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- 英語を学ぶ vol.7 - 英語で'英語'を学ぶ ② おじさんの気づき・・・

実践の場になったら、おじさんだって頑張っちゃう!

日々、英語をシコシコ勉強している中年のおっさんですが、基礎力をつけるフェーズは、大変でした。久々の勉強、覚えた単語はすぐ忘れ、リスニングはミリ単位でしか向上しない。それでも、なんとかインプットしたものを吐き出す練習のところまでたどり着いた訳です。で、会話や共同作業という実践の場になると、実は、単純な英語力以上の力が必要とされ、社会人歴=社畜歴のおじさんがやってきたことがプラスに働くシーンがあるということに気づきました。

英語でコミュニケーションする場面ってのが増えてくる

エゴ丸出しの人たちをなだめてきた経験

例えば、グループでディスカッションして、簡単に発表する時。
4人、5人と集まって話をしだすと、収拾がつかなくなることは往々にしてあることです。そんな時、グループのアイデアを折り合いよくとりまとめるってのは、割と容易いことでした。

促したり全体をリードしてアイデアを集める。全員からもれなく聞き出す、バラバラと出たアイデアをチームで1つの形にする。発表する人、骨格のアイデアを採用する人、具体的な話を採用する人、チームみんなに役割というか、花を持たせながら、適切なアウトプットを作る。で、よかったよかった、Kudos to ~!って感じです。自分の意見は置いておいて回しに徹すればいいって話で。

レベルは違いますが、仕事で、自分の手柄しか考えない人たちを、利益を納得させつつ妥協点を見つけて取りまとめてた経験があると労なくできます。各々の落しどころを探りながら、合意を得るのって政治みたいで面白かったりします。(グループワークの時に、見た目おっさんだからリードのお鉢が回ってくるなんて日本的なことはないので、ぼーっとしていると、薄い存在のまま終わってしまう。) 

間違ってもいいから胆力を以て、堂々と発言すればいい

学校で授業を受ける際に、意図的にやってみようと思うことがありました。
それは、授業にプロアクティブに参加すること。私は、学校の授業って言うと、先生の言うことを黙って聞く、板書をひたすら写すみたいなの記憶がありました。か、寝てたか。けど、Adobe Stock とかShuttlerstockなどのイメージフォトでよく目にする西洋の世界ってのはそんなんじゃないんですよ。

なんか、カジュアルかつ積極的な会話、双方向な感じ。楽しそうなわけです。なんで、知ってることには合いの手を入れたり、間違ってもいいから思ったことを発言したり (実際、こうですか?って聞いたことでNoって言われることもある)、質問したりとにかく存在感を出す「私、います感」授業に対する意識改革の練習も込みです。一般的にですが、日本の人は、真面目だけど、発言しない、間違いを恐れるって言われることがあります。まあ、そうだと思います。間違う→笑われる→恥→かきたくない、さすが、恥の文化。恥ずかしい思いはしたくないんですよ。日本にいるならそれでもいいんでしょうけど、ここだとそれは、美徳ではない。グイグイ系でいかないとダメみたいだから。

そういう場合、人前でたくさん間違いもし、否定もされと、いっぱい恥をかいたおじさんは、こういうシーンで思い切りよくできたりするもんです。慣れると「No」って言われても、あ、そうなんだ、くらいにしか思わない。ただ、これだけ意識しても、日本以外の国の人の積極性には目を見張るものがあります。

勝手に妄想して憧れたインタラクティブな感じ

自身の進捗に合わせた語学学校の使い方

何もやらずにひとまず語学学校に来た、だと効率悪いって話はしましたが、「プロジェクト管理やったことある」おじさんともなれば、語学学校に求めるものを明確にすると、効果的に勉強できるのかなと思ったりします。

つまり、今やってる英語学習における自分のゴールを設定して(厳密には、英語学習のゴールなんてないですが) 、そのうちのどのプロセスを学校でカバーするかを決める。例えば、アウトプット=吐き出す作業と、人とやった方が効率的な作業(話す、書く→添削)の部分とか。そうすると、今はこれを練習するフェーズって意識ができるので、効率は高まるってことです。全部の技能をまんべんなくって進めるよりも。ゴールからステップバックしていく計画策定と進捗管理も経験がものをいいますしね。

あと、クラスのレベルを意図的に少し落とすのも意外と効果があります。物足りないところはありますが、先生の指示がわかってない人とかに「説明する」行為は、結構できるできないで違いが出る。「自分だけ理解する」のと、「理解したことを英語で人に伝える」のは違う。英語でわかってないと、言葉が出てこないこともあるし。これできるようになれるとステップアップ感あります。

ちょっとした余裕が生む「脱」日本式授業

ということで、日本式一方通行授業からの脱却や授業から何を学ぶかという発想。これは社会を経験したおじさんじゃないとなかなかできないんじゃないかしら。ん、まあ、老若はあんま関係ないかも。ただ、背筋を伸ばして、黙ってノートを取るのが授業じゃないとは思うんです。単純に西洋化すればそれでいいのかって話ではないですが、今いるところのやり方に適応するってのは、これ重要だし、なかなかできないことなんですよ
社会での経験が直接「英語を学ぶ」に作用することはそんなに多くはないかと思いますが、間接的あるいは基礎的なところで役に立つことはあるんじゃない?と、そういうお話でした。


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