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♯06【エッセイ】ぬるめのお湯で長くつかりたい


月見バーガー、秋渇き。

モンブランを横目に、
筆を執りまする。

ダラ





♯06『ダライズム』



わたしはこの頃、文筆家を気取っている。
SNSなどで、映画の解説やコラムを発表しているからだ。
活動を初めてから、もう直ぐ三年。
すっかり日常生活に映画観賞と文筆が根付いている。

数々の素晴らしい映像作品に出会い、
映画に対する気持ちは、以前より増している気がする。

だと言うのに、
その想いを口で述べようとすると言葉が詰まり、
「映画っていいよね」とか「映画って素敵ね」などの
薄っぺらな感想しか話せない。
時間を掛けて思いのまま文にするのはいいのだが、
他人との会話となると、映画の話題を弾ませることが出来ない。

評論家のように熱弁したいところだが、
語れないでいる。
わたしには何かが足りていないようだ。
その何かとは、
“揺るぎのない主張” なのではないかと思っている。


そもそも私は、これといった強い想いや、
押し通したい考えというものがあまり無い。

過去を思い返すと、
「ダラさんって協調性が無い」
と、勤務先の上司にスッパリ言われた事もあるくらいだ。

上司が部下に言う協調性が無いというのは
どういう意味なのか。
それは、頼んだ仕事しかしないという皮肉だ。

そんな事を言われたら、
大抵の人は落ち込んだり腹を立てたりすると思う。
しかし私はいともあっさり「はい、そうです」
などと言い、何か問題でも?といった空気を
漂わせ返事をしていた。
その態度は可愛げのなさ極まりなく、
今思うと、目上の人に対して随分と無礼な
組織の末端そのもの。
若かったとはいえ、酷かった。


日々の暮らしの中でも私は、
自ら進んで行動を起こさない。

何処へ行くか?と聞かれれば何処でもいいと言い、
何を食べるのか?と聞かれれば何でもいいと言う。

犬派か猫派か聞かれた時だって
「どっちも好き」
なんて曖昧な答えを返す。

彼らの、丸く潤んだ瞳や大きな耳は、どちらにしても
可愛いらしいではないか。
可愛くて決められない、、というか、
似たり寄ったりで対した差を感じていない、
とも言える。

つまりどっちも、というより、
どっちでもいいという事だ。

わたしは決して優柔不断ではない。
決断力には自信がある。根拠はない。
ただ内心、ほとんどのもの事はどっちでもいいし、
どうでもいいと思っている。
いや、言い切るのは危険だ。しかしやっぱり、
どうでもいい…
と思ってしまっている。

これが、協調性のない原因ではないだろうか。

こんな渇いた内面が滲み出ていたのだろう。
上司はひと言、私に喝を入れたかったという訳だ。

何の目的もなく、のらりくらりと生きている人間に
刺激を与えたかったのだ。
周りからは、興味のない事以外には
関心を示さないと思われているのは知っている。
ただ、それは自分が想像する以上だという事だ。

だからと言って、みなぎるパッションを剥き出しにして、
熱々のおでんみたいな顔で仕事に励む、
なんて事はわたしには少々、、
笑いが込み上げる。

だから重積を担う役割には就かない。
じゃななくて、就けないのだ。
ぼんやり、ただただ時間が過ぎていく、
生産性のない役どころが私には向いてる。
無駄な時間が過ぎて行く事が悪いとはまるで思わないし、野望や情熱なく今をお気楽に生きてさえいればいい。

一度きりの人生、
ゆっくりとして生ぬるく、躊躇いなく毎日をやおらに過ごしたい。

そうやって物書きを続けて行けたらと思っている。

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