(メモ2024)

5/11
(「バタイユ」)
その特徴はなにだろうか。それは〈信じる者たちの共同体〉こそがほんとうの愛の共同体となることである。〈共に神を信じる者たち〉同士のあいだでのみ、真の共同性がありうる。一つの同じ信仰のうちに一致し(communier)、 一体化の感情 (communion)に結び合わされた真の共同体 (communauté) が可能なのだ。
(では、おずおずとキリスト・イエスが何か、何者か解らずも内心に掲げる ときがある ような人々のための、地下墳墓(や地下聖堂)でロウソクを灯し よろこび 共に持つ 人々の ーがあってもいいだろう)
4/27
(ステュアート・シム)歴史という概念に終わりがあることは明らかだとしても、歴史が終わることはない、私利私欲に駆られたイデオローグが終焉を宣言したとしても、歴史が終わりを迎えることなどはありえないというデリダの指摘は正しい。


共産主義の支配が終わった後(ロシアの場合、その期間は七〇年を超えた)、旧ソ連内であれほど急速に資本主義が復活した経緯について考えてみればよい。まるで、資本主義という亡霊がきちんと悪魔祓いされていなかったかのようだ。


4/27
Qioさんまた進化してるw



ボッティチェルリ


4/26
(シュタイナー)
『途上の光』の最初の言葉、「眼が見ることのできる前に、涙を流すのをやめなければならない」を取り上げて下さい。この言葉を今日も明日も、繰り返して取り上げて下さい。そうすれ ば言葉が生命を帯び始めます。そして、皆さんがその中に混ざり込もうとする雑念を排除するなら、この言葉が皆さんの存在の中心になって生き始めます。そして、その中心が自分の中からいろいろな思考内容を生み出して、限りなく生産的になるのです。そのとき初めて皆さんは、 何を克服しなければならないのかが分かってきます。いたるところで混ざり込んでくる正しくない思考を克服しなければならない、ということがです。

記憶は人生全体に重大な影響を及ぼします。皆さん、自分の過去の行為をふり返って見るとき、利己主義的な後悔の念にかられてはなりません。皆さんが思い出す事柄は、皆さんにとって、事柄をもっとよく行なえるようにするためにあるのでなければなりません。
大切なのは過去から学ぶことです。自分の魂によりよい能力を与えるために、記憶を用いるのです。私たちが想起するとき、受け身で回想するのではなく、一見まったくどうでもいいような事柄でも、それを想起することで学習するのです。そうすることができたとき、私たちは自分の魂の背骨を強化するのです。




既視感は、マルクス主義が凋落しはじめる「発端」の段階でも すでに存在しているというわけだ。凋落の源は、はるか前から存在するのだから。


平安時代にすでに使われていた最高の褒め言葉「いまめく」は、「モダンな趣をそなえている」という意味であった。

この、質 を剥ぎ取ったようなものはなんだ



〈メタボリズム〉?


4/21

ムンク 家系樹



ムンク
ジャコメッティの


4/14


フィリッポ・リッピ(洗礼者ヨハネの感覚)
フィリッポ・リッピ(聖母戴冠)
顔の密集群による天国での顔のような効果
フラ(僧)・アンジェリコ(天使のような)

4/13
ゲーテの方はシラーをどう見てたのか。
(シラーの方はゲーテを全面的で調和の取れた人間にして詩人と見ていた のは書かれてるけど。)


(りょうこさんの詩)(重体験すべきと感じていた詩)
それはとても暑く息苦しい船底
粗末な汚れたローブ
導かれそこへ来たと思った
暑い国をゆく船
苦難を喜びと変えよ!((私注:熱の重々しさが伝わる)

(しかし暑くて苦しい
そう
私はこのままここで死ぬのだろう
この嫌な匂いのする
息苦しい場所で
何もかも
腐るように死ぬのだろう)((このまま治らなかった時に向かう先))

