「甲子園の土」に思う「物語」の崩壊

 私自身、実のところ甲子園の土を持っている。無論いわゆる甲子園に出場したわけではなく、少年野球の選抜チームのMVPか何かでいただいたものだと記憶している。当時の自分はそれ相応に嬉しく思ったし、現在でも実家の神棚に堂々と鎮座している。大げさに言えば、神格化されているのだ。もっと大仰に言えば、「物語」を確実に帯びているのだ。

 しかしながら、甲子園の土がメルカリで大量に転売されているそうだ、高校野球部員に大量に配った結果ではあろうが、世間ではそれなりの驚きを持って受け止められている。彼らは言う、「ただの土である」と。

 ここには、その物語の消失を感じずにはいられない。その通り、ただの土だ。もう本当に土だ。球を棒切れで叩いてあれそれする遊び場の土だ。

 やっと目が覚めたか、という思いだ。

 甲子園という投球制限も気温上限もない、事実上の「真夏の肘壊しフェス」(せやろがいおじさんより引用)を、マスコミが感動ポルノに仕上げたてもてはやし、何の規制もなかったあらゆる部活動に大いに浸透し、それが「自主的」の闇に絡めとられて、この30年ほど部活動は過熱を続けてきた。2010年代後半になってようやくそれは「ブラック部活動」「体罰問題」「生徒の自殺」として可視化され、様々な対策が取られてきてはいるが、いまだに不十分である。

 部活動問題の根源的思想と、その象徴は、紛れもなく甲子園である。合理的に考えれば真夏にやる必要もなければ、屋外でやる必要もないはずだ。合理を超える「物語」が、それを支えてきたのだ。その物語によって過熱した中高部活動が、教員も生徒も苦しめつづけた。

 だとしたら、今般の「物語」の崩壊は、ポジティブにとらえるしかないだろう。甲子園絶対主義を是正し、例えば「一回戦と決勝のみ甲子園、後は京セラ。球数制限80球」などという改革が取られれば、それは確実に他の部活動に波及するだろう。目の前のたった一人の生徒に対して、教員に対して、最適化した「地域の部活動」も進むかもしれない。事実、現在文科省において部活動の地域化が検討されている。

 コロナ禍は、物語の崩壊を様々な場面で引き起こす。これをチャンスととらえ、旧態依然とする不条理が解消され、真にあるべき姿へ向かうことを期待してやまない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?