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原子の死 17

藤林邦夫の3分メッセージ(『生きる楽しみ』1991年版、pp.24-25。)

息子が亡くなってから、死という問題を、色々考えるようになりました。特に18歳5ヶ月という、最も血気盛んな時に、急に逝ってしまったものですから、信仰的な意味は別にして、人間とはどういうものであるか、もう一度、考え直させられたような気になっているのです。

物理学者の話によりますと、19世紀的な考えでは、

「1つ1つの原子は、ある定められた運命を持っていて、今から1時間後に壊れるとか、そういう運命は、機械的にちゃんと決まっている。それぞれについて、遅い速いはあるが、それは分からない。しかし平均的な壊れる割合は分かる」

そうです。

しかし、20世紀的な解釈では、

「1つ1つの原子は、どれが1時間後に壊れるとか、どれが10年後に壊れるかは、予め決まってはいない。どれも同じ原子で、同じ顔つきをしたものが、どれが先に壊れる、これが後で壊れる、とかは、決まっていない。ただどれをとっても、壊れる確率がどれくらいか、ということが、決まっていて、どれかが速く、どれかが遅く壊れていく。そうしてラジウムなどは、1600年で、半分に減っていく」

のだそうです。

この話を聞いて、もし神様の造られたものが、ラジウムの原子でさえ、1600年かけて半減するのなら、人間も、ある程度、同じ法則の中にあるのだから、似通ったものではないかと思いました。

人の死は、既にその寿命は数えられ、定められているのか。そして、その時が来てそうなるのか。
あるいは、誰がいつ、と定められることなく、しかし、人間の死は、人間の運命であるから、遅かれ速かれ、その時が来て死んでいくのか。

いずれにしろ、

「全ての人は1度死ぬことが定まっている」

(日本聖書協会口語訳聖書 ヘブライ書9.27)

のですから、やはり、$${\textit{神の中に、自分の未来を置くしか無い }}$$ことを思いました。

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<著者紹介>
藤林邦夫 1935年(昭和10年)生まれ。日本純信聖書学院自主退学、京都福音教会で、35年牧師として従事。ホザナ園園長も務めた。1992年2月26日、56歳で召天。この一連のエッセイは、亡くなる直前に、4年間にわたり、3分間テレフォン・メッセージとして書き溜めたもの。


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