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Es winkt zu Fühlung fast aus allen Dingen…

Rainer Maria Rilke “Es winkt zu Fühlung fast aus allen Dingen…”

Es winkt zu Fühlung fast aus allen Dingen,
Aus jeder Wendung weht es her: Gedenk!
Ein Tag, an dem wir fremd vorübergingen,
Entschließt im künftigen sich zum Geshenk.

Wer rechnet unseren Ertrag? Wer trennt
Uns von den alten, den vergangnen Jahren?
Was haben wir seit Anbeginn erfahren,
Als daß sich eins im anderen erkennt?

Als daß an uns Gleichgültiges erwarmt?
O Haus, o Wiesenhang, o Abend licht,
Auf einmal bringst du’s beinah zum Gesicht
Und stehst an uns, umarmend und umarmt.

Durch alles Wesen reicht der eine Raum:
Weltinnenraum. Die Vögel fliegen still
Durch uns hindurch. O, der ich wachsen will,
Ich seh hinaus, und in mir wächst der Baum.

Ich sorge mich, und in mir ist das Haus.
Ich hüte mich, und in mir ist die Hut.
Geliebter, der ich wurde: an mir ruht
Der schönen Schöpfung Bild und weint sich aus.


『ほとんどすべての事物が感受するようにと合図する…』
 
ほとんどすべての事物から感受せよという合図がある、
どの転回からも囁く風が吹いてくる、思い出せ!と。
私たちがよそよそしく通り過ぎた一日が、
いつか決意して贈り物となってくれる。
 
誰がわれわれの収穫を数え上げるのか?誰がわれわれを
過ぎ去った者の歳月から切り離すのか?
はじめからわれわれが知り得たこと、それはただ、
一は他によっておのれを悟るということなのだろうか?
 
なんでもない存在が、われわれに触れて熱くなるということ?
おお 家よ、牧場の傾斜、夕映えよ、
おまえは不意にほとんどひとつの顔となり
われわれに寄り添い、抱きつ抱かれつ立っている。
 
すべての存在を貫いて一つの空間が広がる、すなわち
世界内面空間が。鳥たちは静かに
われわれの内部を貫いて飛ぶ。おお 育ちゆく私、
私が外部へ目を向ける、すると私の内部に樹が育つ。
 
私が思慮すると、私のうちに家が建つ。
私が警戒すると、私のうちに番人が立つ。
私は恋人になっていたのだ、私の傍には
うつくしい創造の姿が身を寄せてさめざめと泣いている。


1. 詩の形式
・第1連と第3連では偶数行と奇数行がそれぞれ対応し、脚韻を踏んでいる。
・第2、4、5連では1行目と4行目、2行目と3行目がそれぞれ脚韻を踏んでいる。
・第1連では2行目「Gedenk」と4行目「Geschenk」、第4連では1行目「Haus」2行目「Hut」で頭韻を踏んでいる。詩全体で「w」の音が多用されている。
 
2.「世界内面空間」と円環の運動について
ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日 - 1926年12月29日)
オーストリアの詩人。リルケは1900年末に交流を深めたヴォルプスヴェーデの画家たちや、1902年に師事したロダン(François-Auguste-René Rodin, 1840-1917)、セザンヌ(Paul Cézann, 1839-1906)から影響を受け、『新詩集(“Neue Gedichte“, 1907)』『マルテの手記(“Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge“, 1910)』において、「見ること」に重きを置いてきた。それは「個々の事物の存在の確かさを見る」ことであり、「常に外部世界を認識するという行為」を意味している。
この詩が書かれた1914年前後、彼は失恋などの苦痛な体験を通し、深い喪失感や生の無常、死の不安に苛まれる。同年、「転向」というタイトルの詩を書く。

もはや眼の仕事はなされた
こんどは心の仕事をするがいい
(…)
内部の男よ 見るがいい おまえの内部の少女(おとめ)を
幾千とも知れぬものから
おまえがとらえたこの少女
このやっと捉えたばかりの
まだいちども愛されたことない少女を

