「直感と意味―哲学という一者の多化―」

 世界が示されているのは、世界を遡及しいていった時に、無内包のものに至るからである。無内包というのは、それ以上遡及することが不可能なものである。例えば、仏教のように色即是空というのも、西田のように絶対無において、あらゆるものが在るというのも、この無内包の遡及不可能性において、世界のあらゆる意味が示されているからである。

 この無内包の遡及不可能性が、揺るぎないものであり、絶対的なものであるからこそ、印象や雰囲気といった、直感的に捉える意味が意義を持つ。換言すれば、この無内包の遡及不可能性が、直感を保障するのである。

 現象の世界には有るものと無いものがある。しかし、意味の世界においては、実際には如何かという可能性がない。意味の世界においては、私たちがその意味を感じ取る限り、その意味は在るのであり、換言すれば、意味の世界は想像力の行き届く限り、世界は広がるのであり、そこには無限の可能性が有る。ペガサスもドラゴンも、妖怪も幽霊も、意味の世界ではただ在るのである。

 唯識論では、個人的な意識を超えた場が考えられ、西田も純粋経験は個人を超えていると言っている。永井均の〈私〉も個人的な主体のことではない。その辺りの議論は、その辺りの著作を読んでもらい、考えてもらえば良いだろうと思う。私がここで紙面を割くまでもないだろう。

 いずれにしても、この世界は無の場に包摂される形であり、その空間は意味に満ちている。そして直感はその意味を捉えるのであり、どこまでもこの世界に存在する意味を捉えているのである。だからこそ、印象や雰囲気という意味、それ自体が間違うことは有り得ない。私たちが誤るのは、ただ感じ取った意味を、悟性において言語化する時のみなのである。

 例えば、どこかの国では神と呼ばれるものが、どこかの国ではヤハウェと呼ばれ、どこかの国ではアッラーと呼ばれる。以上の議論を踏まえれば、私たちがただ言語化した時に、神の名前が異なるだけであり、志向する絶対者という意味自体は、みな同様のものを志向していると言えよう。そして、倫理というものは、その絶対性を分析することにより生成された意味である。殺人をしては“絶対に”いけない。嘘をついては“絶対に”いけない、等。

 意味というものは、前著『心の研究』で書いたように、知情意、真善美の三つの組み合わせに照応するように出来ている。私たちが絶対という意味を考えた時、そこには論理的な絶対もあるのだが、倫理的な絶対もある。どちらが先行するかは分からないが、論理的な絶対が先立つとしても、自然に倫理的な絶対という意味に移り、考えてしまうのであり、その時に神の命令としての倫理の律法が成立したのである。だから、倫理も道徳も、決して人工的で偶然的なものではなく、意味の世界に元から潜在的に在ったのである。人間は発達した意識によってそれを分析した。

 多様な宗教が、多様な教えを説く。それは言語化したことによるズレなのだが、元々志向していた絶対という意味が同様なので、怪しい宗教を除けば、大体の宗教では凡その倫理は共通認識を持っている。そして、元々志向しているものは同様なので、他の宗教の神を排斥することはナンセンスである。ただ言語化している時にズレているだけで、もしそれを絶対視するなら、それは偶像崇拝である。言語とは最も根源的な対象化であり、神を対象化することが、偶像崇拝の本質的な意味なのだから。

 私はこのことを哲学上の思想についても、同じように思う。例えば、永井均のいう〈私〉とレヴィナスのいう他者は、正反対のものであるように思える。しかしレヴィナスのいう他者というのは、この世界の限界に触れた他者であり、この世界を超えた、この世界自体という意味の他者である。当然、ここでは個々の他者を指しているのではない。絶対に届くことのない、つまり対象化出来ない、無内包の他者を指しているのである。

 始まり、起点とするものは色々あるのだろう。それは「私」だったり「他者」だったりする。しかし、哲学上の概念というものは、いずれも形而上的な概念であり、それはもう少し詰めて考えてみれば、形而上という世界そのものに触れた概念群なのである。

 これらのことが、愛でも、善悪でも、自由でも、意志でも、時間・空間でも、みな同じことが言える。善悪は先に見たように、絶対性に触れたものである。そこには根拠なく、換言すれば遡及不可能的に示されている、世界のことである。意志もまた世界に触れている。遡及不可能である。そしてこれらの概念は、形而上という、絶対性の意味が分節され、生成された意味なのである。だから、愛の哲学も、意志の哲学も、私の哲学も、他者の哲学も、可能になる。

 例えば、愛というのも意志というのも、私も他者も、受動的であったり、能動的であったりする。しかし受動的というのも能動的というのも、見方を換えれば、どちらもどちらで有り得る。愛が受け入れることであり、意志が向かうことであっても、それはどの視点に立つかによる。そして、私というのも他者というのも、どの視点に立つかによって変わる。

 当然、〈私〉も他者も唯一無二だろう。しかし、そこに通じる道は、幾多もあるのである。通じる道が幾多もあるのだから、その起点は個々の他者であっても、個々の私であっても構わない。そもそも最終的な地点が無内包であるのに、なぜ、まだ一つの語に過ぎない「私」や「他者」である必要があるのだろう。それは、論理という同一律を前提としているからである。或る語は、同一のものから導出されるべきである、という論理法則を暗に前提としているのである。しかし、語というものがそもそも後付けであり、直感という感性が先行し、意味を捉えているならば、もはや同一の語というのは絶対的な指標にはならない。もちろん、語によって体系立てられたものが、理論なのではあるが、本質的なのは志向されたものにあるのではないだろうか。

 こう考えるなら、哲学史というのも、相容れない矛盾が多くあるものとして見なすものではなく、多視点的に捉えられた、形而上学と見なす方が至当ではないだろうか。どの哲学も相対的であって、大して意味を持たないと言っているわけではない。どの哲学も、その領野の中で生きているものだと考えるのである。それらが有機的に連関し合って、形而上の世界になるのだろう。

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