わたしは恋焦がれていた
ふるさとの
小さな可憐な花たちが咲く
きらめく光に満ちた
ひんやりとした春((光の感度から一気に肌に突き刺さる冷気))

小鳥たちがさえずり
虫たちも忙しそうに飛び回っている
ときおり山から吹き下ろす
冷たい空気が
春の陽に温められたけだるさを
一掃する((これもまた心象が急転換される))

それは単なる断片だ((?何だろう))


私は熱を出した
苦しい二日を過ぎ
熱の下がったひんやりした朝

満開の花桃を見ようと
窓ガラスへ近づいた

そのときあの男がそこに写っていた((りょうこさんの中で何者なのか))
(アーモンド型の目をして
うつろにそこにいる。
断片のまま)((謎の断片という語))

窓を開けると

突然 春の命が
私を満たした。

私は驚いて
立ち尽くした

そして私は嗚咽した((満たされた情景とまた、嗚咽という生々しい身体性の落差))

あのアーモンド型の目をした男と
いっしょに
嗚咽した((誰だ))


わたしは 
ふるさとへ帰ってきたのだ

そしてその瞬間
男の苦しみは癒やされた

霊の力が花を咲かせているのを
共に見たからだ。((この男とはどういう関係性が結ばれているのだろうか))

わたしたちは
この時のないスペースに
存在しているのだ。

((追体験して自分の中に留めて、無意識の内に咀嚼させるべき作品だと思いました。それが何か自分に作用をおよぼしそうな感じ))


4/11
(イングリット・フェテル・リー)
なぜなら豊かさとは、ものを蓄積することではなく、感覚を活性化す るさまざまな質感の中に身を置くことなのだから。

(シュタイナー)
そして物質存在から離れたときの思考は、遠く恒星のところにまで飛翔し、恒星そのものの中で安らいでいるかのようです。境域の彼方にまで達したその思考は、恒星の中で安らぎます。そして私たちの感情は惑星の中で動き、私たちの意志は地球の働きにみずからを組み込みます。こうして思考、感情、意志は、宇宙の中で別々に分けられるのです。


ブルクハルトが、芸術、宗教、国家、〜(経済?)と拮抗したり、どれかが優勢になる形で、それぞれの時代や世界史の見方を動的に捉えた意味。

チマーブエ
これが、よかれとなる感性の違いを感じる。
時代と、ヨーロッパ人?の?


ジョット
単純に美しい


4/6

ロベルト・マッタ
マックス・エルンスト 
未来時の記憶を刻んでるかのよう


4/5
「イリュミナシオン」を再び開いたときだった、僕が恐怖を覚えたのは。精神の無秩序を『聖なるもの」などとはもう思えなくなった。ある題材に幾つも想念をもりこむこと、多数のイメージの中から選択すること、こういった文学の手法の行き着く果てのところで僕の心は動揺するようになってしまった。この極限のところに詩の独創性は宿っている。『ぼくの健康は脅かされた。恐怖がやってきた。こうランボーは書いている。サン・ディジェでの新たな体験(精神科インターンでの患者達の狂気の傾向、突然の粗暴さ、奇矯な叫び、化け物のように醜い顔、といった暗黒面)に衝撃を受けて、今まさに僕はこれと同じ精神の動揺を知ったところだ。〔略〕僕は、自分の詩の野心に反して、彼ら精神病者たちから遠ざかりつつある。そしてわかるだろう、僕は、こうした反応が詩を処刑するのではないかと恐れているんだ。
(一九一六年八月、テオドール・フラエンケル宛てのブルトンの手紙)
(一個の精神が動いている)

