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パレスチナ人の人権の為に非暴力の闘いをし、母国アメリカが一方的に肩入れするイスラエルによって殺されたアメリカ人女性、Rachel Corrie

命日から 2日経過しました。Rachel Corrie は 1979年4月10日にアメリカ合州国ワシントン州の州都オリンピア (Olympia, Washington, USA) で生まれ、2003年3月16日にパレスチナのガザ (Gaza, PALESTINE) で23年と11ヶ月の短い生涯を閉じたアメリカ人女性です。死因は頭蓋骨及び胸郭の骨折。イスラエル ISRAEL のブルドーザーによって轢き殺されました。上に掲げた写真の中の、背後の左側の女性が Rachel で、手前は彼女の両親です。

イスラエルの1948年の建国と直後の戦争によって 80万から100万人近い規模と言われるパレスチナ人の難民が発生しましたが、この問題は今も解決していません。

アメリカ合州国はイスラエルの建国以来、70年以上にわたってイスラエルに一方的に肩入れし、天文学的な数字となるような莫大な額に上る援助を行ない、且つこれまで国連安保理の議論の俎上に載せられたイスラエルのパレスチナ人に対する反人道的行為、国際法違反、過去の国連安保理決議に対する違反行為等についてほぼ常に国連安保理常任理事国にのみ権利が認められた拒否権を発動し、徹頭徹尾、イスラエルを支援してきました。

Rachel Corrie はガザに渡り、パレスチナ人の人権の為に非暴力の活動をし、まさにその活動ゆえに、母国アメリカが支援するイスラエルによって殺された女性です。Rachel は、世界中のパレスチナ人の人権や民族自決権の為に何らかの活動をする人々の間では、ほとんどの人がその名を知っているだろうと思われるくらいに、有名な存在です。

以下に、Rachel Corrie がイスラエルに殺された当時の、私の日記を転載しておきたいと思います。

2003年 3月22日(土)   世界が注視しないパレスチナの出来事

世界の関心が秒読み段階に入った米英軍によるイラク攻撃開始(侵略戦争開戦)に集中していた 3月16日午後5時20分頃(現地時間)、占領地パレスチナのガザ地区ラファの病院で、アメリカ人女性 Rachel Corrie (ワシントン州オリンピア出身)が、その23年の生涯を閉じた。死因は頭蓋骨及び胸郭の骨折。イスラエルによる日常茶飯事のパレスチナ人家屋破壊を止めさせるため全くの非武装で活動していた彼女は、当日まさにその活動の最中、家屋破壊中のイスラエルのブルドーザーによって轢き殺された。彼女が参加していた ISM (International Solidarity Movement) のホーム・ページ https://palsolidarity.org/ に事件の詳細が、和文の概要は、彼女が生前にアメリカの家族に送った手紙と共に、パレスチナ子どものキャンペーン http://ccp-ngo.jp/ の更新情報、最近のパレスチナ情勢 3月19日付に掲載されている。事件がイスラエル側が主張するような「事故」でないのは、The Electronic Intifada のこのページ(当分の間はアップしているはず --- いま2020年3月現在もあります) 

を見ても、明らかだろう。これで、このアメリカ人女性は、イスラエルに殺され続けるパレスチナ人の死者の隊列に加わることにもなった。

私は最初、この事件を、何日か前に昼食に入った食堂で、たまたま手にしたスポーツ紙の片隅のベタ記事を見て知った。犠牲者がいつもの通りパレスチナ人だったら、最早ニュースにもならなかったかもしれない。

テロの原因は、よく言われる貧困よりも、この世界に存在する圧倒的な不平等と不公正にあると思う。イラクのフセインが前科持ちの独裁者であるのは確かだが、それでも今回のアメリカによる強引な開戦は、この世界をますます危険で不安定なものにしてしまうことだろう。 

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上に掲げた17年前の日記は、2001年夏に html を独学してホームページ作成用の簡易ソフトを使わず html のみで作って立ち上げ、その後の仕様を変えていない旧態依然とした私のホームページ上にあります。URLは 

http://dailyrock.konjiki.jp/nikki11.html#ism ですが、OSのヴァージョンによっては文字化けするかもしれません。

ところで、Rachel が小学校5年、年齢にして 10歳もしくは 11歳だった時に行なったスピーチが、今も映像と共に残っています。内容は以下の通りです。

"I’m here for other children. I’m here because I care. I’m here because children everywhere are suffering and because forty thousand people die each day from hunger. I’m here because those people are mostly children.

We've got to understand that the poor are all around us and we are ignoring them.
We've got to understand that these deaths are preventable.
We've got to understand that people in third world countries think and care and smile and cry just like us.
We've got to understand that they dream our dreams and we dream theirs.
We've got to understand that they are us. We are them.

My dream is to stop hunger by the year 2000.
My dream is to give the poor a chance.
My dream is to save the 40,000 people who die each day.
My dream can and will come true if we all look into the future and see the light that shines there.

If we ignore hunger, that light will go out.
If we all help and work together, it will grow and burn free with the potential of tomorrow.”

以下の YouTube 上のヴィデオをご覧になっていただくと、上記のスピーチの様子が分かります(若干編集されていて、上記のスピーチ全文の中の一部が省略されていますが)。

決して長くはない 9分弱のヴィデオです。英語ですが、比較的分かりやすいと思います。映像を見るだけでも、かなり理解を深められますので、是非ご覧になってください。

Rachel Corrie の生涯、彼女の活動やイスラエルによる殺害に至る経緯、娘を亡くした両親の思い、そして勿論、パレスチナ、特にガザの実情が紹介されています。

残念ながら現在のパレスチナ人の苦境、イスラエルによるパレスチナ人の人権虐待、アメリカ合州国のイスラエルへの一方的肩入れといった問題の核は、基本的に当時と変わっていません。具体的に言えば、悪化しているとさえ言えます。

例えばガザ地区に対しては、2007年以降13年間にわたってイスラエルが封鎖政策を続け、人や物資の出入りが厳しく制限され、ガザは世界最大の強制収容所もしくは巨大な野外刑務所とまで形容され、国連が 今年2020年中に人間が住むことができないような環境になるという警告を発しています。

なお、アメリカ合州国生まれでアメリカ国籍を持つアメリカ人である Rachel Corrie のイスラエルによる殺害について、その経緯、原因、加害者の特定等に関し、当時、彼女の両親は、当然のようにアメリカ議会にイスラエルから独立した調査を行なうことを求めました。そして、また、アメリカ議会は、悲しむべきことに、そして怒りとともに記憶に残すべきことに、当然のように、それを拒否しました。


Rachel Corrie がイスラエルによって殺害された当日、2003年3月16日付の記事があります。上記の私の日記の中で言及している記事ですが、アメリカ合州国シカゴに拠点を置く、The Electronic Intifada が詳細をリポートしたものです。

上の日記転載の中にもリンクを置きましたが、本投稿を終えるに当たって、最後に、再びこの記事を紹介しておきたいと思います。


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