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エピソード(17):脱力・体幹感覚と「身体は液体」感覚

身体に力を入れることは意図するとできる。
しかし力を抜くことは容易でない。
 
生後、仰向けで両手両足を振り回し、やがて寝返り、そしてハイハイと、両手、両足にどう力を入れるか自然に身につけていく。
(本当にはこの「自然に身につく」という過程には、サイエンスとして説明しようとすると、とんでもないbig dataの情報処理系が必要となるだろう)。
 
しかし、幼児期に身に付けただけに、逆に意図して力を抜くという事は難しい。
次の「華輪」という動作は、現代医学で十分に説明なされていない連続性の身体(Anatomy Trainでよく分かる)と、脱力の訓練になる。
 
これは稿を改めて記述すべきだが、「脱力」という言葉は適当ではない
むしろ四肢を使うことから、四肢筋肉と体幹筋群を連携させる感覚である。
神経系でいえばLMCをMMCに連携するとでもいうのが妥当か?
(LMC:lateral motor column、MMC:medial motor column)
不思議な、しかし相撲の四股・テッポウ等の稽古が、東洋では伝承されてきた訓練である。
 
 
身体から力を脱くことは、身体論、あるいは東洋系Bodyworkで重要なテーマの一つである。
日本でも野口三十三氏の野口体操の身体イメージ:
「皮膚の中に液体のようなものが満ちていて、その中に内臓が浮いている」
という練習では、脱力を身につける重要性が強調される。
また「ゆる」も運動論の基本としてしばしば訓練される。
 
 
西野先生の感覚は、「細胞感覚」である。
西野先生は早い時期からこの液体感覚を記載している。
(参考:「気の発見」(1989):p102;「宙遊」を感じた瞬間、p114;人体が水であることを実感する)
液体のイメージとは全身を細胞レベルで感じることでないか。その感覚とは?
 
西野先生の「細胞」という言葉は医学的意味よりイメージと理解する。
細胞とは医学的には顕微鏡下に発見され、Cell(もともとは小部屋の意)と命名されて、我々の身体の最小単位として、その後20世紀には生化学的理解、分子生物学的理解、さらにはiPS細胞という多機能細胞の研究まで到達している。
しかしその全容理解まではなお至っていない。
 
一方、我々の身体またその最小単位の細胞は、水分がほとんどである。実際に赤ん坊はその90%が液体(成人でも70%が液体)である。
こうした身体感覚は自分がそれを実感できない限り、説明しても始まらない。
 
実際、後述する対気の稽古やっていると、こちらからのイメージに身体がグニャグニャに反応する人が現実に存在する。
その方は普通には問題なく起立し、動作も特別なものではないが、対気の交流ではそうした身体が前面に出る。
 
我々一人一人の身体は大量生産のロボットではなく、個々の特性にあふれている。自分の頭がよほど柔らかくないと、こうした稽古にはついていけないだろう。
これも超現代的という所以である。

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