マッソン


4/2
LGBTQや環境活動も資本主義内における顚倒活動

聖フランチェスコ的なやり方、あり方、抗

(マルクス)
「人間は、まさしく対象的世界の加工形成のなかではじめて現実的に、一つの類的存在としての実を示す。この生産は人間の、仕事をしている活動的な類的生活である。この生産をつうじて自然は、人間のした仕事および人間の現実として現われる。したがって労働の対象は、人間の類的生活の対象化〔されたもの〕である。というのは、人間は自分を、意識のなかでのようにただ知的にだけでなく、仕事的、現実的に二重化するからであり、したがって、自分によって創造された世界のなかで自分をまのあたり見るからである。」
3/30
(何も生み出さぬ欠片)
働きかけについて
最大的には独裁者、全体主義者、王、神権的、〜、〜
一人のものに許すべきか?
否。皆が権力なしにそうなってほしい。 
→民主主義としてもう実現されて(しまって)いる
この 結果後の たゆたい

われわれは独善的権力(の発揮)を許していない(内心)
愛や真性や美があるもの以外(これも独善かは置いておいて)
人的体制はととのっている
(直近現代の良い部分 そういう人たちの存在)(全時代そうといわれれば、、、)


3/28
(「西洋哲学史」昭和堂 著者複数)
ベーメは、靴屋の職人であったが、銀の器に太陽の光があたって輝くのを見て、ひとつの発見をした。す なわち、神はそれが自己を現わすためには自己以外のものを必要とするということ、言い換えれば、神が自己の本質を現わすためには否定的な原理(悪)を必要とする、というのがそれである。


ソフィスト中の最大の人はプロタゴラス (Protagoras, B.C.480 頃-410頃)である。彼は「人間は万物の尺度である。 あるものについてはあるということの、ないものについてはないということの」ということばによって有名である


トラシュマコス (Thrasymachos, B.C.430 頃アテナイに来る)はプラトンの『国家」に登場し、「正義とは強者の利益に他ならない」と主張した人物としておなじみである。


(ソクラテスについて)
彼にはまた所かまわず自失して立ちつくす性癖があった。短いときは数分であったが、長いときは一昼夜立ちつくすこともあったという。その間は誰が呼んでも叫んでもびくともせず、忘我のまま硬直して立っているのであった。


3/27
(シュタイナー (金曜日のための)木曜日の詩)
偉大にして広大無辺なる霊よ、 あなたの命の内で私は地球での生を営む
あなたの内に私はいる。 あなたは存在する。
私はあなたの内にいる
案内人は私をあなたへと導いた 私はあなたの内に生きる あなたの霊性は 私自身の存在の原像である
あなたは存在する 霊は広大無辺な霊となった
神の至福は広がる 新たな世界創造へと あなたは存在する。私がいる。あなたがいる
3/19
労働を終えると裁く側か裁かれる側に?


海外の人間の漸時流入 
3/18
(シュタイナー)
 「おお自然よ、お前は私の肉体を破滅させるだけだ。私はお前と何の結びつきもない」
「思考と感情と意志にもかかわらず、私の内部では何かが現れては消える。私の本当の存在はお前とは何の関わりもない」。
この二つの思考内容は私たちの中に宇宙の謎を生じさせ、そして新しい見方を教えます。私たちは今、宇宙との結びつきを感じ始めるのです。そして自分を宇宙の中にあって、宇宙の過程に組み込まれている生命存在であると感じ始めます。

3/16
(バルデュス)
克服された時間、たぶんこれが芸術の定義として最良なのではないだろうか?
3/15


(イタリアン・セオリー 岡田温司さん)
ニュンフの「マニア」(mania)とは、記憶のマニアのことである。それはおそらくもっとも根源的な「マニア」である。というのも、この語の語根は、熱狂、錯乱した高揚、陶酔といったことを示すものではまったくなくて、むしろ「思考すること」、「思考しつつ想起すること」 それ自体(サンスクリットのmanyate、ゾロアスター教の聖典集アヴェスターのmainyeite はまさに思考を意味する)を指しているからである。「狂乱」(mainomai)と「思い出すこと」(mimnesko)「マニア」とムネモシュネとのあいだには、深い関連性があるのだ。


