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絵画歴史のイノベーション その7具体美術の誕生

これまで西洋絵画を取り上げてきましたが、今回は日本での絵画のイノベーションについて取り上げたいと思います。

日本では具体美術、海外では「GUTAI」と呼ばれた創作活動についてです。具体美術の説明に入るまえに、日本の美術界について、少し触れておきましょう。

日本の美術界

日本に「美術」というカテゴリーができたのは、1873年のウィーン万国博覧会に日本政府が出展する際に、ドイツ語の訳語として「美術」としたそうで、日本での美術界の誕生は案外新しいそうです。もちろん、縄文式土器に代表されるように、伝統工芸や日本絵画などの歴史は古いのですが。

その後、1879年に日本美術協会が創設されるわけですが、それまでは各作家さんが個展を開催したり、各流派毎で展覧会をしているような状況でした。しかし、日本美術協会が創設されたことで、各流派を統一した展覧会を開催しようとなり、1907年に最初の統一的な展覧会である全国美術展覧会(文展と呼ばれる)が開催されます。

紆余曲折を経て、戦後(1946年)、この全国美術展覧会の流れを汲んだ展覧会である日本美術展覧会(いわゆる日展)が開催されます。運営主体の民営化や組織改編などのことはありましたが、現在の日展の流れとなります。つまり、日本の美術界は日展が主流ということになります。

主流の他には様々な傍流があります。例えば、1914年に美術展覧会から分離独立した「二科展」があります。分離独立経緯としては、当時、日本画については新旧の二科に分かれていたのですが、洋画はそのような分類がなかったために、美術展覧会の洋画を旧科として、新科として「二科展」を立ち上げたそうです。

その後さらに、二科展から独立美術協会(1930年設立)、一水会(1936年設立)、行動美術協会(1945年設立)、二紀会(1947年設立)、一陽会(1955年設立)などが分離独立します。他にも県や市でも公募展が開催されており、様々な公募展や流派があるようです(笑)

具体美術を牽引した吉原治良

具体美術とは、1954年に吉原治良(1905-1972)らによって結成された協会が生み出した抽象絵画のグループですが、何かイノベーションなのかと言えば、具体美術のモットーは、「人のまねをするな!」「誰もやっていないことをやれ!」ということで、近代絵画を継承するのではなく、断絶した表現に挑戦したことです。

このモットーが生まれた経緯が面白く、吉原治良が大学卒業後、魚をモチーフにした絵画ばかりを集めて個展をしたところ、盛況だったそうで、パリから帰国した藤田嗣治にその作品をみせます。そうしたら、藤田嗣治から「君の絵は他の画家の影響があり過ぎる。」と酷評されてしまい、自分のオリジナリティを出そうとしたそうです。具体美術の発端は藤田嗣治だったのですね・・・

吉原治良の魚をモチーフにした絵画

ちなみに当時、吉原はジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の影響を受けていたそうです。

キリコと言えば「通りの神秘と憂鬱」かな
吉原に影響与えたキリコの魚絵画「聖なる魚」

吉原はその後、1934年には二科展で入選し、1937年には特待賞を受賞し、前衛画家としての評価を確立していきます。

具体美術の誕生

具体美術の誕生には、1952年に朝日新聞社(大阪)の美術記者・松村寛が発足した研究会「現代美術懇談会」の影響が大きいです。この現代美術懇談会では、戦後に美術記者となった松村が同世代の若手作家らの前衛的な取組み、特に抽象絵画への取り組みを積極的に新聞紙面で紹介し、作家らが集まって語り合う場として設立されました。吉原も発起人の一人でした。

また、1948年から芦屋市美術協会と芦屋市の主催で始まった公募展「芦屋市展」も具体美術の母体となります。芦屋市展は当初から前衛的な傾向を持つ公募展でした。

そのような背景もあって、1954年に吉原らによって、具体美術協会が設立されます。機関紙「具体」が発行されたのですが、その際、吉原は「われわれはわれわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したいと念願しています」と記し、さらに「自分達の仕事がこの冊子を通じて世界中の人々に深い共感を呼ぶチャンスを持ち得るものと信じています。」としています。設立当初から世界を見据えた活動をしていくことを目論んでいました。

白髪一雄によるアート

具体美術のなかで、吉原の作品で有名なのは、この変哲もない円かなと思います。この意味合いはよく分かりませんが(笑)、吉原はこのように述べています。

「このところ円ばかり描いている。便利だからである。いくら大きなスペースでも円一つでかたがつくということは有難いことでもある。一枚一枚のカンバスに何を描くかという煩しさから解放されることでもある。あとはどんな円が出来あがるかということである。あるいはどんな円をつくりあげるかということである。たった一つの円さえ満足にかけないことをいやほど知らされるはめに陥ることも白状しておこう。一本の線も完全にひけないということはそこから出発しなければならないことでもある。そして、やはり一つの無限ともいうべき可能性がこんなところに底なし沼のようなかたちでとりのこされてある。私が自分の描いた円と向かいあっていることは自分自身との対話を意味する」

『吉原治良展』パンフレット1967, 東京画廊
吉原治良「円」(1971年)

具体美術のもう一人の有名人は何と言っても白髪一雄(1924-2008)ではないでしょうか。以下のような抽象絵画をいくつも残しています。

白髪一雄

他でも以下のような絵画がありますが、これがいくらかは分かりますでしょうか。2018年のオークションで約11億円で落札されて大変注目を浴びました。

白髪一雄「高尾」(1959年)

白髪一雄のユニークなのは、これらの絵画の描き方で、その技法を「フット・ペイティング」と呼びます。そうです足で描いているのです。こんな感じです。

このような描き方を始めたのはアクション・ペイティングのジャクソン・ポロックの影響が大きいのです。アクション・ペンティングについてはこちら<絵画歴史のイノベーション その5アクション・ペインティングの誕生>をご参考ください。

具体美術の影響

具体美術の吉原の円とか、白髪のフット・ペインティングなどは本当にアートって自由だなと思います。活動のモットーが「人のまねをするな!」「誰もやっていないことをやれ!」だったので、やけくそに作品を作っていた作家もいると思います(笑) 例えば、絵具の入った瓶をキャンパスに投げつけるとか、その模様を録画して、それ自体をアート作品にするといった具合です。

具体美術協会自体は吉原が1972年に亡くなり、翌月に解散していまいますが、具体美術のなかで様々な取組み挑戦されいたわけですが、その取り組み、例えば、パフォーマンスアートやハプニング、インスタレーションなどは現代アートの礎になっているように思います。なんせ、これまでになかった取組みはすべて具体美術が取り組んだという感じでしょうか(笑)

次回は、日本人つながりで村上隆さん「絵画歴史のイノベーション その8スーパーフラットの誕生」を紹介します。

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