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痛みを伴う回顧②

前の記事。

----※今更だけど時系列(不正確)----

2012年 2月〜3月
発病 手術 入院→退院
ハウスメーカー退職
検査結果を受けて抗がん剤治療確定

2012年 春頃〜夏頃?
入院 抗がん剤治療 退院
ハゲる
多分東急ハンズのハンズメッセで短期バイト。

2012年 秋頃?
放射線治療?がんセンターみたいなところで。

2012年 冬頃〜年末
フジパンで季節バイト。クリスマスプレゼントのため。
入院 手術2度目 退院

2013年 2月〜4月
多分この辺で彼女と別れた?
就職→退職 心ぶっ壊れてた?

2013年 〜8月
記憶ない。マジで何やってたっけ。
地味にパチンコとか行ってた気がする。
暇で色んなやつに連絡してた気がするけど頭おかしかったからあんま覚えてない。

2013年 9月
前々職とご縁。
こことは長い付き合いになっていく。
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2012年2月の後半。

最初の入院、一週間は穏やかにもあっという間に過ぎ去った。ここはかなり記憶に薄い。何をしていたわけでもなく、ただ術後の療養でしかないためだ。
キャリアに悩んでいた自分は何故か大学時代のテキストを引っ張り出して簿記3級の勉強などをしていた気がする。なんとなくもう営業職は難しい気がしていたから。

当時の彼女とはまだかなり仲のいい頃で、なんやかんやと毎日お見舞いに来てくれていた記憶がある。今書くと気持ちの悪い部分もあるが、就職して2人の時間が減っていたところ、毎日顔を合わせる時間ができたことを嬉しそうにしていた。僕も嬉しかった。

そのとき、まだ会社を辞めたわけではなかった。
一週間程度で一度退院をする。少し空いて摘出した腫瘍の検査結果が出る。その間はこの先どう動くことになるのかまだ見当もつかないため、身体さえ動けば普通に出勤の予定だった。

結果的には全然無理だった。普通に傷口が痛い。退院してほんの少しだけは休みをもらった。
(なのに退院翌日には彼女と車で大高のイオンに遊びに行ったのを覚えてる。体力つけるためにも歩こうという名目もあったが、家で何もしていないと鬱屈となる部分もあった。退院して彼女と少しお出かけしたいという気持ちもあった。)

退院後数日経って、出社した。
色々とうまくいっておらず、会社にいる間は常にイライラしているような状態であったが、その日はとても穏やかであった。自分自身もだし、当然周囲もそう。
まだ傷口は痛かった。何かの用事で工務部のある2階に行ったが、階段の昇り降りがおじいちゃんのような歩き方になっていた。

話がある、と当時の社長に呼び出された。
「まぁそうだよね」と思いながら伺った。要約すると「円満に辞めてほしい」とのこと。
これからどうなるかわからないが、十中八九は抗がん剤治療による長期離脱となる。有名な屋号を掲げているが、フランチャイズによるもので元は20人程度の小さな工務店。復帰の予定が立たない入社半年の人材を、それまで待つ体力がないとのことだった。
こっちはこっちでずっと悩んでいた。営業職としてこの先もやっていける自信も無くしていたし、こうならなくても退職を悩んでいた。当然余計なことは言わなかったけど、慎んでそのお願いを受け入れた。

仕事はうまくいっていなかったけど、嫌な人間の少ない人情味溢れる会社だった。そこからは後片付けだけをして、穏やかな気持ちで退職した。
社長から、治療など落ち着いたら遊びに来てくれ、近くのおいしい鰻屋をご馳走してやると。(実際、その後の抗がん剤治療が落ち着いた折に、鰻をご馳走してもらった。)
また、退職に係る便宜も図っていただいた。その日を退職日としてしまうと失業手当の要件を満たせなくなってしまうので、記録上の退職日などを2012年3月15日にしてもらえた。(出勤扱いにもしてくれた気がする)これは何故か正確に覚えている。
また、相談役からは餞別にとギフト用のハンカチを2枚もらった。ラルフローレンとバーバリーの上等なハンカチだった。10年経った今でもたまに使っている。

そんなわけで新卒で社会に出てから2度目のニートとなる。2012年、春のことであった。


どれくらいの期間が空いてのことかは覚えていない。検査の結果が出た。
奇形腫というのと、胎児性癌というものだった。ステージどうこうという話はされていないのかまったく覚えていない。
このどちらかの性質が「よくないもの」らしく、抗がん剤での治療とその後の手術が必要とのことになった。まぁ覚悟はしていたというか、抗がん剤なりをやってくれたほうがなんとなく安心だよなとは思っていた。

BEP療法というものを行うらしい。確か、三週間で数種類の抗がん剤を入れ続けて、一週間の休息期間。これを1クールとして、3クール行うとのこと。大体3ヶ月弱の抗がん剤治療ということだ。
どうやら癌はぼちぼち転移をしていたらしく、リンパがどうの〜となかなか物騒な説明もあった。
この抗がん剤治療でまずは癌を弱らせる→その後少し期間を空けて散らばった癌細胞達を取り除く手術をするらしい。
OKよくわかんないけど多分やらないと死ぬからなんでもいいです、というのが本音だった。相変わらず現実味のない毎日だ。まるで他人事のように全部わかりましたーと言った。


抗がん剤治療。
2012年の春先だと思う。
入院した。実はあんまり覚えていない。初日からいきなり投薬したとも思えないので、多分土日とかに病院入りして、1日くらいは単純に入院生活を送ったんだと思う。