145


ベッティーニは、マルセル・モースの「贈与論」を手がかりに、それを解釈しようと試みる。このフランスの偉大な人類学者は、異なる文化や言語にまたがり、地理的にも遠く離れた場所を結びつける「ク ラ交換」や、神への贈与の必要性について論じたのだった。「クラ」がいったん第三者の手を経なければならないように、極北の供物にも第三者の手が介在している。


3/13
(シュタイナー)
人間の超感覚的な意識は、エーテル体の内部に或る種の像を生み出す力を見てとることができる。その力は、エーテル体が古太陽紀において、霊的本性たちの行為を通して最初の素質を得したときのことを像として表わすことができる。この最初の素質は、月紀と地球紀を通じて発達していく。


(アラン・ヴィルコンドレ「バルデュス、自身を語る」)シュールレアリスムで重要な点は、加入することより出ることだった。


私がイタリアを訪れたのは青春時代でした。一九一五年です。母がリルケと一緒に私に会いにきました。とても強烈で感動的な思い出です。リルケは子供たちとすぐに親しくなれる何かを持っていました。私たちはひそかな好意で結ばれていました。彼は私をヴァレーにある邸宅に迎えてくれたのですが、まわりの手つかずの風景はプッサンの絵のようで、おそらくそこで私は十七世紀のこの巨匠プッサンを偏愛するようになったのだと思います。

3/12
(ラース・スヴェンセン「退屈の小さな哲学」)
アリストテレス〔前三八四—前三三二〕が強調したように、僕たちはすべての主題において同じ水準の正確さに到達することはできず、主題自体が許す範囲の正確さで満足しなければならない

3/11
(シュタイナー)私たちの時代にふさわしい見霊体験は、まず自分の衝動、欲望などを個人的な関心から一般的、世界的な関心にまで高めるというやり方で、自分の道徳上の進歩をはかるという課題に応えることを求めています


その第一は思考の集中です。自分の作り出した思考内容に集中する行です。次は、意志に主導権を与える行、さらに快と不快のバランスをとる行、世の中との関わりの中で肯定的な態度に徹する行、偏見を排する行と続きます。

3/10
現代人の魂は、超感覚世界を理解することなしに、人生とのぎりぎりの関係を取り結ぶことができなくなっているからである。

3/8
(マルクス・ガブリエル)
「真理と方法」でガダマーが示してみせるのは、芸術作品の解釈も、およそ人間的な世界を理解することも、自然を理解するのとはまったく違った類いのものだということです。方法がなくても、人間的な真理を探求することはできるからです。
3/5
(リルケ)
いつでも被造物のほうに向けられて、
わたしたちがそこに観るのは、自由なものの鏡映にすぎない。
わたしたちに暗まされた鏡映だけ。あるいは一個の動物の、
もの言わぬ動物の見上げる眼が、どこまでも静かにわたしたちを貫いていること。
これが運命というものだ――対峙しているということ。
2/28

カルロス・シュヴァーべ エリュシオンの野


2/26
(絵画案)
1/28
「真剣な(/過ぎる)者の気持ち悪さ」
「信仰 の色動態」
1/29
「わたしたちと、わたしたちの自由を留保する愛の子の対比」
「星月夜とにんげん」
1/30
「ガイスト」
「原罪にも関わらずのその果ての」
「労働の軋み」
2/3
「応身的」
2/8
「暗闇の荒波と遠くに見える光」
「生きているキリスト」
「経験の織物の網目」

2/9
「人類のためにおぼろげに聳えている聖杯」
2/10
「一人の人間の現在状況を一幅の絵画に、その背後に、宇宙的な変化の様相を入れ子構造的に絵画で拡大的に重ねて」
「睡眠時に世界から開放されていることの幸せ」
2/16
「消失を願って、十字形に丘で手を広げる人間」
「エロヒム的キリスト」
「内なるナイフ」
「針」
「家魔」
「マグマ の描写」
「願われるヒトビト」
「小さな違和感という芽のカタチ」

