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荒ぶる野生

クマ、シカ、雪虫(アブラムシ)、ネズミ、タヌキ、キツネ…野生界に落ち着きがない。クマについてはあれこれ言われているのであまり言及したくはないが、この地に16年暮らしていて我が家の隣の神社脇を通って山へ登って行った、という目撃情報があるのは初めてのこと。我が家より1キロ2キロ山へ上った先で仕留められたことは1,2回あったが、こんなに人里まで、しかも高速道路の高架下をくぐってクマが下りてくることなんてまずなかった。

6月にはこの神社の脇をクマが通ったそうだ


一方、シカは人里まで下りてくることはしばしばあった。川伝いに我が家まで下りて水分補給することは度々あったと思う。海辺に鹿の群れがいる場合は、だいたい張碓川沿いに国道下をくぐってやってくるものだった。ところがここ1,2年うちの周りのシカは強気になってきた。朝起きて台所の窓をのぞくとシカが居る。じっと見ていても何も感じないのか群れでうちの畑をほじくり返す。

毛づくろいなんかしちゃって


娘と一緒に散歩をしていると、国道をまっすぐ横切ったシカの足跡がくっきり。夜遅く自宅に帰ると動物の気配。じっと暗闇に目を怒らし、玄関先の電気を点けるとパッと走り去る白いお尻…この動きの鈍さ、道東のシカじゃあないんだから。もっと緊張感があっても良くないか?

タヌキ、キツネは昔ばなしにも度々登場するほど人里の動物ではある。冬になるとつがいになり、我が家の土台下で暮らすタヌキには度々出くわしてきた。キツネも北海道ではごみを漁り、観光客からのおこぼれを期待して道沿いにたたずんでいることも多い。
が、しかし。ここ最近かなり図々しさが増してきた。先日などは夫の工房(今は私の妹が時々使っている作業小屋)の机の上、しかも妹がきれいに道具を入れておいたトレーの中にお糞が鎮座していた。飼い猫や犬なら「あら~、上手に真ん中にできたのね」と褒めたいところだが、いや違う。人間の手が散々使ってきた馴染みの道具の上にお糞を施すなど、完全に人間側を馬鹿にしていないか?泣く泣く川で道具を洗う妹の背中を見ながら私は自分のふがいなさを感じる。

お糞を洗い落とす妹の背中。ふがいない姉でゴメン。

そう、コロナ禍をきっかけに夫が郷里で活動するようになって3年。夫不在の三年間で野生の動物たちはかなり調子に乗り始めた。私が外で仕事をしていて、家を守る人間がいなかったことが原因だろう。いや、それ以上に野生の動物を凌駕するうちの夫の気が薄れていることが一番大きな要因であるに違いない。
夫は外に鹿を見れば携帯カメラをオンにして追いかけたりタヌキやキツネとも対等に戦おうと棒をもって走って追いかけたりする。考える前に体がそう動いてしまうようだ。動くものを見たら追いかけてしまう、狩猟民族として正しい身体性だ(※夫の家系はは農耕民族のはずだが)。

何しろ私たちがこのボロ家を直して住み始めたころ周りを覆っていたクマザサが翌年には一気に後退したのだ。夫の「俺はここにいる!」気迫は野生を怖気づかせる。

私はつくづくこの3年間で相手にしてきた荒ぶる野生に自尊心を傷つけられてきていたのだ。隣を通るクマ。逃げないシカ。目の前に置かれるお糞。壁伝いになど走らず堂々と私の脚の上を走っていくネズミ。普段は森の枯葉の下にいるヤマトゴキブリが、夫が国へ帰ってからは我が家の中にも出始めたり…。(北海道にもゴキブリは居るのだ。)

ふがいない。一人では何もできない自分。クマを近寄らせてしまい、シカが群れで来て動線上でタヌキに脱糞される。私はいつの間にか自信を失い、視野が狭くなり、焦燥感にあえいでいた。大黒柱として金を稼がねば、と焦る重圧、子どもたちのスケジュールを完璧にマネージしなくては、とのしかかる責任感、中途半端にしか納めていない学問に何かしらのけじめをつけたいと入学した大学院で優秀な若者と肩を並べるプレッシャー。目の前は真っ暗闇だ。しかも夏前に脳動脈瘤がみつかって破裂寸前だ、とかいや、まだ大丈夫、とか検査に次ぐ検査で散々脅かされたりなどしてすっかり弱気にもなっていた。

…鬱々とした日々を過ごすこととなった2023年。ネズミを退治しまくっていた11月。私の人生はいったい何なんだ。自然と涙がにじみ、視界を歪めなくもない。そんな年もあと3週間ほどで終わる。あっという間だ。

ところがここにきて、私の心境に変化が起こることが立て続けに起こった。長くなったので次にまた機会を設けてしたためることにしよう。とりあえず私は荒ぶる野生に怯えないことにした。自分を責めすぎないことにした。頑張りすぎないことにした。

強くなる。…それは努力で精進する、と言う意味ではなく足腰を鍛えてとりあえずこの冬を乗り切ろう、という覚悟である。



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