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諦観の眼

久々に高校の同期とご飯に行ってきた。
というか初めてだったかもしれない。サシは。

いろいろ話したけど、一番印象的だったのは、高校の先生たちの中にいた、「諦観の眼」を持つ人々の話だ。

そういう人たちは、遠くを見ていて、全てを諦めているのか受け入れているのか、そんな雰囲気を醸し出している。

30,40代くらいの人でもそういう眼をしている先生はいたのだが、50,60代の人たちには敵わない。

僕は「諦観の眼」を持っている人のことがこれまであまり好きではなかった。だって、あまりリアクションがない、何考えてるかわからないんだもの。

でも反対に、彼女は「諦観の眼」を持っている人が好きで、早くそうなりたいのだという。

何が違うか言語化できていないけれど、話しててはっきり違うねとわかったのは、「死にたいと思ったことがあるかどうか」だった。

幼少期からお互いにそれなりの問題を抱えていて、暗い影を持っていそうだという意味では似ているし、「諦観の眼」を持っている人もおそらくそれなりの過去があったんだろうと推察されるから、そういった意味では似ているのかもしれない。けれど、「死にたいと思ったことがあるかどうか」のラインは僕には超えられないものだ。(文章がごちゃついたけどまあいいか)

「20歳くらいで死んでいるかと思った。」と言われて、ああそんなことを高校の時から言ってたなと思い出した。でも逆に自分は、「何があろうと124歳くらいまで生きたいね。」と返した。124という数字は朧げながら浮かんできたテキトーな数字だけど、そんな簡単には死にたくない。できることがまだまだたくさんある、という考え方だ。

そんな話をしているうちに、あんまり好きになれなかったタイプの人たちに
「諦観の眼」を持つ人という『名前』をつけ、「これまでよくわからなかったけど、理解してみたい、話してみたいな。」と思えた面白い会話だった。

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