2/26
「埋葬の埋葬の埋葬の埋葬の埋葬の」


2/10
やっぱりaiに自作の詩ポエトリーリーディングさせるのとか面白い(Qioさん)
VR空間(ARとかMRでもいいけど(現実空間寄りでも))の世界内に、キャラクター配置させて、そこに辿り着いて、キャラクタークリックすると朗読してくれる出会いとか面白そう。(近未来世界に対して、そういった形で残しておくのもいいかも)


(シュタイナー)
なぜなら、進化の理想に感動する力そのものが、
すでに進化の持つ浄福感を感じているのですから。


もしもその人たちが本当に思考を信用していないのなら、こういう疑問や謎に苦しんだりはしない であろう。なんと言っても、こういう疑問や謎そのものが、思考の所産でしかないのだから。 自分の中に思考に対する信頼感を育てることのできる人は、その信頼感の中に、人間の魂の力を 感じとっているだけでなく、その感情から、というか、自分の魂からも独立した、ひとつの宇宙的 本性をも感じとっている

2/6
人生は善と悪、美と醜などの間を行き来しています。人生は矛盾を孕んでいます。しかし、 私たちがどちらかに立ちどまらないでいるときにのみ、霊的であることの意味が分かるのです。


そのときの私たちは、矛盾にぶつかるのではなく、矛盾こそが人生であることを理解します。


重要な言葉があります。
「私は自分より上にいる人からも多くを学んだ。私は 自分と同等の人からも多くを学んだ。しかし自分の下にいる人からは一番多くを学んだ」。


思考内容が私たちに働きかける力 となって、私たちを取り巻いていることにも気づいています。私たちは、私たちが互いにどれほど憎しみや好意の思考内容を送り合っていたかに気づかされます。そのような思考内容が心の中に入っていったり、跳ね返されたりしていたのです。

2/4
(シュタイナー)
世界を豊かに感受することによって、心魂が事物のなか、世界のなかに導き出されるのに、私たちは気づきます。私たちの心は身体の内にあるのではなく、宇宙に属してい る、と気づきます。




Qioさんの自動作曲いいと思う。
ことばが音楽化されるのってやっぱ強い。

図書館に本返却してまた借りた。
結局前回のは、シュタイナーの「ゲーテ的世界観の認識論要綱」しか読み切らなかった。
今回は
「シュタイナー 社会の未来 講演録」 
「シュタイナーの美しい生活 建築、服飾、言語」(西川隆範)
「シュタイナー宇宙的人間論」
「トランスパーソナル心理技法」(諸富祥彦・トランスパーソナル心理学会)
「パンセ」(今だに本屋パラ読みで読んだことなかった)
2週間で若干以上図書館の蔵書が入れ替わってるの面白い。どう選定してくんだろうね、内部の人は。
前回無かったシュタイナーの本が3冊あったのは誰かが返したやつなのかなんなのか。

2/3
ヒルティが言ってた、父母に尽くす(ここまでの表現ではなかったと思うが)(じゃなくて愛す、だな。尽くす位なら俺だって形式的にはやっているのだから)者には生涯特別な祝福が伴うだろう。っていうのはほんとうだと思う。
自分ですらすぐ判るようにあからさまにみたいに訪れる。(小さい頃の何も無さ、半ば崩壊してた所を経ると、本当に数年に一回位、やるぐらいに限られるのだけど(あるいはただの心理的システムとして(祝福に感じられるものが)発生するのかもしれないけど。))(あと、ダビデの、ヤハウェに対して罪をおかし、あなたは御顔を隠したままですとかいう発言らへんの心理的イメージも関係していると思われ)


