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二極世界の騙し絵に描かれる「生」と「死」

私には嫌いなものが、明確にある。

人混みや騒音が嫌い
報道番組が嫌い
馴れ馴れしい人が嫌い。

日常生活での嫌いなことは
執拗なまでに目に付き、耳に障るので
自分には病的な面があるのだと
ひっそり思っていたが

結局は
静かな場所での自分の時間
身近に起きる美しい変化
距離感の心地良い人付き合い

そういったものを、この上なく愛していて
こだわりをもって大切にしている
その裏返しに過ぎず

自分にとって心地良いものを
分かりやすくするため
嫌なものには敏感なのだと自覚した。

嫌いなことには変わりないし
本気で腹を立て
全力で嫌悪するたびに
エネルギーの浪費に後悔するものの

裏にある好きなものに意識を向けることで
以前よりも速やかに自分を取り戻して
やり過ごせている、と思う。

ネガティブなことと、ポジティブなこと
好きなこと、嫌いなこと
物事には、必ず対になる事象があって

この二極に気付くのは
騙し絵に描かれている対象の
どちらへ目を向けるかに似ている。

ルビンの壺
婦人と老婆
ウサギとアヒル

1つの絵に、両方が描かれているのを
私たちは【知っている】けれども
実際に見るときは、同時に見えない。

「どちらも描かれている」と知っていても
必ず見えるのは、1つだけ。

意識して目を向けたほうの
どちらか1つしか、見られない。



自分の年齢が半世紀を越えているからなのか
ラルゴがいなくなってからというもの
いつか訪れる大切な人たちとの死別をも
考えるようになった。

今が当たり前すぎて気付いていない
もしくは見ようとしていない
もう1つの絵に焦点を当てるとき
言いようのない不安や焦燥を感じる。

見ようとするだけで、こんなになるのだから
もし目の前に突き付けられたら 
どうなってしまうのだろう。

残されるより、残して逝くほうが
どれだけ楽だろうとさえ考えてしまう。

生きる喜びにまとわりつく厭わしい死
出会いの瞬間に約束される別れ

1つの絵に内包される2つの絵は
気付かないにしても
焦点を合わせていないだけにしても
厳然として存在する。

私が望む絵だけを
ずっと見続けられないものだろうか?



生も死もなく、出会いも別れもなく
何もかも常に存在する
さながら神の棲まう世界だったならば
どんなことを感じられるのだろう。

出会いを願うこともなく
別れを憂うこともなく
得る喜びも、失う悲しみもなく

全てが在る世界は、何も無いに似て
平穏というより平坦な時を
淡々と生きているかもしれない。

全てが準備されている冒険は
不安もなければ、達成感もなく
さぞ退屈なものになるだろう。

私は、私たちは
より鮮明な体験をするために
何不自由ない世界から降りてきて
二極化された物質世界を
生きようとしたに違いない。

騙し絵の前で途方に暮れながら
この体験や感情は全部
私が望んだものなのだろうなぁと思う。

2つの側面を持つ絵の片方を見ずに
知識として知っているだけでは
喜んだり、悲しんだりの体験は
絶対に出来ないのだから。



肉体という器がなくなって
ラルゴは「いなくなった」けれども
もしラルゴが、ここにいたらという
たわいもない想像はいくらでも広がって
私は、その姿を、今も追いかけている。

ラルゴだけでなく
今まで縁あった、犬たちや猫たち。

固体が気体へと姿を変えるように
彼らは、頭の中や、胸の中で
温かな空気のように充満して
生き生きとした姿を見せてくれる。

どちらの絵も、常に在る。
今まで当たり前に見ていた好きな絵は
決して消えたりなどしない。

別れの体験が強烈すぎて
なかなか焦点を戻せないのだと
そう思いたい。

私が見ようとすれば、また
あの絵は目の前に広がるはずだ。

それが今、私の救いになっている。

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