デレラの読書録:熊野純彦『レヴィナス入門』
フッサール、ハイデガーの思想との対立でレヴィナスの思想を、そのギリギリの思考を描き出す本書。
世界大戦時に収容所を体験しているレヴィナスの思想。
独自の「他者」の概念はあまりに難解だ。
ではその概念を理解するための手がかりは何か。
それは贈与である。
どういうことか。
それは、世界は与えられている、ということだ。
さらに言えば、「与えられてしまっている」ということ。
わたしたちは世界を糧として享受している。
そう聞くとあまりに牧歌的であるが、しかしこの享受は厄災でもある。
なぜ厄災なのか。
それは、「過剰に」与えられているからだ。
過剰な贈与。
雪国に生まれたわたしはあの冬を思い出す。
雪、冬の寒さは、まさに過剰な贈与だろう。
確かにわたしたちには空気が与えられている。
しかし、わたしたちの肺という皮膚は外気に晒されて酸化し、ひび割れていく。
凍てついた空気が肺を刺し、体温が奪われ凍える。
わたしたちは世界に晒されている、しかも「凍てついた空気がそこにある」という形で。
過剰さ、「ただそこにある」ということ。
ならば、わたしたちはこの世界で何も出来ないのか。
いや、わたしたちは労働する。
過剰に与えられた世界を、わたしたちは労苦によって獲得し所有していく。
わたしたちは経済・家政(エコノミー)を作り出す。
木材から手ごろな形のお椀を作る。
雪を集めてかまくらを作る。
石を集めてピラミッドを作る。
世界はどうにも出来ないもの、つまり「他性」であるが、労苦によって「他を同に」変えていく。
「同」というのは、わたしたちが「他」に意味付け理解し価値付けて相互関係に落とし込むということ。
圧倒的で過剰な「他」の世界を意味付けして取り込んでいく。
しかしこの「同化」には暴力性が宿っている。
なぜ暴力的なのか。
同化とは意味付けである。
ある世界の他性に、ある人に、ある共同体に、ある宗教を信じる人たちに、「最低の価値を与える」こともできるからだ。
あの共同体を絶滅せよ。
人類はすでに歴史のなかで経験している。
他を同化することは、一方に振り切れば「最終的解決」にまで至る。
人間を同化することができるだろうか。
確かに、わたしたちはよく知る友人、家族を「ある程度同化している」だろう。
しかし、レヴィナスは、人間はその同化を越え出ると言う。
「顔」という概念である。
「顔」は「現れではない現れ」、「現前しない現前」、「形をもたない裸形」など矛盾的に表現される。
同化を逃れる他は、わたしの同化を常に過ぎ去っている。
捉えたと思ったら、そこにはすでに顔はない。
声だけが聞こえるが、その声の方を向いてもそこにはすでに誰もいない。
痕跡だけが残される。
痕跡として現れる他者の顔。
声は言う。
「なんじ殺すなかれ」
わたしはその声に応答できずに同意している。
世界の悲惨を体験した哲学者のギリギリの思考である。
わたしの目の前にはレヴィナスのテキストが残されている。
彼方から声が聞こえる。
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