見出し画像

被災地でのアート事業で「調査される迷惑」を思い出した(11月7日)

夜中に思ったことを書き残します。

ここ数日、頭が痛い案件が多い。

とあるプロジェクトについて、実施者からも「地元との多少の軋轢はしょうがない(むしろアートはそういうものだ)」みたいな言葉を聞いて頭を抱えた。

「アート」という言葉は社会にとって、特に特定の世代以降にとっては、まだまだ異物だ。そんな状況を鑑みず、強引なプロジェクト運営に走ると求心力を失う。

地方でのアート作品制作に関しては、「準備中には地元と多少の軋轢や問題が起こったものの、完成した作品を見て、反対していた住民も喜んでくれた」みたいな夢物語がいまだに一部では信じられている節がある。

人間関係……と言ってしまえばそれまでだが、実際はそんな単純な話ではない。そして「いつか認められるはず」というストーリーは、地元に迷惑をかけることの免罪符にはならない。「作品が完成したら感動するから、お前ら迷惑かけられても我慢しろ」なんて、冷静に考えてそんな交渉ありえないだろう。しっかり根気強く相手と話をしていくしかない。

「調査」と「アート」を絡める場合は特に注意が必要だと思う。「アート」になる過程で覆い隠してしまうものは、思いの外たくさんある。調査の過程で、作品にする途中で、展示会場で、多くの要素が恣意的に改竄され、それが「さも当然のように」作品としてその場に現れる。

万人受けする感動的なストーリーは、細かな部分を単純化して覆い隠す。それに加担することが恐ろしい。感動は免罪符にはならない

そんなことを思いながら、昔読んだ「調査される迷惑」という本を思い出した。

「調査されるという迷惑」は2008年出版の本だが、そこには大学などの”研究する側”の無自覚な傲慢さに迷惑する地元の声が多数まとめられている。第一章の「調査地被害」は今から50年近く前に書かれた文章だが、現在も改善されていないことも多い。

特にフィールドワークに慣れていない研究室なんかは、いまだ無自覚に「偉い先生」を気取り地元から白い目を向けられていたりする。ここでも、大学が調査のために強引に地域に入り、地元の人が迷惑がっている……という愚痴を聞く。調査という行為は、地域にとって何のメリットもない。

強引な調査は、中央集権的な力を強める。そしてそれは、中央から地方に向けるような事業全般にも言える。特に政府主導で「地方移住」「地域信仰」「被災地復興」が掲げられるようになった現在では、より無自覚で、悪意のない迷惑が蔓延する。「地域のため」という言葉は、すでにそれ自体が中央集権的な権力構造を背負う。そのことを、常に自戒していきたい




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?