに、電話がかかってきた」
ねじまき鳥クロニクルの始まりの一文を読んだ時はページを捲る手が止まらなかった。
初めてバスケットボールを持った時は辺りが真っ暗になるまでリングにボールを放った。
全部の瞬間で胸が音を立てて高鳴った。それはとても大きな音だったけど、今は同じことをしても音は聞こえない。
胸の高鳴りは聞こえないーーー・・・
これを大人になると言うのだろうか。
「三十歳でこの有り様なら四、五十歳になったらマジで聞こえなくなるんじゃね?」
「いやそれはジジイになったから普通に耳が悪くなっただけで少しは鳴ってんじゃね?」
「だったら何で今聞こえないの?おれも少しは胸の高鳴るようなことしてるよ、たまにはおいしい思いもしてるよ?」
「なら耳が悪いだけじゃね?」
「いやいやおれ耳良いからね!もっといえば聴覚過敏だからね!!物音とかテレビの音とか耐えられないからね!!!」
「だから結婚出来ねぇんだよ?」
「耳が痛い!!!!」
何かを考える時はありのままの自分と俯瞰で見る自分が常に頭の中にいる。
二人の自分が喧嘩をしている頭をぶら下げながら古着の卸倉庫を物色していると、一着のジャケットを見つけた。
触れる前から予感がした。
胸の高鳴りが聞こえる予感が。
「え、これヤバくね?」
「ネパールのハンドメイドって見たことなくね?」
「いや、表地ウール100で裏地リネン100って最近なくね?」
「それよりこのウール天然染色じゃね?」
「なんでさっきからおれが言ったことより良いこと言うんだよ!」
「どうでもよくね?それよりこういう民芸品と洋服の中間みたいなの探してたんだよ、ダイダイが選んだ古着って感じ?」
「ほら!またおれより良いこと言った!」
「まさにMr.Ashっていう手作業と伝統を大事にしているブランドをやっているからこそ選べる古着だよな」
「待って待って!めちゃくちゃ良いこと言ってるじゃん!ズルくない?おれにも言わせてよ!そういうとこあるよね?良いとこ全部持ってくみたいな!」
「面倒くせぇなぁネチネチ言ってくんなよ神経質野郎が!」
「どこがですかぁ!ちょっと物音に敏感なだけですぅ!大らかな男ですぅ!どこが面倒くせぇか言ってみ?言えないでしょ!だって面倒くさくないもーん!!」
「はぁ!?塩焼きそば大好きなのにソース焼きそば大嫌いなところとかめちゃくちゃ面倒くさいからね?変なこだわりというかキモさが出てる。あぁ今まで付き合ってくれた人たち可哀想」
「キモくないですぅ!ちょっと舌が敏感なだけですぅ!!」
「だから結婚できねぇんだよ?」
「耳が痛い!!!!」
うるさすぎて、胸の高鳴りは聞こえないーーー・・・
うるさすぎて聞こえなかったけど胸が高鳴ったウールジャケットはコチラ
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