「意味の形成過程」

 意味の形態には、物質の形態と同様、三つの形態があると前述した。三つの形態は、気体、液体、固体に照応する。それはマクロな観点でいくと、空、海、大地に照応する。さらにこれは、井筒の意識の構造モデルと照応する。阿頼耶識は空、中間領域は海、表層意識は大地である。しかし、これをもっと厳密に考えれば、阿頼耶識は空ではなく、宙である。宇宙的な場からエネルギーが出て、そのエネルギーが海に移り、それはやがて泡沫になり、破裂し空へ還る。これは意味の循環運動である。この意味の変遷の中には、重層的に様々なものが詰まっている。
 井筒の意識の構造モデルは、存在と意味にも対応している。つまり、あらゆる存在と意味は、このような運動の中に在る。イスラム神秘主義の研究者であるアンリ・コルバンが言うように、意味の原初的な姿は雲のようなものである。
 宙と空には同じ作用が働いている。空の風は、宙においてはエネルギーの揺らぎである。空では風が雲を呼び、集めて、雨雲にし、やがて雨という液体にするように、宙のエネルギー同士は働き合って、自由に運動していたエネルギーに一定の運動の形式を与える。そこには液体を支配するような重力が働いている。
 自由に動いていたエネルギーが、働き合い、そこに一定の形式が成立することで、意味の元型が成立する。これがいわゆる、神自身の分節と照応する。事物ではないが、潜在的な意味の世界、すなわち阿頼耶識において分節する意味である。イスラム神秘主義における神名も、カバラにおけるセフィロトの分節もここで成立する。
 神名もカバラのセフィロトの分節も、神自身の分節であるが、非常に抽象的である。というのも、まだ気体における分節で、事物ではなく、いわば絶対者が重々無尽に持つ意味の、原初の分節になるからである。しかし、絶対者に基づき意味付けをする、という営為は全ての宗教で共通している。何も神秘主義に特有のものではない。ただ神秘主義はそれに重点を置き、言語化し詳らかにしただけである。例えば、殺人はしてはならない、という律法も絶対という意味に基づき作られたものである。宗教における律法というのは、ただの決まり事ではなく、絶対という意味から考えられた、価値における意味である。
 ここで私たちには唯識論的な考え方と直感が必要になる。全ては阿頼耶識から生ずるのであり、阿頼耶識は個人的な意識を超えて、存在者全てに通じている場であり、この阿頼耶識の奥には心王という、井筒のいう意識のゼロポイントがある。この心王、意識のゼロポイントが絶対者であり、この絶対者における、原初のエネルギーの揺らぎ、これが気体的な意味で、この意味を言語化したのが全ての宗教に共通する営為なのである。そしてこの気体的な意味は直感を通して把握される。なんでそうなるかは分からないが、そうだと思わざるを得ないもの、換言すれば直感的に把握されたものが、例えば殺人はしてはならない、という律法なのである。ウィトゲンシュタイン風に言えば、ただそう示されているものである。
 偶像崇拝をしてはならない、という神の物象化を禁ずる律法も、神という絶対性の意味に基づく。モーセの十戒というのも、絶対性から始めに考えられる、十の意味なのである。カバラのセフィロトで言えば、ケテル(王冠)という頭を象徴するものから、ビナー(理解)やコクマー(知恵)が派生する。王冠の意味には、すでに理解や知恵、という意味が重層的に存在する。王冠というのも、象徴的な意味であり、抽象的である。その意味の形態はモヤモヤとした気体である。10個のセフィラは、他のセフィラも同様に重層的な意味の在り方をしている。ただ、小径で繋がれたセフィラが、意味的な連関が強く、その意味の連関により、一つのセフィラが限定されている。例えば、ティファレト(美)には、ケセド(慈悲)、ゲブラー(峻厳)、ネツァク(勝利)、ホド(栄光)、などの意味連関があり、美に重層的に内包されている意味を分節した形になっている。慈悲を以て存在者と接するのは美しいことであるし、峻厳を以て生きるのは美しいことである。その美しさは精神的な勝利であるし、この世を超越した栄光でもある。
 美も王冠も、絶対という意味に内包されたもので、それを表したのがセフィロトなのである。イスラム神秘主義の神名も、表現形態こそ違うものの、志向し、追求したものは同様である。
 前述した通り、エネルギーはどこまでも意味に照応する。エネルギーが働き合い、始めに出来た形式が元型で、セフィロトのセフィラや、イスラム神秘主義の神名がそれである。この二つの神秘主義は、両者ともここから世界が顕現するのだが、例えば10個のセフィラから万物が形成されるというのは、少し考えにくいとは思う。しかし、セフィラも神名も事物における意味ではなく、象徴的で抽象的な意味であった。ということはこれらの意味は非決定的であり、かつ非限定的であり、それ故一般的な意味である。だからこそあらゆる現象の意味を内包するのである。
 そしてこのエネルギーの働き合いは、対生成と対消滅を起こし、泡沫のように固体を生成しては消滅する。前述した煮え滾る湯を想像してもらえると良い。宙にある気体的なエネルギーは働き合い、練り込まれ、やがて重力を持ち、液体のようなドロドロしたエネルギーになる。そのエネルギーは沸々と煮え滾り、泡沫を生む。これが意味変遷であり、意識変遷であり、存在変遷でもある。阿頼耶識に気体的な意味があり、M領域が液体的な意味、表層意識に泡沫のような意味がある。現象とは泡沫である。私たちの意識も泡沫のようであることは、少し意識を見つめてみれば分かる。或る時は、あちらで意識がポツっと浮かび、或る時はこちらで意識がポツっと浮かぶ。ポツっと意識が浮かべば、次の瞬間、意識とその対象は破裂し、次の対象が浮かんでくる。絶え間なく、浮かび上がる泡沫、それが意識なのである。
 当然、エネルギーを与え続ければ、液体は全て蒸発し、泡沫もなくなる。全て空に行くように出来ている。すなわち死ぬ。しかし空に蒸発した意味は、空で固まり雲になり、また雨を大地に降らす。そこからまた更なる意味が生まれる。
 しかし、コルバンが言うように、あの世とこの世は一体である。私たちは今も生死を繰り返している。私たちは宙からのエネルギーを受け、海を通して、それを形にし、また空へと放つ。阿頼耶識が魂の場であるなら、私たちは魂から働く意味を、M領域という想像力の場を通して掴み、それを形にするのである。哲学者であろうが、文学者であろうが、音楽家であろうが、スポーツ選手であろうが、皆この業の中にいるのである。

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