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手で『見る』ということ 〜視覚特別支援学校の理科授業〜

 以前から本を読んで興味を持っていた、筑波大学附属視覚特別支援学校の生物の授業。今回ダイアローグ・ラーニングの井上さんのご紹介で、手で触って観察するという武井洋子先生の生物の授業を見に行くことができた。
ものすごく勉強になったので、気付いたことや考えたことのメモとして書き残しておく。メモなので断片的で読みにくいかもしれないが、悪しからず。授業の本筋の詳しい内容や実践の背景については以下の本を読んでほしい。

「あっ!溶けて粉々になった!」

 我々の訪問に合わせて、本でも紹介された動物の骨を触って観察する授業の1時間目を見せて頂けると聞いていた。生徒は中学1年生の弱視の生徒さんが集まるクラスの6名。ただ、武井先生が教室に入ってくるなり、「すぐに骨を見たいんだけど、今日しか見られないものが外にあるから・・・。」と言った。じつはその日の前日、学校に雹(ひょう)が降ったそうだ。都心に雹が降るのはすごく珍しいことだ。白衣に身を包んだ生徒たちも「早く触ってみたい!」と言って足早に教室を出て行った。
 校庭に生徒が出てくると、武井先生の肩に生徒たちが手をかけて集まって、目当ての場所に一緒に移動する。
 校庭の隅っこのほうに、昨日降った雹の粒が残っている。生徒たちは、しゃがんで地面に手を伸ばす。雹に手が触れた瞬間、「わあ!冷たい!」と声をあげる。手にのせて掌で転がしたり、指先で触れたりしている。
 すると一人の生徒が、「あっ!溶けて粉々になった!」と言った。雹の粒が集まった状態のものが、掌の上で溶けてばらばらに分かれたようだ。

 直接その生徒に聞いたわけではないが、おそらくその生徒は目ではなく手に伝わる感触や温度の変化によって、雹の粒の塊が溶けてばらばらになった様子を捉えていた。目で見ている人がものが溶けたり粉々になる様子を捉えるとき、たいてい視覚的な情報によって、固体が液体になっていくときの形の変化を捉えているはずだ。同じ「溶けた」でも、目で見るのと手で見るのでは、両者それぞれ異なる情報によって状態変化を捉えていることになる。
 なんとなく、これが手で『見る』ということなのかなあと思った。そしてもしかすると、目で見ても見えないものを、手で『見る』ことができているのかもしれない、とも思った。

最初は名前は知らない

 教室に戻ってよく手を洗ったあと、席に座った生徒の前にひとり一つずつ、同じ動物らしき頭の骨の、上顎の部分が置かれていく。武井先生は、何の動物か名前は教えず、「動物A」として「これが基準の骨になる」と言う。このあとの時間で、様々な動物の骨を観察し、最終的には動物園に所蔵されている大きな動物の骨を観察するそうだ。
 以前NHKで放送された植物の葉を観察する授業でも、植物の名前は教えずに、葉を手で触ったり匂いを嗅いだりして、その特徴から自分で名前をつけるという授業展開だった。
 今日の授業のあとで武井先生が、「生徒が発見者になれる授業を目指している」と話していた。普通の観察の授業であれば、観察の対象を明らかにするという意味でも、教師が生物の名前を真っ先に教えてしまう。しかし、発見者である生徒にとっては、その生物とは初めて出会うことになる。未知との出会いを大切にすることで、生徒ははじめて発見者となる。
 実際、今回の頭蓋骨の授業でも、最後まで名前は明かされなかった。もしもこれが、最初に「イヌの骨だよ」と紹介されていたとする(イヌではないのだが)。すると生徒は、これまでに知っているイヌの情報から、イヌの形態や生態を想起した状態で観察する事になってしまうだ。すると、手で見た情報が、イヌというラベリングによって精細さを欠くことも考えられそうだ。
 知っている情報ではなく、手で『見る』ことによって得られた情報からその生物の特徴を捉えるという行為こそ、本当の意味での『見る』ということ、観察するということに他ならない。知識とは、誰かが見つけた生物の名前を覚えることではなく、自分の手元から見たことや感じたことを言葉にする、常に私からはじまるものなんだと思う。

「じゃあ、上はどっち?」


 生徒たちはすぐさま前に置かれた頭蓋骨を手にとって、様々な場所を触って手で『見る』。そして手で見て気づいたことや分かったことを口々に言い、どんどん言葉にしていく。たちまち生徒たちの様々な気づきが飛び交う。ものすごい情報量だ。目で見るよりも情報量が圧倒的に多い。武井先生はそれを丁寧に受け止めながら、生徒たちに言葉で問いかける形で返していく。