努力の為の場所
感情の居場所
思考の記憶力


1/30
(シュタイナー 秘教講義1 高橋巌さん訳)
そうなのです。良心の声は、高次の本性に由来するのです。良心の声は本来、ケルビームの 世界に生きているのです。良心の声は、ケルビームの世界から人間本性の中へ作用します。人間本性の深みから漠然と響いてくるのです。しかし、私たちの直観がケルビームの世界、良心の働いているその世界と出会うとき、その出会いはまさに圧倒的なものになります。それは私たちの人格にとっての最大の発見であるとも言えます。


1/29
(シュタイナー「ゲーテ的世界観の認識論要綱」)
人間の内には彼の人間的な個だけではなく、彼が属する民族の個も息づいている。彼の行為とは、彼の力によるものであると同時に、民族の力によるものでもある。自分の使命を果たすことによって、同時に民族共同体の使命の一部をも果たす。

その際重要なのは、彼の民族内における位置が、彼 の個体性からの力を十全に発揮しうるものであるという点である。これが可能なのは、民族有機体の中で、一人ひとりが自分のテコの支点を置ける場所を見出せるときだけである。彼がその場所を見つけられるか否かが、偶然に委ねられてはならない。


1/27
カルマの方が力強く働いている のかな?
意志と理解についてと魔術 リガルディ


(シ)
私たちの魂が身体なしにも、つまり霊的宇宙の中でも知覚できるようになったとき、まさに逆の意識が私たちに現れてきます。そのときの私たちは、太陽に向かって、これは私の心臓だ、 と語ります。月に向かっては、これが私の姿をつくったのだ、と語ります。雲に向かっては、 地上の私たちが自分の髪の毛に向かって語るのと、ほぼ同じように語ります。そのときの私たちは、地上の人間から見ると宇宙の万象であるものを、自分たちの生体と呼ぶのです。

(シュタイナー)
特に黄道十二宮にはっきりとした文字となって現れている恒星たちから「おお、人間よ、汝自身を知れ」、という宇宙の言葉が響いてきます。この恒星たちは、一団となって特定の形をとることで、この偉大な言葉を宇宙文字に表しているのです。(?)

経済や政治の問題なのか、それとも私(たち)の弱さ、心的状態の問題なのか、(投影、比率)(となんとなしの超越状態で)
1/26
要求されているのは真剣さと誠実さ(だけ?)
思考をしっかり保つことから→すべてのもの(、出来事・事象)への畏敬へ


思考はしっかり形づくることor保つこと
感情は畏敬に力強くあること
意志は勇気に〜 or調和的穏やかさに
だろうか?

絵画案
1/8
「私という死体を引きずって歩く私」
「ダイヤモンドが欠け、」
1/10
自分で建てた巨大な細い塔のようなものを自分でハンマーで壊そうとしている瞬間
1/19
「自由への内的動線と色味」
1/22
「神に剥奪され、追い詰められる人」
「明日を覆ってほしいもの」
「死と死と死と死と死と死と堆積」
「デグノホウゴーレム」
「神の生命海と単純な海」
「天の板に指を掛ける」
1/26
「「すべて善きものは神からくる」と言って片腕を挙げている洗礼者ヨハネ(の遠景)」

1/25
アストラル的なものを乱すもの。
情報もそうだろう。あと自分で消化、洞察、関連付けられない哲学的知識で、何とかなると思い彷徨うこと。ただ行き当たりばったりになるくらいなら、なしで済まして、醸成していく方が長期的にはわれわれにとっても、神や霊界を仮定する宇宙にとっても好ましく、目的に適っているのかもしれない。

