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書いて綴じて出す

先輩から賜った格言である。そう、そう決意してnoteを書き始めたはずなのに、また忙しさにかまけて何も書いていない。書くぞ~!

私は三拍子に弱いのだ。
食う、寝る、遊ぶ
長男の保育園で出会ったこの言葉に育児方針を見出した。

専門学校講師時代、同僚の先生2人とはよく深い話をした。
「どう生きるべきか」…そんな会話を毎日したくなるような多様な学生に接していたから、彼らの生き方に自分たちを省みることが多かった。

炭鉱町出身の同僚が、非常に自戒的な人で、自分の育ちや経験、都会への憧れや、町へのコンプレックス、情、ノスタルジーをよくはなした。その彼が語ってくれたその町の人の人生観が「吞んで、食って、チョン」だった。

雷が落ちたよう、とはこのこと。

色々な言葉で語り飾られた人生より、「呑んで、食って、はい、おしまい」という人生のなんと潔く、尊く、幸せなことか。
「やられた!」と思った。

この話は、その後そう語っていた人が潔く「チョン」とは逝かず本人も周りも苦しみ、惨めだった、というエピソードが続くのだが、それを聞いてもなおこの三拍子の崇高さは私の人生訓になった。
追い求めているうちはもしかしたら程遠いのかもしれないけど、人生の終わりに「そういえば」とおもいだして「呑んで食ってチョン」と死にたいものだ。

そして「書いて」「綴じて」「出す」
書けばいいのだ。私の中に何があるかを知るために。これは、今年修了を目指している修士論文についてのアドバイスだ。私は二年かけて基礎勉強をやっと終えたばかりだ。自分の中の仮説がきっと間違っているに違いない、と思って勉強ばかりして逃げ続けていたのだ。

そんな悩みを話すと背中を押してくれる先輩がいる。
友人もいる。
みんな私を応援してくれる。
恥ずかしがらずに、何の伏線もネタもなくとも素直にあるものを書けばいいのだ。

ついつい予防線を張っておこうと一ひねり加えたがる私は、きっと傷つきたくないのだと思う。ほっとくと素直に熱い思いを書いてしまうし、熱さは時に人を無防備に貶めたりしやすい、ということも知っている。だから慎重に慎重に、笑いの裏に本当に言いたいことを潜めて描き、どうともとれるように主題をぼかすのだ。…それは、私が意図せず野放図な発言で人を傷つけたり陥れたりしてしまった経験があるからだと思う。

正論だから言っていいわけではない。立場やその場の空気や、人の事情と共に感情がそこにはあるのだ。そう学んだ40年だったけど、そろそろ走り出してもいいのかもしれない。

明日は予備調査のためのインタビューの日。調査やデータが揃う前に、自分が何を持っているのか、書き出すことはもう始めてもいいのかもしれない、そう確信を持って言えるようになった。


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