 その中で、最初の方で印象に残った問いかけがある。

「じゃあ、上はどっち?」

 という問いかけだ。どちらが頭蓋骨の上かなんて、目で見れば一目瞭然、手で触ってもなんとなく上下の判別はできそうだ。生徒たちもすぐさま、正しく上下の向きを認識して頭蓋骨を持つ。そこで武井先生はさらに問いかける。
「なんでそっちが上だと思う?」
 なんで?と問いかけられて、私は一瞬、なんでって?と思った。なんでも何も、頭はこっちが上だから•••と思っていると、生徒たちはじっと手で『見る』。そして、口々に見たことを言う。
「この丸くふくらんでいるところに脳みそがありそうだから」
「脳みそ小さいのかなあ」
「この向きに置くと安定するよ」
「歯のつき方がこの向きで下向きだから」
「ん?ここの穴は鼻の穴かな?」
「ざらざらしているなあ」
「耳はどこだ?」
 武井先生の「じゃあ、上はどっち?」という問いかけは、なんとなく目で見たり、目で見なくとも手で触ればわかりそうな事だ。そこにあえて根拠を持たせるような問いかけで、動物の形態的な特徴を骨からくわしく『見る』ことを求めている。問いかけたあとの生徒の観察の視点が明らかに変化した。手で『見る』解像度が高まり、さらにそこには無い脳や耳を想像しながら観察している。そして、手で『見る』骨の上下が、目で見る上下よりも形態的な特徴を明らかにして捉えることができている。 

誰もが納得する言葉をさがす

 その後、生徒たちが手で『みる』ことによって発見した事柄を、武井先生と生徒の対話によって言葉で記録に残していく。当然板書は見ることができないし、スケッチや図示も難しい。発見を共有するには、その場にいる誰もが分かる、納得する言葉にする必要がある。
 例えば、頭蓋骨の目があったと考えられる部分の穴の、位置と大きさを表現するために、みんなが納得する言葉をさがす。

(生徒)「目があった穴の位置は、上から見て前後のちょうど半分くらいの位置に穴が横に2つ並んでいる。」
(生徒)「大きさは100円玉がちょうど入るくらいの大きさかなあ?」
(生徒)「いや、もっと大きくない?3センチ?500円玉くらい?」
(先生)「500円玉いま持ってないなあ・・・(私たち参観者に向けて)誰か持ってる方います?」(たまたま持っている人が500円渡す)
(生徒)「あ!、ぴったり入る!500円玉くらいの大きさだ。」
(先生)「じゃあ大きさは500円玉が入るくらい、にしましょう。」

 私も、自分の目の前に用意されていた同じ動物の頭蓋骨を目で見て触っていたのに、このやりとりを聞くまで気付いていないことばかりだった。
 こうやって発見したことをもとに、誰もが納得する言葉をさがす行為こそ、科学の過程そのものではないだろうか。そして経験と結びついた言葉が知識となっていく。これは目が見える見えないは全く関係がない。しかし普段の私の授業は、目で見えている事に囚われすぎて、科学の大事なプロセスを蔑ろにしているなあと痛感させられた。科学的であるということは、条件やデータにこだわるだけではなく、誰もが納得する表現にするために、言葉をどれだけ尽くしたかということも重要だと思った。

分かる、できるを楽しむ

 こんな感じで2時間続きの授業がすぐに終わった。生徒の集中力と好奇心もものすごく、何より手で『見る』ことによって自ら知識を生み出していくことを楽しんでいた。その原動力は、自分で分かるようになること、できるようになることを楽しむ姿勢にあるのではないかと思った。
 学校教育では、どうしても「分かる」とか「できる」が評価の対象となる。それが評価基準という目に見える形で可視化され、格付けや序列の材料として利用されて機能する。すると当然ながら、「分からない」「できない」が可視化されることへの拒絶反応から、「分かる」とか「できる」ようになることに消極的になってしまう。ともすれば、分からなくてもいい、できなくてもいい、という論調に、生徒も教師も流されやすくなってしまう。しかしそれは、学校教育の「分かる」とか「できる」を評価して過剰に可視化しようとするくびきから逃れただけで、何の解決にもなっていない。

 今回の手で『見る』授業には、分かる、できる楽しさを自分の手元に取り戻すためのノウハウやヒントがたくさん隠されている。今回の参観だけでそれが全て分かった訳では無いが、まずは自分の授業でも、生徒と一緒に分かる、できるを楽しむ時間をつくることができるように心がけたい。

(すこし付け足し)インクルーシブ教育に対するモヤモヤ

 今回の授業参観の振り返りで、最近のインクルーシブ教育への方向性について話題になった。私も、様々な特性を持った子どもたちが、分け隔てなく同じ教室で学ぶという方向性に異論はない。しかし、現状のままインクルーシブ教育を実践しようとした場合、目に見える範疇においてのみ、色んな特性を持った子どもたちが一緒に学んでいるように見せかけたような実践になりかねないと危惧している。全ての子どもが分かる、できるを自分の手元に取り戻して、分かる、できるを楽しめる環境を作ることは至難の技だと思う。残念ながら現状では、先にも述べたように、みんな分からなくてもいい、できなくてもいいと、目に見える評価のくびきから逃れながらも、その実格差を助長するような誤ったインクルーシブ教育が行われかねない。
 その意味において、今回参観した筑波大学附属視覚特別支援学校や、日本の特別支援学校が果たして来た役割は大きく、これまで培って来た実践のノウハウは、これからの教室に生かすべきものだと思う。
 

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