しかしまた、私たちは次のことを自覚していなければなりません。――私たちが深く結びついている大地は、その表面がどんなに美しく崇高に現れていようとも、私たち人間を同時に非人間的なところへ引き下ろそうとしているのです。(私たちはこれらのことをすべて思考しますが、私たちの内部にも衝動、本能、欲望、情熱が 生きているのだとは考えません。私たちの内部に低次の人間本性がすべて生きているとは考えないのです。そしてそれが大地に属しているとは考えないのです。)このことを正直に告白することで、私たちは自分を真の人間存在にまで発展させるのです。そうできたとき、そうできたときの私たちは、眼を下へ向けて、人間的な発達を考えるだけでなく 、眼を等身大の高さに遠く彼方へ向け、いわば地球を取り巻いて、私たち人間存在を輪 の中に受け容れてくれるすべてを眺めるようになるでしょう。そのとき、すでに物質の次元で、引き下ろそうとする大地の深層の力に加えて、私たちを引き上げてくれる力の働きも始まっています。(日々じぶんの限界を迎えることも内面作業の過程としては似ている)

日の光であれ、星の光であれ、地上に送られてくる光を愛せることを、私たちはいつも意識しているわけではありません。いつも意識しているわけではありませんが、日の光を友のよう に熱く愛せることを意識するとき、神々が光をまとって地球の周りを回転していることが分かってきます。そして日の光がただ地上を照らすだけだとは思えなくなります。日の光が神々の衣裳になるのです。神々が輝く衣裳をまとって地上をさすらうのです。私たちの光の体験が叡 智になるのです。そのとき、神々は叡智を私たちの心に、私たちの魂に送ってくれるのです。 そして、私たちは感情の差異に気づくことによって、実際に上昇したのです。


日本人(というかイシキ)って時間は無いという感覚でいるのではないだろうか?(だがそれが何だというのだ)(→(シュタイナー ゲーテ的世界観の認識論要項))〈さらに現象という語では、単純に、空間内あるいは時間内に現われる知覚可能な事物、あるいは出来事を表現する〉
1/22
窒息死の利点


そろそろ自分の詩集を出しといてもいいのではないか?シンタイから切り離された別の人間として。(コレはボクじゃない、と)


オイルパステル?

(シュタイナー)
ここで、当時の私の内的な格闘を思い起こしてみよう。私は当時の諸哲学の思考過程を越えたが、それは容易ではなかった。しかしいかなるときも、ある事実を完全に自分自身から認めていたことが導きの星となった。つまり、身体とは無関係な 精神的存在としての自分が、純粋な精神世界に立つ姿を人間は 内的に見ることができるという事実である。
(でさえ自分の認識のために格闘していたということ。現代の、短絡的な、ハイ、上がり とは違ったものがみられる)


十数年ぶりに図書館で本を借りる。
「ゲーテ的世界観の認識論要項」(シュタイナー)
「心の哲学」(サール)
「ラカンの哲学」(荒谷大輔)
「魔法 その歴史と正体」(セリグマン)
「シャドウ・エフェクト」(チョプラ)
あまりにも身体的怠惰過ぎて言語によって細胞を循環させたい欲求。

1/21
サヴォナローラやウィクリフ・フスの生涯をまだ詳しく調べていない。あと背教者ユリアヌスも。(たぶんやっておくべき)

1/19
圧迫も長期に度が過ぎれば、道徳的水準の大幅な低下の正当性をもたらす。反逆さえ、、

1/18
不幸や絶望の利点


自殺への欲望、死への欲望、不安、恐怖の一人歩き
病のように人間に取り憑いている。
むしろそれが人間を(何かへの)対のように稼働させている。
生に擬態させられた何か
自我?ワタシ?イシキ?は寝起きと共にその強烈な明るさ(元気とかの意味じゃない)によってそれを隠し、沈めている。なおかつそれ(ワタシ)が永遠のものだと、時間意識とともに展開し始める。(この辺の出来事、仕組みはよく分からない)
恐怖しているにもかかわらず、しかるべくして死ぬ。それが目的であったかのように。私が引き寄せたかったかのように。私がそれ(死)であったかのように。私がそれ(死)を生み出したかったかのように。

死への欲望とエゴシステムの分離。意識の内実の/である死。
言葉をつかうことと死 無時間性
なぜ他者が!?!!!開かれに拓かれる生と他者の命 なんで!!!?
何かが顚倒シテイルヨウダガ それが人間にとっては貴重なものであるというようにみえること。

