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読書日記「いえ」 小野寺史宣fuminori

11月になったね。

金木犀の季節はあっという間に終わり、いまは文化の日がある三連休だよ!むっちゃん(仮名)は仕事かね?連休だとサービス業の人は忙しいんだろうね。海外からのお客さんもたくさん来る??

私は子どもの行事と関係なく過ごすようになってから曜日とか休日の感覚がにぶくなったよ。ときどきfacebookが「⚪︎⚪︎年の今日」みたいな画像を連れてきてくれるんだけど、それを見るとびっくりする!


西暦の数字を見ると数年前だなと認識するのに、画像を見ると「え?もっと昔じゃない?」と思ったりする。じゃあ、わたしの思うもっと前っていつなんだ?いつだと言われたら納得するんだ?と聞かれても、それはわからないのだけど。


うーん、なんとなく「すごく前」と思い浮かべるのは10年くらい前で、5年くらい前だと2年前くらいの感じ。でも場面によっては「もっと昔じゃない?」と思ったりもする。


その違いはなんだろう?脳みそにしまってある思い出の場所がちがうのかなぁ。引き出しの奥の方だと昔に感じて、いつも見える場所にある思い出だと「最近じゃん」とか思うのかなぁ。


あと、ずーっと会ってない子とメッセージしてても違和感がないのは、自分がその子とちょくせつ関わっていなくても、SNSがあるから近況をお互いにずっと見れてはいる状態だから、変わってる部分と変わってない部分、それが自分にとって好ましい場合は違和感がないと感じて、ちょっと苦手な部分が出てきちゃったりすると「あいつは変わっちゃったな」とかなるのかもしれないな、と思ったんだ。


どう思う??今度きかせてね。


さて、本の紹介をするね。

小野寺さんの本は何冊か読んでいるんだけど、ちょっと面白い作家さんなんだよ。わたしが読んだのは「ひと」「まち」「いえ」という平仮名タイトル3部作で、どれも前作の主人公が脇役で登場するんだ。


それでね、面白いのは文体。会話が多くて、頭の中で考えていること、普通ならわざわざ書かないようなつぶやきレベルの細かい心の揺れみたいなものまで書いてある。まとめないで、そのまま。


だからといってまどろっこしいわけじゃなくて、それがなんともいえない良いリズムで、慣れてくるとクセになる感じ。あと、登場人物がみんな正直なんだよね。大げさなことも言わないし、ドラマチックなことが起こるわけじゃないんだけど、ああ面白かったな、と思う。


知らない人と知り合うみたいな気持ちになるんだよ。「あー、この人のテンポはこういう感じなんだなー」と少しずつなじんでいく感じ。最初からしっくりと馴染む本も良いけど、親しくない人とちょっとずつ仲良くなるのも楽しいものでしょう?そういう感じでもある。


よかったら「ひと」から読んでみてね!


信号の変わり目で進もうとするか停まろうとするか。それは人によってちがう。対向車が途切れた一瞬を狙って右折しようとするくらいだから、大河は黄信号なら交差点に突っ込んでしまうタイプだった。(中略)それ以上はおれも言わなかった。助手席に乗せてもらってる身だから、ということもあるが。何よりもまず、友だちだから。変に正論を言っていやな気持ちにさせたくないから。


この、頭に浮かんだことを言うかどうかを悩むこと、あるよね?正論だけど、この人に言っても意味ないなーと思う場合とか、気まずくなってまで言うことかな?と思ったり。でもあとから「あのときちょっとでも気になったんだから言えばよかった」と、思うこともある。むずかしいよね。



 若菜の事情を知った多くの人たちが、歩けるだけよかったよ、と言う意味合いのことを言った。悪意からくる言葉ではない。好意からくる言葉だ。(中略)わかってる。(中略)でも。時間が経つとダメだ。特にこちらの気持ちがすさんでる時はどうしても思ってしまう。
 歩けるだけいい。そんなこと、自分が足を引きずるようになってから言え。


しんどいときってそうなるよね。人に対してネガティブな感情を持つことが苦手だから、そうなりそうなときには人に会いたくなくなるよ。わたしは巣篭もりして大丈夫そうになるまでじーっとしてるんだけど、発散しにいくタイプの人もいるよね。どちらが人として健全なんだろう?わからないけど。


こう言っては何だが、スーパーの店長はそんなに偉そうではない。銀行の支店長やデパートの店長ほどの店長感はない。(中略)
 だから、店長を出せ、と言ってくるお客様に、おれはこう言いたくなる。店長はお客様が思われるほど偉い感じではありませんがそれでもよろしいですか?


こういう文章の感じが、おもしろいなーと思う。


公園を出てからもしばらく歩き、通り沿いにあるファミレスに入った。(中略)まだ早い時間だったので、酒はなし。そして変なタイミングで解散した。まさに解散。カレシとカノジョにはふさわしくない言葉だ。
「キスはしなくてもいいから、観覧車には乗ろうよ」

あのね、この彼女が、すごくいい子なんですよ。すごく良い。欲しい。



ひどい目に遭わされたからそうするのではない。自分の意思を尊重されなくなってしまうから、そうするのだ。
 そしてひどい目に遭わせてしまった俺は、そのことに気づけない。すべてにおいて尊重しようとすることで、実際には意思を尊重しなくなってしまう。
 二人の間に起きたのは、たぶん、そういうことだ。



この主人公のいいところは、他人のことを理解しようと、ぼんやりと考え続けて行動するところまでやめないところなんだよね。それが、ぐちぐち考えているわけじゃなくて、うすくぼんやりっていうのがいい。



おれはいやなやつだ。人の好き嫌いも、たぶん多い。それはもう認めるしかない。この先もそんなには変わらないだろう。ただ、嫌いな人がいやな目に遭えばいいとは思わない。幸い、そう思うようにはできてない。
 安いテレビドラマなんかで、人は変われますよ、とよく言ったりする。おれは変えられないと思う。変えられる部分もあるというだけ。そこを端折って人は変われると言っちゃうのはダメだろう。

うむ。


人間、ものの感じ方は変えられない。これちょっといやだな、と感じてしまうのはしかたない。でも感じたあとの行動を変えることはできる。こうは動くまいと努めることはできる。その意味でのみ、人は変われる。ただし、とても難しい。それは、生きてるあいだずっと自分を律しつづけるということだから。


うむ。うむ。


ね、いい感じでしょう??



続きます・・・


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