作品のテーマとして、信頼ということについて考えてみる(12/18
僕は他人の作ったご飯を食べることができない。
潔癖症というわけではない。
ピンポイントで「お袋の味」とか「おばあちゃんの味」とか、「みんなで鍋を突く」みたいな行為が無理だ。
これ、わかる人にはわかるし、わからない人には全くわからないと思う。
一瞬でも「ダメ」と判定されたものは、もう味がしない。この性格のせいで苦労することも多い。特に、大人数がいるようなアートプロジェクトでは、「みんなで食事」とか「みんなでお酒」がなぜかコミュニケーションのスタンダードになっている。前時代的だと思っても、その場に行くしかないのだ。誰も疑問を持たないのはなぜだろう(愚痴)。
じゃあなんでダメなのか、食べられないのかというと簡単で、シンプルに食べ物が信用できないのだ。
例えば寿司屋の店主が握った寿司は食べられるが、その人がスウェットとサンダルを履いて握った寿司は多分食べられない。握ったものが不潔かどうかというよりも、その物への信用がキーポイントになる。
信用するというのは、不思議だ。
社会で生活を送るには、周の人や、社会を信頼できる人の方が楽だ。現代社会で全てを疑ってかかっていては、あまりにもコストがかかりすぎて現実的ではない。
しかし一方で、信用する事はリスクがある。人は不思議なもので、全てを信用して生きているとだんだんと不幸になってくる。信用するということはリスクがある。少しだけ相手を疑った方が、精神的には安定する。
同じ人の中にも、著しく信頼できない部分と、信頼できる部分が同居する。人の信頼は、全ての物事に要素として一つずつ備わっているものだ。そのパロメーターの合計値が高い人を、「信用できる人」と呼んだりする。
さて、次の作品のテーマとして「信頼」を考えている。
「人は人を信じることができるか?」という事の、もっと原始的な部分を見てみたい。……こう書くと、デスゲームの主催をしたいみたいに聞こえてちょっと怪しい感じもするが、決してそういうことではない。
他人を騙す人が多い社会だと、人は安心して暮らす事ができない。当たり前の事だ。
例えば料理を食べるのは、料理する人を信頼しているからだ。きちんと調理器具は消毒され、食べられる食材が使われていると信じている。
発酵食品を食べられるのは、それが食べられると信じる事ができるからだ。
車の運転を安心してできるのは、他のドライバーを信頼しているからだ。
僕が福島に住んでいるのは、政府の発表と住民の声を信用したからだ。
しかし、ある瞬間、途端にそれを信頼できなくなる事がある。
内閣の支持率が低迷するように、今身の回りで起きていることが「嘘」だと感じた時、人は安心して暮らす事ができなくなる。
嘘と本当の境目は曖昧なものだ。
そこで、その信頼を形にすることはできないか?と考えている。
たとえば手首にカッターの刃を当てて、見ず知らずの人に預ける事ができるか?
他人の作った発酵食品を食べられるか?(僕は無理だけど)。同じように、初めて会った人が振る舞う手料理を、信じて口に入れることはできるか?
水中で酸素ボンベの栓を他人に預ける事ができるか?
視界を塞いで人の案内だけでどこまで歩けるか?
そういうことを考えてみようと思う。
どんな形になるかわからないけれど。
もし信頼ができるようになったら、スウェットサンダル寿司も食べられるようになるのかもしれない(すでにもう無理な気がするけど)
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