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「FOR EVER MOZART」ゴダール監督//肉体を脱いでしまえば、思考だけがそこにある

正直、私はこの映画で何を理解したのかわからない。だけど、面白かったと
いうか、見て良かったというか、しっかり「映画を見た」感覚がある。

冒頭で、ゴダールとおじさんがエアサッカーをしている中、おそらくあるべきでない公園の道路で車が走っているを見て「実態があるかないか」を思考する映画なのではないかと想像し始めながら見た。なので、ここで書いてあることは超主観的に観察した結果、どう思ったか、でしかないなと思う。

とある作家がミュッセの公演をするためにサラエヴォに行くと言っている。そして映画監督の父親は資金難と自分のこだわりのため映画制作が難航しているようである。その2軸で物語は進んでいく。サラエヴォへ行く途中戦争に巻き込まれて作家は死ぬのだが、そこに悲壮感はなく、残された父親も悲壮感がない。むしろ「屍」(死んだ娘の代わりとなる女性)を映画の主演にさせ、執拗に演出を強要する。いや、どっちかというと「Oui」と何度も、いろんな言い方で言わせる。

言葉で肯定するが、そこに本当に肯定の意味があるのか。心が込められているのか。どう心を込めて肯定すれば良いのか。何度試しても父親である映画監督はOKを出さない。Oui, Noの繰り返しであり、ひたすら肯定を待つ女優(娘)はもう撮影を投げ出すしかない。それで映画は完成する。

死んでるとか、生きてるとか、サラエヴォかフランスなのかとか、戦地であるかないか、その境界線は交錯し、見ている側にも明確でない。私たちが見る「そうである/ない」Oui/Nonの白黒つける感覚が、どこまで芸術や映画に貢献しているのか、考えさせられる作品だった。

このシーンの奥行きもすごかったな

「このシーンは、この場所で、この時間帯で行われるから…」と、共通の認識を定義しながら撮影する行為って、本当に必要なのだろうか。芸術作品を作る妨げになっていないだろうか。と考えながら見るだけでも楽しかった。

ちなみに、ゴダールを見る度に思うのだけど、物語を追わせる映画ではないからこそ、一つ一つのカットが印象的で、映画の文法をぶった斬ることができるのではないかなと思う。映画の文法をぶった斬ることで、ファンタジーにもなってしまうし、観客を奇跡の世界に泳がせることができるのではないかな…と。

私は自分の文章を後で読んで意味がわかるか、若干心配だが、ひとまず今はこの作品に対して、こう考えている。途切れ途切れ入ってくるモーツァルトの音楽とか、ここで映像的に語られている「死者を映画に召喚する」という構造など、色々書くことはあるけれど、全て無意味な断片的な印象になってしまうので、次回見た時の自分に託そうと思う。

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