『ポエム』創刊号の中原中也特集に続いて『ユリイカ』第2巻第10号(青土社、昭和45年9月1日)の「増頁特集中原中也」を見つけた。
直接、中也を知っている吉田健一、諸井三郎、吉田秀和の文章がやはりもっとも興味深い(大岡昇平は座談会の参加者として登場)。例えば諸井三郎の語るこんな中也。
中也は河上徹太郎からの短い紹介状を持っていたという。そして部屋に招かれた中也と諸井はすっかり意気投合したらしい。諸井がピアノを弾いたり、中也が詩の朗読をしたり……
もうひとつ、北川透「中也における〈ダダ〉の視角」のなかに高橋新吉『ダダイスト信吉の詩』との出会いについて触れられた箇所がある。死後発見された中也の草稿「我が詩観」の中の「詩的履歴書」よりの引用。
ここを読んで、丸太町橋際の古本屋とはどこだろう? と考えた。当時、丸太町通沿いには多くの古本屋が軒を連ねていた。
『全国主要都市古本店分布図集成 昭和十四年版』(雑誌愛好会、昭和14年5月)で丸太町の古本屋を見てみると、東大路から寺町にかけて、北側は、不識洞、一信堂、創造社、マキムラ、仙心洞、進文堂、丸三、細井、田中、狩野、古田、日ノ出、春正堂、麻田、佐々木、南側は、いく文、三書堂、翰林堂、マルヤ、堀田、吉田、国井、彙文堂である。
橋際というのだから、東詰めだとすれば、進文堂(北側)または吉田(南側)。西詰めなら丸三(北川)。これら三店のいずれかではないかと思われる。西詰め南側は立命館の建物だったはず。
それにしても立ち読みでダダの真髄を見抜いたのはさすが(?)。『ポエム』の長谷川泰子による回想にも《「これがダダの詩だよ」とノートを見せてくれたのです》(p42)とある通り、中也は古本屋で立ち読みして暗記したダダの詩をノートにつけていたかと思われる。
なお、大正12年4月に立命館中学へ転校したときの中也の住所は《上京区岡崎西福ノ川》(『中原中也の世界』中原中也記念館所収年譜)だから丸太町通を東大路を越えてもっと東へ進み平安神宮のところから吉田東通りを少し北へ入った東側である。丸太町橋際からだと1キロメートルほどの距離であろう。