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ずるい人

やたらと暑い、梅雨の時期だった。

放課後に映画を観に行った。
じっとしているだけでも汗ばんでしまうような日だった。首筋を伝う汗を見られたくなかった。汗臭かったらどうしようとか、もっと汗染みが目立たない服にすればよかったとか、そんなことばかり考えていた。


人生で初めてのデートだった。

ずっと気になっていた映画だったのに、肝心の中身をほとんど覚えていない。劇中のキスシーンにやたらとドキドキして、彼はどんな気持ちでこのシーンを見ているのかが気になって仕方がなかったことだけははっきり覚えている。

その日は朝から落ち着かなかった。正直に言えば、映画の約束を取り付け、強引に日程まで決めた日以来、私の心は冷静とは程遠い状態だった。

それも仕方がないと思う。
だって、全てが初めてのことだったのだ。

***

私には恋愛経験が全くなかった。成人して数年経っていたけれど、一度も誰かとお付き合いをしたことがなかったのだ。
好きになった人はいた。でも告白はできなかった。
友達に泣きながら相談したこともある。結局その人には既に相手がいたとわかり、その時もまた泣いた。
自分に自信がなかった。傷つくのも怖かった。特別にもなれず、関係が壊れてしまうくらいなら、いっそ友達でいた方が良いと思っていた。

そう思って日々に追われていたら、いつのまにか恋愛感情がわからなくなっていた。
友人たちの恋バナを聞けば「幸せになってくれ〜!」と思うし、小説や映画の登場人物たちの恋愛模様も楽しんでいた。でも私はあくまで傍観者であり、その世界の登場人物ではないと感じていた。

そんな状態だったから、私は片思いに随分長い間気がつくことができなかった。

***

彼とは同級生だった。学年が上がり、同じゼミに所属した。

好きになったきっかけは、きっととても些細なことだったのだと思う。
大きくも小さくもない、日常の中の些細なことの積み重ね。笑顔だったり、行動だったり、他愛もない会話だったり。

彼は真面目で、気が利いて、責任感が強い人だった。そして笑顔がとても素敵な人だった。
私は彼の考え方や行動を尊敬していたし、毎朝満開の笑顔で言ってくれる「おはよう」が大好きだった。自分の名前はあまり好きではなかったけれど、彼が呼んでくれると少し好きになれる気がした。

私は彼のことをもっと知りたかった。
「何を考えているのかわからない。だからもっと話がしたい」
そんな感情が私の中でぼんやりと輪郭を持ち始めていた。

それが恋だとわかったのはいつだっただろうか。
自分の気持ちを自覚しても、告白する勇気は出なかった。
受け入れてもらえると思えなかった。傷つきたくなかった。

ぐるぐると悩んでいるとき、飲みに誘われた。彼と、彼ととても仲の良い女友達と、私の3人。
なんで誘ってもらえたんだろう、と思った。彼と彼女はとても仲が良さそうで、よく2人で話したり飲みに行っていることを知っていたから。
2人はもしかして付き合っているのかもと思っていた。知りたかった。だけど、知ってしまうのが怖かった。

そんな気分でも、美味しいものは美味しかった。ちょうどよくお酒も回ってきて、3人でいろんなことを話した。本当に楽しくて、ずっと続けば良いと思った。
途中で彼女が席を外した。彼と私、2人きりで残されてしまった。
途端に緊張してしまって、それを隠すためにグラスに手を伸ばした。
どうしよう、何を話したら良いんだろう、さっきまで何の話をしていたっけ。意識しすぎて何もわからなくなっていた。

混乱していたけれど会話が途切れることはなかった。2人でお酒を飲みながら話すのは、本当に本当に楽しかった。
思えば彼も酔っていたのだろう。ぽろっとこぼした言葉があった。今まで聞いたことがない本心が混じっていた。
もしかして、と思ってしまった。
確証はなかった。直接的な言葉は一切漏らしてくれなかったから。だけど今までのいろんなことを全部まとめて考えてみたら。もしかしたら、彼も。

***

その頃の私たちは、○○に行きたい気分だ、なんて話をよくしていた。でも私から一緒に行こうと誘うことはできなかった。

3人で飲んでから数日後、「映画に行きたい」という話が持ち上がった。今まではその場限りの話で、実際に計画なんて立たなかった。
もう想像するだけは嫌だった。だから。

「いつなら空いてる?」

そうしてどうにかこうにか日付を決め、作品を決め、時間を決めた。
そこからはあっという間だった。楽しみだね、と言い合うだけで幸せだった。

そして当日。
私にとって人生で初めてのデートだった。

***

映画が終わったあとは、お店に入ったりカフェに入ったり、冗談を言い合いながらあたりをひたすら歩き回った。何を話したかは覚えていない。私はとにかく幸せだった。彼も口元がいつもより緩んでいた。ただただこの時間を終わらせたくなかった。

恋愛経験がないことをあれほど悔やんだときはない。
本当は手くらい繋いでみたかった。だけど一体何をどうしたら良いのか、本当にわからなかった。私にできたのは、いつもより少し近い距離で歩くことだけだった。

そして私は何もできず、何も言えなかった。電車の中で彼にLINEをしながら泣きそうな気持ちになっていた。今まで感じたことがないくらい楽しかったのに。私は彼のことが好きなんだと、嫌ってほどにわかってしまったのに。

「私は彼が好きなんだ。」
自分の感情がやっと確かなものになったこの日を逃したら、言えない気がした。
電車を降りた後、彼に電話をした。深夜だった。
言い出せなくて回り道ばかりの会話にも彼は付き合ってくれた。
心臓の音がうるさい。そんな小説みたいなことを思いながら、拙い言葉を絞り出した。

***

気が付けばあの日から季節はいくつも移り変わり、そろそろ一年が経つ。
また梅雨の時期になったら映画でも観に行こうか。
今度はあなたから。


読んでくれてありがとうございます。 ゆるゆる更新ですが、よろしければまたお付き合いくださいね。