腕に点滴用の針を刺して、抗がん剤のチューブを繋いだ。最初の一週間くらいはなんの副作用も感じず、ただし腕にチューブが付いていて不便だなくらいのことだった。
実はそもそも注射が苦手だ。痛みは別に耐えれるしそんなに抵抗ないのだが、あの身体に異物を刺されてる感じがとても苦手だ。普通の採血の短時間であっても、「腕に針が刺さっている」という事実がものすごく不快で気持ち悪い。少し気が遠くなるような気もする。
それなのに点滴ってやつは常に腕に針を入れた状態が続く。これが本当に嫌だった。腕を動かすと針まで体内で動いてしまう気がして、左腕に極度に気を使って生活していた。そのためなのか変な跡がついて今でも消えない。採血の時にも血管が浮き上がらなくなってしまって、今でも右腕でしか採血ができない。

少し話が逸れてしまったけど、抗がん剤の話だ。
先ほども書いたように最初一週間は余裕だった。二週目あたりからそれらしき症状が発現した。シンプルに気持ち悪い。食欲もない。取れる対応がなくて横になって眠るしかできなくなる。入院中、さまざまな人がお見舞いに来てくれたがタイミングが悪いときだと挨拶も半分に寝たきりのままになってしまうこともあった。

あと独特な症状でいうと
投薬を開始したタイミングで自分の体内から薬臭さを感じるようになった。これは看護師さんにいっても「?」といった具合だった。あまり無い副作用らしい。とにかく口の中も鼻の奥も薬品のような匂いがして不快だった。
また、匂いに敏感になった。僕自身も喫煙者だったので煙草の臭いには鈍感だったが、急にこれが気になるようになった。特に母親。しばらく吸ってないよというタイミングでも母が見舞いに来ると部屋中が煙草の臭いで充満するようになった。今思うと煙草がどうのというよりも、嗅覚自体が壊れてたようにも思う。
食事の味が変。特に醤油が臭くて仕方なかった。この頃、おいしいと思えるものが全然なかった。なのにおいしいもの食べたいという欲求は強くなってて、テレビでやってる青空レストランをよく見てた。生野菜とか刺身が食べられないので一層心惹かれた。
数少ない食が進んだものはチップスターとオランジーナだった。これはあるあるらしい。まさに精巣腫瘍を扱った「さよなら、たまちゃん」という漫画があるのだけど、その中でも主人公(作者)がポテチとオレンジジュースは飲みやすい!と発見しているシーンがあって、思わずビックリしてしまった。

相変わらず彼女はよくしてくれた。大学の傍ら、毎日病室に顔を出してくれた。面倒なバスの乗り継ぎも厭わず。嬉しかった。それだけでも幸せだと思えたし実は結婚も意識した。自分より歳下でまだ幼い部分も多かったけど、その「ただの愛」にどれだけ救われたのかわからない。
よく一緒にプリズンブレイクを見た。長期の入院のため病室にはPCを持ち込んでいた。母も身の回りの世話のために毎日病室に来てくれていたので、ついでに続きのDVDをレンタルしてきてくれた。(親たちもプリズンブレイクにハマっていたのでウィンウィンだった。)
PCの前で2人隣り合わせに座ってDVDを見てる。その瞬間はここは病室ではなくてよく時間を過ごした彼女の一人暮らしの家のようになっていた。ただ、幸せを感じていた。

この辺りの話は本当に痛みが伴うな。シンプルに辛い。

あと、髪の毛もちゃんと抜けた。最初は少し抜け毛が多いなと思った程度だった。
抗がん剤は正常な細胞も攻撃してしまうので、免疫が下がることが多かった。風邪もすぐに引く。
白血球の値が一定以下になると病院判断で個室に移される。なかなか快適で、周りにずっとロキソニンを求めてナースコールをするお爺さんもいないしゲップをし続けるおっさんもいない。屁の音も聞こえないし、痰を吸い取る施術の音も聞こえない。テレビカードが無くてもテレビを見れるし室内にサニタリーもある。
そんなときだった。室内の風呂に入って頭を洗うと信じられない量の髪の毛が抜けた。浴槽いっぱいに髪の毛。どうしていいのかさえわからない。面食らった。どれだけ触っても手のひらいっぱいに髪の毛がまとわりついてくる。理由はわからないけど取れるだけ取らなきゃ!と思った。何度も髪の毛を流して、気が済むまで引っ張った。情けない顔だった。スキンヘッドになるわけでもない、ところどころに髪の毛が残る頭。結構ショックだった。一応見た目には気を使ってる認識だった。ニット帽を家から持ってきてもらうことにした。

何かのタイミングで外泊許可が降りて実家に戻った。そのとき、理由はわからないけども学生時代によくしてくれた先輩が名古屋に帰ってきていて、会うことになった。何人か先輩がいたと思う。近所のコメダで雑談をしていた。
自分はニット帽を被っていた。蒸れたのか、頭が痒かったので掻いた。なんとなく掴んだ髪の毛がそのまま手に残っていた。先輩は驚いていた。僕は悲しかった。それを灰皿に捨てた。

そんなわけで色々とあったけども、先に書いている通り、あまり悲壮感に打ちひしがれていたわけでもなかった。
「合法的ニート」みたいに思ってた。実際問題、働けなくても仕方ないし、抗がん剤は実際ツラいし、何もしようがない。未来を想う余裕もそこまでなかった。
ただ毎日が流れていく中で
体調が悪ければ寝続けて
体調が安定していればDSでドラクエをやりながらチップスターとオランジーナをつまむ。
毎日来てくれる彼女と話をしていたり
たまに来てくれる友人たちと久しぶりの時間を過ごすなどしていた。

やっぱり長くなるな。
また続き書きます。

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