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なぜ人は物語が好きなのか

長文ファンの皆様おはようございます。

人間の学習能力を考えるとき、最も特徴的なのは「少ない事例から学ぶこと」ではないかと思います。

「言語の本質」の中で、人間が言語を習得することができるのは、アダプション推論にあるのではないかと書かれています。アダプション推論とは「結果から原因を推論する」とも言われています。

一般的に演繹法はルールや法則から理解するのに対し、帰納法は事例を並べてそこから共通点を抜き出し理解します。

アダプション推論は演繹法に似ていながら、目の前の出来事からなぜそうなったのかを推論する、または推論しながら目の前の出来事を観察することだと理解しています。

例文を考えてみました。

演繹→みんな違ってみんないいのだ。ほら私もいいし、あなたもいい。

帰納→私もいいし、あなたもいい。てことはみんな違ってみんないい。

アダプション→あなたいいなあ。おそらくみんないいからだろう。

ともかくアダプションは、事例の背景を推論しているのが大きなポイントだと思っています。

しかし、考えてみるとこれはなんの根拠もなく目の前の事例を、勝手に背景を想像して理解してしまうということなのでおっちょこちょいな方法ではあります。ただ、圧倒的に事例の数が少なくて済む。

私はこのアダプション推論は「物語生成能力」にも近いのではないかと考えています。

これを拡大解釈します。

世界は複雑で壮大で、演繹も帰納もなかなか機能しません。得に複雑系の世界では尚更です。

しかし、理解しないとどう振舞っていいかもわからない。ここで、私たちはアダプション推論を使い目の前の出来事を理解しようとします。ある物語から事例を理解すると言ってもいいかもしれません。

人間はただ出来事を眺めることができず、勝手に推論してしまう。しかし、推論が及ぶ生活範囲を超えると理解ができずストレスを感じる。そこに物語をはめ込むとスッキリする。

ということです。宗教の始まりは、壮大なアダプション推論であったのかもしれないと妄想しています。毎日太陽があがる。おそらく、、。といったように。

機械学習のようにたくさんのデータがいらないのは、人間が少ない事例から推論できるからだと思います。しかし、その推論は物語によって行われているので、逆に物語を通じてしか世界を見ることができないとも言えるかもしれません。

AIのチューニングは、正確に世界を記述するかどうかではなく、事実を人間が耐え得る物語の範囲に収められるかどうかにかかっているようにも思えます。

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