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私小説のようなエッセイのような限りなく実話に近い小説『麻生優作はアメリカで名前を呼ばれたくない』4

 優作はカオリと初めて言い争ったあの日のことを思い出していた。

「カオリのやつ、カレーが付いたお玉を絨毯に投げつけやがって。あの後、絨毯にこびりついたカレーを拭き取るのにどれだけ苦労したことか! しかもあの絨毯は、カオリに買ってぇ~と強請られて買ったペルシャ絨毯だったんだぞ! しらんけど!!」

 優作は憎らしいカオリの顔を思い出しながら、今頃、日本でどうしているのだろうと思った。
 カオリはあの後、自分の言葉通り、都内にある2LDKのマンションを見つけて引っ越した。
 夫が単身赴任ということで、男を連れ込んでいるかもしれない。かもしれない、というよりほぼ連れ込んでいるに決まっている。結婚する前には分からなかったカオリの本性は、結婚後、時が立つにつれ古い屋敷の埃のようにもくもくと現れた。

「ああ、くそっ!」

 優作は頭をかきむしった。途中で、これ以上かきむしったら残りわずかな毛を失うかもしれないと気づいて慌ててやめた。
 化粧台に行って鏡を見た。禿げが目立ってきていた。

「これって、偏食とストレスのせいもあるのかなぁ。栄養のあるものが食べたいな。カオリのやつ。日本でうまいもんくってんだろうなぁ。日本はアメリカと違ってうまいもんがいっぱいあるからなぁ、ああ! くそっ! 日本のコンビニ行きてぇー!」

 優作は育毛剤を手のひらに落とし、DJがレコードを回すように塗り込んだ。
 アメリカへ移住し、失って初めて気づいたことだが、日本のコンビニは素晴らしかった。アメリカにもセブンイレブンはあるが、日本と比べると驚くほど質が悪い。そのくせ高額。おまけに従業員の態度は最悪で(といってもアメリカではそれが普通なのだが)、客がレジの前に立ってもテレビや本に目を向けたまま、こちらが声をかけない限り何もしてこない。かと思えば、こちらがじっくり品物を選んでいるのに、馴れ馴れしく声をかけてきて、お前はどこの野球ファンだ? とか、フットボール選手の誰が好きだ? などと長い付き合いの友人のようにべらべらと話しかけてくる。食べ物に関してはもう、腹正しいことこの上ない。
 夜中にあまりにもお腹がすき、一番近くのセブンイレブンに車を走らせたところ、カウンターの暖かい食べ物コーナーにいつから置いてあったのかわからない、しなびた老人の陰茎のようなソーセージがホットプレート上でぐるぐると回転していて吐き気をもよおした。しかも値段は三ドルだった。

「やっぱり日本はいい!」

 優作はコンビニで買ったカップヌードルを啜りながら唸った。
 日本はまだまだブラック企業が多く、働くには最悪かもしれないが、なんといっても飯が美味い。

 とにかく飯がうまいのだ!
 うまい飯で、溜まりまくった毒素と社会的ストレスまで浄化されるほど美味い!

 優作の実家近くの商店街では、今でもコロッケが60円程度で売られている。
 以前、出張で訪れたロサンゼルスの日系スーパーでコロッケを見かけ、高額だったが四個も買った。冷めていてあまり美味しくなかったが、それでも感動した。
 優作は熱々のコロッケを思い出してヨダレを垂れた。

「あー、せめてロスに行きたいなぁ。でも、今、行ったってあんな贅沢はもうできない」

 優作は天井を見上げた。
 カオリがいつも晩ご飯を作るのをめんどくさがって、商店街の60円コロッケを買っていた時、その度に怒っていたことを思い出した。

「こんな出来合いの、お菓子みたいなおかずを一家の大黒柱に与えるなよ!」

 などと、怒鳴った。

 今思えば酷いことを言った。今の自分なら、あのコロッケが一流ホテルの料理くらい貴重に思える。
 人は、失って初めて気づくのだ。まぁ、失わなくても気づく人もいるけれど。
 優作はアメリカという国の食べ物が、どうしてこんなにまずいのか、そしてこのマズさでどうして肥満になれるのかが理解できなかったが、その理由はアイスクリームにあるんじゃないかと思った。

 バケツサイズで売られているアメリカのアイスクリームはとても安い。

 若い頃からそういったものを食べているから、体が自動的に脂肪を溜め込む体質になっているんじゃないか。  優作はアイスクリームが好きじゃないのでそのことに感謝した。しかし、そのぶん白米がなによりも大好きだったから、アメリカのスーパーで売られているタイ米やカリフォルニア米で満足出来ず、日本の三倍の値段で売られている輸入白米を購入していた。体重は増えなかったが、そのぶん金が減った。

「もし、カオリが一緒にこっちへ来ていれば、自炊しなくてもよかったのに。なんで仕事から帰って来てクタクタなのにご飯も作って、さらに毎月の生活費をカオリのために日本へ送らなきゃならないんだ? 間違ってる! こんなもの、結婚と呼べるか、クソがぁ!」

 優作は米を研ぎながら涙を流していた。
 こんな事なら慰謝料払ってでも離婚しておけば良かった。幸い、子供もまだいなかったし、責任を取るのはカオリだけでいい。
 優作はそう思いながら、責任という言葉の意味を考えた。
 そもそも、責任ってなんだ?
 どうして日本では結婚相手に対して責任を負わなければいけないのだろう。だいたい、結婚イコール相手に対して責任を取るのがおかしい。アメリカでは離婚に特別な理由はいらない。愛がなくなったからとか、他に好きな人が出来たとか、そんな理由でも離婚ができる。言い出しっぺが慰謝料を払うこともない。払うのは、婚前契約した人かハリウッド俳優くらいだ。よくよく考えれば当然のことだ。なぜなら、人の気持ちは法では裁けない。一度結婚したからといって愛情もないのに一緒に居続けるのは拷問と同じ。
 どうして日本は離婚しにくい法律をわざわざ作っている?
 離婚者が増えると困るからか?
 増えたって別にいいじゃないか。仕事も結婚も、無理に続けることに意味などない。
 昔、アメリカ人の同僚が言った。

「日本は離婚率が低くてすごいね」

 優作は思った。

「愛し合っているから離婚しないのではない。離婚にかかるデメリットが大き過ぎるせいだ! アメリカは言い出しっぺが責任を取って慰謝料を払うシステムじゃないだろ? 貯金や資産だって互いに折半する。日本もそうなれば離婚率はぐんっと跳ね上がるさ!」

 そう返したかったが、説明できる英語力がなく、あははと苦笑いで流した優作だった。

「はぁ……もう、何もかも捨てて消えてしまいたい」

 優作は重い足取りで、明日のヤードセールに向けて家具を庭に運び出した。

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