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友情の運用維持費

ITパスポート終わりに出会った少女たち

今日ITパスポートの試験を受けてきた。試験は8階くらいの貸しビルで行われ、10:45~12:45までだった。試験が終わったので、持ってきたパンを空きスペースで食べながら復習していると、2人組の女の子たちが私がいることを一切気にもとめず、身の上話をしながらやってきた。


最初は友達にイケメンの先輩彼氏ができた、でもいま2週間だけど別れそう、とか話していたので、私はその子たちの顔を見ずに何歳くらいか自分で勝手に年齢あてクイズをはじめた。

2週間で別れるなんて、中学生くらいかな~いや高校生もありえるか?それを友達との話題で楽しめるくらいの年齢。。ん~大学生はさすがにないか...?


私が勝手に年齢あてクイズを進行している間にその子たちの会話は次から次へと話題が変わりまるで特急列車にのっているかのように流れていく。


てかさ、とイケメン先輩彼氏と付き合った子の友達ではない子の方が口を開いた。

「私が本当にしんどい時にLINEの返信ない人ってどう思う?」と怒っているような悲しんでいるようなちょっと重い声でその子は言った。

「自分がさ、受験落ちてしんどかった時にめっちゃいろんな人にLINEしたんだけど、すぐ返ってくる人と返ってこない人がいたの。まあ返信に悩んでくれてたのもあるだろうけどさ、でもふつうはさ、大体1日で見るじゃん」

ほー、なるほどこの子たちは受験生か。と自分の中で勝手に行っていたクイズの答えがでた。高校受験か、大学受験か、どちらだろうか。私はまだ顔をあげないでちょっと粘っていた。


「わかる、自分が辛い時にそばにいてくれる人とそうでない人でこれからの友情関係っていうか、そういうのわかるよね」

さきほど、イケメン先輩の話を熱弁していた子が、I agreeといった感じで共感してきた。

てかさ、と彼女は続けて、

「私だったら推薦落ちて、大学受験して落ちた友達いたら絶対会いに行くけどな、LINEなんて5秒で打てるじゃん、その労力もかけないなんてさ、それまでの関係だったってことだよね」

と言った。

あぁ、この子たちは浪人生なのかな、と私はなにも入ってこないITパスポートの参考書を見ながら推測した。

少女たち、その自分の期待した慰めをくれない友達への失望は分からなくもないけど、合格した子たちが浪人が決定した子にかけてあげられる言葉なんてみつからないぞ、と浪人経験済み24歳は思う。


「それで春になったらあそぼ―って虫がよすぎない?私が落ちて辛くて励ましてほしかったときは、自分たちは遊んでてさ、それで楽しいときだけよてくるっていう」

「いや、ほんと、そういう人たちはさこれからの人生もう会わないんだろうね、きっと。」


彼女たちの会話を聞いて、私も高校生くらいの時はこんな感じだったのかなぁとちょっと恥ずかしくなったのと同時にそうか、友情というのも運用維持費がかかるんだなと思った。思ってしまった、という表現が適切かな。


WEBディレクターという仕事をすると嫌でも「コスト」「マネジメント」という言葉とお付き合いすることになる。コストの中でも、コミュニケーションコストをしっかり見積もらなければいけないのがディレクターの仕事だ。


なるほど、高校生だった頃は、同じクラスに30人いて、みんな顔と名前は一致していて、その中でも仲がいい子はいて、それが当たり前だった。だから、卒業となると、いままでせっかく作り上げた人間関係がまたゼロからのスタートになってしまう気がして、春は新しい人との出会いのドキドキと憂鬱さが混ざっていた。

そうなると、いままで作り上げた人間関係、友情関係を維持したい。そのためにLINEもするし、インスタのDMでもたまにメッセージをする。だけど、お互いの生活リズムとか、新しい交友関係でだんだん疎遠になっていく。それを引き留めようとしてしまうと自分はもっと連絡をとりたいのに、相手は全然連絡を返してくれないとストレスになってしまうことがある。これが友情の運用維持費(コスト)となる。


運用維持費のかからない友情

まだ学生だった時に「学生時代これやっとけばよかったなって後悔したことありますか?」と社会人の人に聞いたことがある。

その人の答えは「友達をつくれ」だった。
社会人になると、会う相手も仕事上のメリットを考えて会う相手を考えることも少なからずある。だから損得ぬきで気軽に会える友達をつくれるのは学生のうちだけだ。とその人は言った。

さて、コロナ禍での社会人1年目ということもあり、会社の人の飲み会にいくよりも、休日は高校・大学の人と遊んでいることが多い私は単純だけど大切なことに気づいた。

それは、友達と遊ぶと楽しい。ということだ。

当たり前すぎるね、
いや、当たり前すぎるんだけど、ただ社会人として週5・決して楽しいだけではない責任とかストレスとかがある仕事をする中で、ただの楽しい時間はとても貴重で、とても大切なものだと思った。

特に、あまり頻繁に会ってないけど、会えたら一瞬であの頃に戻れる、というような友情関係はとても貴重だ。


最近は、周りも結婚・出産が出始め、友達と将来の話をするようになる機会が増えた。学生の頃は好き勝手にこうしたい、ああしたいなど言ってたけど、いざ働き始めると学生の頃よりも自分のいま生きている世界がリアルになる。だから友達と会っても、不安とか希望とかわりとまじめな話をすることが多くなっていったように思う。
もちろんその時間も大切だ。

けど最近、本当に内容がない会話でゲラゲラ笑って、ただただおいしいものを食べてみんなでうまっ!!って思ったり、一緒にゲームしたり、まじめな話をしてないけど、ただただ楽しいみたいな高校の友達との集まりがあった。

その時に、本当になんでもない時間ってとてつもなく尊いものなんだなと思った。

でも、ほんとにためにならない時間って、実はすごく自分のためになっている気がする。

そんなことを思ったのも、以前伊坂幸太郎の小説を読んで、その言葉が残っているからかもしれない。

人生は要約できねぇんだよ。人ってのは、毎日毎日、
必死に生きてるわけだ。つまらない仕事をしたり、誰かと
言い合いしたり。そういう取るに足らない出来事の積み重ねで、
生活が、人生が、出来上がってる。だろ。
ただな、もしそいつの一生を要約するとしたら、
そういった日々の変わらない日常は省かれる。
結婚だとか離婚だとか、出産だとか転職だとか、
そういったトピックは残るにしても、日々の生活は削られる。
地味で、くだらないからだ。
でもって、「だれそれ氏はこれこれこういう人生を送った」
なんて要約される。
でもな、本当にそいつにとって大事なのは、
要約して消えた日々の出来事だよ。
それこそが人生ってわけだ。

「モダンタイムス」 伊坂幸太郎

本当にそうだなあと思った。コロナになって、旅行とかそういう非日常で、大きなイベントができなくなってしまったからこそ、自分たちが当たり前に生活していた”日常”がどれだけ尊いものだったのか気づく。

友情も生活環境が変わっても、会ったりする人たちと、二度と会わない人たちといるけど、理想でいえば、運用維持費のかからない友情関係が続くのが一番いいよね。

人生は意外と一瞬で、短いですし。

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