もっと死と親しめ。いや、これは、ワタシが語ってしまっていること。覆い隠していること。彼の声(覆い隠されてしまっている死)ではない。






1/17
単純にもう惨めだから働こうかな?
1/16
松村潔 氏

無職なら、そろそろ武道かスポーツでも毎日2時間位やった方がいいのではないか?
と、同一視された身体と思考にへばりついていない時に考えてみる。おそらく、それどころではない、と彼等は考えるだろう(明日の身体と思考は)

1/8
(ヤハウェ的心象の処分の必要性?)(まずいか?)
(あれは単純に人を地に留まらせ続けるようなもの)(ヤハウェ的神の心象的重し)
ワタシノシンショウヲカエヨ ?
(いつかは取り除かれる必要がある?)
(キリストは良い)(心象内で対象化(分かたれ)されてもほとんど害がない が そこにはまだ)



単純にうちの家族の問題は、相互信頼と愛のなさ。
別にどんな状況であろうとこれとかがあれば、乗り越えられる。
が、もちろん自分が持っていない。家系?
受動性と傍観、主体性のなさ。日本人的。待ち。


日本人に特有の心理的構造課題

怒り
存在を邪魔されているという心象


絵画案
11/22

まったくの小さい枯木に燦然と照らしている光


12/1

魔に足が捕らえられ、浸ること

手を組んだ死体(身体)に捉えられた霧のようなもの

球体のところどころに破れがあり、そこからつながっているイメージ


12/3

開かれ

思考を線で描く

おもての顔

火と水の対立

神の魂

12/9(土)

敗者

12/10

十字架形 掌と頭を上に挙げた人間

破綻と立て直し

12/17

,ある意味の勝利

掌を挙げこちらに向ける人

われわれの天使

地球交通

12/20

イエスの死体

12//24

螺旋の上と下の地平と色、様相

12/28

人生のつらい時 時期

神のような波

12/30

左半身が苛烈さに変わる自人物像

12/31

1枚の羽根か翼

ある一人の子が生まれる時の祝福

1/2

「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか?」とユダの顎下にそっと右手を添えるイエス(ユダ視点)(漫画チックすぎるか?)

「歪んだ薔薇と射し込む光」

「あなたに借りがある人の怯える目」

1/5

「神の愛」

「聖神という文字が人間に入ってくる像」

「悪霊 悪竜」

「薔薇の花のように空にかざす手」

「昇天」

「昇天するキリストの下を覆っている頭蓋骨に落ちてくる光の流体粒」

「神というやはらかい重し」

1/6

「ある壁の向こうに行けない人」

「外部の火」

1/8

「切り取られ移植される草」

「赤ん坊の口にパンを入れる手」

「卵型宇宙について」
1/5 
イエスよあなたの素晴らしさも、あなたの素晴らしさも教えて下さい。神の御名よ。

イエスの名によりて生活したいもの

フィロカリア

(シオラン)
自分の病弱や不具に、私たちの存在は腐蝕される。そこから生ずる空虚を充たすのは、意識の現存だ。――いや、冗談ではない、この空虚こそが意識であるのだ。

あまりに美しすぎる土地に滞在すると、精神が退化してしまう。自我は、楽園と接触してい るうちに溶け去ってゆくのだ。
最初の人間が、周知のような選択を行ったのは、おそらくこの危険を避けるためであった。

1/2
もうこんなん全部終わらせなきゃいけないのに終わらせ方が分からない。。
神よ、もう私の全てを終わらせて下さい(病気とかはなしでお願いします)(やむにやまれぬ祈り)

あなたは「神」の贈り物です。

()思い煩っていることは「神」にお任せすれば良いのです。なぜなら、「神」はあなたのことを心にかけていてくださるからです。


(奇跡のコース)
罪悪感をもたないマインドが苦しむことは不可能です。

わ〜い!😄