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隠れAIRは邪道なのか?

今、僕の携わっている事業は、復興系の予算で広い意味でアーティスト・イン・レジデンスの形式を踏襲したプログラムをしている。もちろん最終的な事業目的は復興だが、その手段としてアーティスト・イン・レジデンスの形式が必要だという関係者と相談し、事業を実施している

アーティスト・イン・レジデンスという仕組みはアート文化の発展に重要なものだ。その仕組みに社会が新たな価値を見出してくれることは、アート文化にとっても良いことのはずだ。しかし、そうやって事業をしていると、たまによく知らない人から変に絡まれたり、色々言われたりする

いわく「復興費用を使っているということは国の言いなりになっておりアーティストを利用している」とか、「復興の文脈なら簡単にお金が出るんでしょ?」とか。もはや難癖

個別への反論は置いておくとして、ちょっと気にあることがあった。それは「正しいアートプロジェクト(AIR)」と「悪いアートプロジェクト(AIR)」みたいな対比が無意識下に形成されてないか?ということ

よく聞く論調は、ざっくりと以下のような感じ

・文化庁の補助金を活用しているものは良いプログラムだが、他の分野の補助金で運営するプログラムは継続性に欠けるから悪い
・補助金を活用するよりも自主財源で運営するプログラムのほうが、継続性があるような気がする
・自主財源じゃなくても、大きな会社が財政の補助で入っているプログラムは自由度が高くて良い
・自治体と連携するプログラムは課題がある。だけど、地域密着型のプロジェクトは否定しづらい
・他の分野と連携して実施するプログラムはイノベーションが起きて良い
・国際交流プログラムは良い

これらが叶えられていると、ポイントが加算され、ポイントが多いほど良いプログラムとなる。かなり暴論という自覚はある。実際これって全部ただの印象では?という気もする

普通の事業運営で言えば、どんな補助金であれ事業趣旨と合致するなら貴賎はないはずだし、予算の出所がどこであるかということと継続性は関係ないはずだ。スタートアップで補助金や他の組織から予算の補助を受けるのは変なことじゃないし(実際には自主財源の方が維持できていないもの多くない?)という気がする

もっと言えば「レベルの高いものに補助したい国」「”プログラムの自走”という夢を追う国」「大きな会社を絡めて欲しい国」「補助金用途に縛られないという夢」「イノベーションという妄想」といった、方々からの要請を、アート業界の夢と希望にすり替えた話にも見える。AIRの状況は千差万別だから、どこが正しいやりかただとかいう議論はあまり意味ないのでは?(もちろん各地のプレイヤーはそんなことわかりきっていると思うけど

さて本題、昨日AIRプログラム実施者のMTGに参加させてもらった時、「隠れAIR」という話題になった。

隠れAIRとは、「他の分野の補助やサポートを受けて、AIR的な活動を実施する」プログラムのことだ

例えば、観光系の予算を活用したAIRもある。学校に入って行う教育系のAIR
もある。復興系の予算で実施している僕のやっているプログラムも隠れAIRにあたる。有名な某芸術祭やビエンナーレも、いろいろな他の分野の予算を活用してプログラムを実施している。僕のプログラムも隠れAIRだ

経験上、隠れAIRはその予算の性質上「アート事業です」と表立っていうことを禁じられていることが多い。それは、役場や国の縦割り文化の影響か、補助金の性質上のことが多い

印象的だったのは、隠れAIRもついて世代ごとにだいぶ反応が違ったことだ。ある世代以上は「あぁ、なんかそんなのもあるらしいね」くらいの反応である一方で、若い世代は深く同感していた

そりゃ偏りはあると思う。日本のAIRへの補助金は、補助総額が年々減額されているうえ、「いつもの面子」が強すぎて若者がチャレンジするにはハードルが高すぎる。大きな施設とか、大学の後押しとか、著名な後見人がいないと競争に参加すらできない

AIRプログラムの開始にはタイミングもある。空いた施設が出たとか、地域に協力者が現れたとか、そのタイミングで動かないといけないことも多々ある。「文化庁の補助金が取れるまで気長に待とう」「AIRするまえにまずは自主財源を5年かけて貯めて……」なんてやってるわけにはいかない。そんな時にAIRプログラムの価値を認めてくれる分野が他にあるなら、自ずとそちらと手を組むことになる。

文化庁のハードルが高い。一方で、農業や空き家活用などさまざまな分野にいる隠れAIRは「劣ったもの」なのか?というと、決してそんなことはない。形式よりも、その場で起こっていることが一番大切だ






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