富岡近雄『新約リルケ詩集』193頁

ここで、リルケは10年近くに亘り実践してきた「眼の仕事」=事物を「見ること」から「心の仕事」へと転向した。「世界内面空間」(Weltinnenraum)という概念の出現である。「世界内面空間」概念は、突如として生まれたものでは無い。その萌芽は、「見ること」を重視していた時期にもすでに伺える。「純粋な見ること」(ein reines Sehen)という考え方が、既にその一つの端緒であったといえるだろう。リルケは真の「純粋な見ること」とは「再認識によって見ること」では無く、自己喪失(Selbstlosigkeit)の状態で「見ること」であると述べている。科学的/分析的に反省するのでは無く、「生きられた世界」を知覚するのだ。したがって、ここでの「見ること」は、単純な事物の客観化では無い。外部の世界に対しては完全に独立し、そして確かな自律性を保持している事物存在は、芸術作品の内部にあっては、運動(Bewegung)に満ち、「ちょうど水が容器の壁面の内側にたたえられているように」動揺と波動に満ちている。

彫刻の真意(それはつまり事物の本質ということであるが)に背くのは運動ではなかった。背くのはただ終わることのない運動、ほかの運動と均衡を持ちえない運動、事物の持つ限界を超えようとする運動であった。(…)一個の彫刻作品が持つ運動がどれほど大きいものであるにせよ、(…)彫刻そのものに還ってこなければならない。大きな円は閉じられなければならない、一つの事物としての芸術事物がその生で生涯を過ごす孤独な円は。

富岡近雄『新約リルケ詩集』317頁

自己喪失──つまり、事物存在と化した「私」が外部に向けた目は、内部に育つ「樹」として還帰する。内外を貫かれた事物存在どうしの起こす運動である。こうして大きな一つの閉じられた円環が生まれる。「心の仕事」に於いても同様である。外部に向けられた「思慮」や「警戒」は、円として閉じられるべく、内部で「家」や「番人」の形象を成す。事物は「見ること」だけでは、ただの顔を持たぬ事物に過ぎない。それが「世界内面空間」へと還ってくる運動の中で、「意味」という顔を得る。運動を通して循環する「私」と自己は、相互補完的であり、不可分な関係なのである。それは、第3連の「抱きつ抱かれつ」という言葉に最もよく表現されている。
外部と内部を貫くこれらの運動は、宗教的な営為としてのものだけでは無い。リルケは『オルフォイスへのソネット(“ Die Sonette an Orpheus“, 1923)』において、「そこに一本の樹が立ち昇った。 おお 純粋な超絶よ!/おお オルフォイスが歌う! おお 耳のなかに聳え立つ樹よ!」と詠んでいる。彼にとって「樹」が生える/育つ/立ち昇るということは、創造的行為の象徴なのだ。第4連での「家が建つ」「番人が立つ」も同様であり、「うつくしい創造の姿」が現れることにほかならない。また、第4連4行目「Schöpfung」が「天地創造」を表すときに用いられる点や、第1連4行目「Geshenk 贈り物」という語から、詩全体が神秘的な体験に包まれていることが読み取れる。
しかし、この詩では、まだリルケは自己の外部と内部の貫きや運動を深く自覚しているわけではないようだ。第2連から続く第3連にかけての「誰がわれわれの収穫を数え上げるのか?誰がわれわれを/過ぎ去った者の歳月から切り離すのか?/はじめからわれわれが知り得たこと、それはただ、/一は他によっておのれを悟るということなのだろうか?/なんでもない存在が、われわれに触れて熱くなるということ?」という疑問形の連続からその様子が垣間見られる。この詩は以降の彼の「世界内面空間」の拡大/純化を予感させる、「Wendung 転回」から吹いてくる一陣の「風」なのではないだろうか。
 
 
・参考文献
Robert Schinzinger, DAS DEUTSCHE GEDICHT, 第三書房, 1969
神品芳夫『リルケ詩集』土曜美術社出版販売, 2009
志村ふくみ『晩禱―リルケを読む』人文書院, 2012
富岡近雄『新約リルケ詩集』郁文堂, 2003

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