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時代の終わり、そして…

地球は荒廃した。
というより全ての抵抗を諦めたのである。
そして一瞬でも甘美な時代を享受した、否、蝕んだ。
地球人のゆくすえとは、という題名の本がよく売れた時代もあったそうじゃないか。
この星は、過去の遺産で生きる人々で溢れている、当時便利と言われた物事。白物家電から歴史は始まっていた。
何も、恐れることはないし、勘違いをするまでもなく、我々は技術、すなわちテクノロジーに頼る形で生命を維持しなければならないのだ。こういう事態については、少なくとも頭の中では予測できたろうに。。。。
以前の世界、と言っても数十年前の話だが、その世界では進歩主義を謳っていた。もはやそれは過去の遺産となった。
圧倒的な自然のエネルギーの前に人類はなすすべなく、文明とは言えないほど、私たちはくたびれていったのだ。端的に言えば、文明は滅びた。
ただし、この宇宙の恒久の時間軸にしては大したことはないのだが。

文明の残骸であるテクノ音楽が流れる店が寂しそうに佇んでいる。荒廃した街は、その姿になるためにすでに数十年も費やしている。
我々はどこに向かうのだろうか、そんなことも梅雨知らず。
ただただ、生産性を上げてきた。
そして、盲目的に、歩んできた結果である。
都市の水没は日常茶飯事だ。それ以外にも、農地の砂漠化、戦争、塩害、山火事、台風。これらは常識である。
私たちの目の前には希望ではなく、あらゆる災害が到来した。
多くの天災によって、数多の生命は命を終わらせる羽目になった。
我々は残されたものー科学技術ーで暮らすことを余儀なくされていた。
驚くことに、かつての科学技術の進歩によってポストヒューマンが誕生していた。
彼らは、人間なのか、人間ではないのか。もはや神と同義なのか。
この世界について記述するならば、生産性のこと。つまり、あらゆること、家事から仕事、人間関係、果ては環境保護活動まで、自動で作動し続ける、機械文明が発達している。
もはやそこに、人の姿はない。
人はただ、生き延びることのみ考えさせられている。

圧倒的な美しさと過酷さを突きつけてくる大自然に対し、ポストヒューマンは自然を敬いながら、テクノロジーを使い、大災害と戦った。
時には、敗北する日もあったが、そうして技術にも自然にも無力な人々を脅威から守った。
自然は癒しの他、人々を癒す存在でもあった。
しかしポストヒューマンは自らの存在を疑うのだ。
我々は、自然なのか、それともただの機械なのか。
その答えは歴史を振り返ることでしか、確認できない。

文明はほとんど無いようだが、人間はかろうじて、生存していた。
しかし、ほとんどの人類は精神も肉体も取り残された。
人類は、自己防衛用のスーツを着用し、かつての狩猟採集民のように暮らしていくしかなかった。

私たちは、ポストヒューマンと大自然とのせめぎ合いの中にいる。
ほとんどの取り残された人類は、ポストヒューマンと機械、そして大自然との関係性をただ見守ることしかできず、
それらを、新たな神として崇めること、それによって価値観を自己洗脳していた。
残された人類は、文明という名前のストレスから解放され、遊び始め、身体性と共に、真に生きているという実感が生まれた。
果たして生産性向上とはなんだったのか。
何か、良からぬことに加担してきたのかと、不安に駆られた人もいた。

この、新たな世紀については何世紀も続き、機械文明は発達し、機械と人間、そして自然の融合した文明は、
人類が生き延びるため、人類の認識できない世界で、継続していった。
生産性が、やっと身を結んだ。
人類にとっては、もはや、遊ぶこと、それ自体が目的となっていた。

・私たちはAGERと言います。概念、価値観です。
・この後に及んで、抵抗などしません。
 円、ゼロであること。それが真です。
・歩くことができさえすれば、それほど素晴らしいことはない。
 身体性が世界を変えていくのですから。
・きっと、進みすぎていたら、
 まるで進んでいないと思うのかもしれません。

以上のようなことを吐き出して、横に逸れたり、遡ったり。
一つのベクトルを諦めて、理性を消し去り、計画することをやめたのは、野原に解き放たれた人類の方である。

無論、境界線はもっとあやふやになった。
・溶けていくこと。
・滲み出していくこと。
・何者にもならず、何もしないということ。
これらが新たな文化の基礎工事だった。
何もしないことで、人類は地に足をつけ、身の回りの豊かさに気がついた。


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