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デレラの読書録:熊野純彦『レヴィナス入門』

『レヴィナス入門』
熊野純彦,1999年,ちくま新書

フッサール、ハイデガーの思想との対立でレヴィナスの思想を、そのギリギリの思考を描き出す本書。

世界大戦時に収容所を体験しているレヴィナスの思想。

独自の「他者」の概念はあまりに難解だ。

ではその概念を理解するための手がかりは何か。

それは贈与である。

どういうことか。

それは、世界は与えられている、ということだ。

さらに言えば、「与えられてしまっている」ということ。

わたしたちは世界を糧として享受している。

そう聞くとあまりに牧歌的であるが、しかしこの享受は厄災でもある。

なぜ厄災なのか。

それは、「過剰に」与えられているからだ。

過剰な贈与。

雪国に生まれたわたしはあの冬を思い出す。

雪、冬の寒さは、まさに過剰な贈与だろう。

確かにわたしたちには空気が与えられている。

しかし、わたしたちの肺という皮膚は外気に晒されて酸化し、ひび割れていく。

凍てついた空気が肺を刺し、体温が奪われ凍える。

わたしたちは世界に晒されている、しかも「凍てついた空気がそこにある」という形で。

過剰さ、「ただそこにある」ということ。

ならば、わたしたちはこの世界で何も出来ないのか。

いや、わたしたちは労働する。

過剰に与えられた世界を、わたしたちは労苦によって獲得し所有していく。

わたしたちは経済・家政(エコノミー)を作り出す。

木材から手ごろな形のお椀を作る。

雪を集めてかまくらを作る。

石を集めてピラミッドを作る。

世界はどうにも出来ないもの、つまり「他性」であるが、労苦によって「他を同に」変えていく。

「同」というのは、わたしたちが「他」に意味付け理解し価値付けて相互関係に落とし込むということ。

圧倒的で過剰な「他」の世界を意味付けして取り込んでいく。

しかしこの「同化」には暴力性が宿っている。

なぜ暴力的なのか。

同化とは意味付けである。

ある世界の他性に、ある人に、ある共同体に、ある宗教を信じる人たちに、「最低の価値を与える」こともできるからだ。

あの共同体を絶滅せよ。

人類はすでに歴史のなかで経験している。

他を同化することは、一方に振り切れば「最終的解決」にまで至る。

人間を同化することができるだろうか。

確かに、わたしたちはよく知る友人、家族を「ある程度同化している」だろう。

しかし、レヴィナスは、人間はその同化を越え出ると言う。

「顔」という概念である。

「顔」は「現れではない現れ」、「現前しない現前」、「形をもたない裸形」など矛盾的に表現される。

同化を逃れる他は、わたしの同化を常に過ぎ去っている。

捉えたと思ったら、そこにはすでに顔はない。

声だけが聞こえるが、その声の方を向いてもそこにはすでに誰もいない。

痕跡だけが残される。

痕跡として現れる他者の顔。

声は言う。

「なんじ殺すなかれ」

わたしはその声に応答できずに同意している。

世界の悲惨を体験した哲学者のギリギリの思考である。

わたしの目の前にはレヴィナスのテキストが残されている。

彼方から声が聞こえる。


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