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土に”埋める”から、土に”還る”へ 土葬の衰退とヒューマン・コンポスティング

こんにちは。Weのがっこう0期生、三浦真央子です。
私は現在、奈良県奈良市に住んでいるのですが、先日近所の本屋に立ち寄ったら、気になる本を見つけました。

この本が「奈良を知る」といった趣旨のコーナーに置いてあり、一瞬ぎょっとしました。が、すぐに思い出したことがありました。
本に出会う少し前、自宅から車で30分ほど離れた素敵なインド料理屋さんへ行った時のこと。オーナーのかたが、「そういえばこの間、うちの近くで土葬があってね。日本でほぼ唯一、この辺で土葬が残ってるんだって」とお話しされていて、興味深く思っていたところだったのです。

10月から参加している「Weのがっこう」でも「死」にまつわるテーマを扱っていることもあり、未来に向けた新しい視点のひとつになるような気がして、いま土葬の文化を調べてみたいと直感しました。

土葬がどんな風習だったのか、なぜほとんどなくなったのか。土に遺体を葬るということは、今、どんな意味を持つのか。日本では、世界では?
今回は、過去・現在・未来の「土葬」をテーマに、深掘りしていきたいと思います。


日本における「土葬」減少の歴史

「家の近くで土葬がまだ行われている」と聞けば、私のように驚く方も少なくないのではないでしょうか。実際、現代の日本でどのくらい土葬が珍しいかというと、日本ではほぼ100%の人が火葬されているとのこと。残存する土葬文化の希少性について高橋氏は次のように記していました。

 「2005年の時点で、日本の火葬率は99.8%に達していた。(中略) そのようななかで、奈良県に土葬が残存しているエリアがあることを発見した。それも散発的な一、二の事例ではなく、複数の村で土葬が常時、継続して行われている。奇跡かと思った。」(高橋繁行『土葬の村』(2021年) 講談社現代新書 ,p3-4)

それ以降も土葬は減少しつづけており、現在の国内土葬率は全体の0.1%を下回っていると言われています。
ただ、火葬が急増する以前は土葬のみが主流だったわけではなく、奈良時代から、お棺を埋葬する「土葬」と、野原・薪窯などで遺体を焼く「野焼き」の風習が存在し、地域や身分によって使い分けられていたようです。

ちなみに、国内の最初の火葬の記録は『日本書紀』に記されています。当初は位の高い人のみの葬儀方法でしたが、鎌倉仏教が普及してからは庶民にも「野焼き」と呼ばれる地上での民間火葬が一般化するようになりました。それから江戸後期まで、多くの地域の農村でこの「野焼き」も主流だったようです。
その後、明治時代の廃仏毀釈の影響を受け、「火葬は仏教葬法である」という神道派の意見から1873年(明治6)には政府から「火葬禁止令」が出されたものの、すぐに都市部を中心に土葬用土地が不足したことを受け、1875 年(明治8)に撤廃されました。また、公衆衛生面での問題も土葬衰退に大きく影響していきます。同時期、伝染病による死者については火葬にすることを義務づけるとともに、人口密集地域では土葬を禁止する措置が取られました。

こういった行政による法整備に伴い、土葬が減少し始めていきます。1915年(大正4)の火葬率は、36.2%(『土葬の村』p174 )となり、戦後1950年〜60年代を中心に行われた「生活改善運動」や火葬業者の台頭によって、「土葬・野辺送り」と呼ばれる農村での民間葬はさらに激減していきます。

この時期は、国内における「エネルギー革命」の時代ともちょうど同じ頃。テクノロジーの進歩もまた、火葬拡大の一つの要因と言えそうです。

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また、高橋氏の『土葬の村』には、土葬風習の「過酷さ」も多く描かれていました。死者を弔うのですから、どんな方法であれ簡単に済むわけでは無いとは思いますが、見知った人を自らの手で葬るとき、それを目の当たりにせざるを得ない遺族や周囲の人々にとっては、ショッキングな光景も少なくなかったようです。

ぎりぎり現存する土葬については、ただそうするのが当たり前だったから、というのが本当のところなのではないかと思います。しかし本当のところは苦労も多く、詳細な方法を知る住民も地域から減っていったことから、できるだけ楽で、実現可能な「火葬」という方法を自然と選ぶことが増えていった、ということが土葬減少の大きな流れだと言えそうです。

(注:東日本大震災で亡くなった人を仮に土葬し、後でもう一度火葬するニュースに関して)しかし大保町の村人の反応は、そうしたこと以前に、土葬が当たり前という風土ゆえのものと思われる。土葬をなぜ続けるのですか、と五十代の男性に尋ねた。「そら焼かれるのはかなわん。熱いやんか」とおどけながら、「死んだら故郷の土に還りたい。それだけや」。彼はそう答えた。(高橋繁行『土葬の村』p54)

付け足しにはなりますが、個人的な感想として。土葬にはたくさんの個別な風習があり、苦労も多々あったようですが、「土葬の村」を通読してみると、そこには故人への思いやりが存分に含まれていると感じたのも事実です。時間をかけて朽ちていく肉体とともに、遺族も心の整理をつけていくという、真摯な弔いの精神が表れた儀式だったのだと思います。

日本の土葬の激減の理由をまとめると…
・人口が密集するような都市部では、土葬墓地が足りなくなった。
・公衆衛生の観点でも、火葬のメリットが大きかった。
・民間で行われてきた土葬/野焼きは、葬儀を行う側の過酷さも無視できないものであった。

上記のような理由から、20世紀を通して徐々にかつ急速に、業者へ委託する火葬がスタンダードとなっていき、土葬の選択肢はほとんどなくなっていきました。


世界の土葬事情

上記の理由をまとめてみると、日本だけに当てはまる話ではなさそうに思えてきました。では、世界の土葬事情はどうなっているのでしょうか。

今回は、ざっくりと
・キリスト教
・イスラム教
・儒教(主に韓国)
における土葬率・火葬率の変遷を見ていきます。

キリスト教圏の土葬事情
キリスト教といっても宗派は様々ですが、「死者は埋葬され、復活して天国へ行く」というイエスのエピソードから、本来は土葬が主流でした。しかし土葬が一般的だった地域でも深刻な「墓地不足」が課題となっており、1963年にはカトリック教会が火葬を解禁するなど、急速に火葬が広がっているよう。自由なプロテスタント派が多い国では、すでに火葬が一般的になりつつあります。(添付グラフ:アメリカ国内で火葬を選択する人の割合、parting.com より )

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イスラム教圏の土葬事情
イスラム教圏では、火葬はタブーとされており、現在でもほぼ100%の人が土葬されています。他の宗教でみられた「土葬用地不足」は同じように課題となっており、日本国内でも、イスラム教徒のための埋葬地不足の問題が深刻化。2021年には、大分のイスラム教徒の団体が厚生労働省へ訪れ、「各都道府県に土葬できる公営墓地を整備するよう陳情」するなど、国内での具体的な環境整備が求められています。


儒教圏(主に韓国)における土葬事情
儒教でも、火葬は遺体を毀損する行為だと考えられていることから、歴史的に土葬が推奨されてきました。西暦1400年ごろ〜1900年ごろの「朝鮮時代」においては火葬禁止令が発令されており、ほとんどのひとが土葬に。その後、日本の「朝鮮総督府」による植民地化・法改正によって火葬が義務付けられたり、戦後にはキリスト教の流入によってまた土葬が復興したり、紆余曲折ありながらもやはり「都市生活化にともなう土葬用地不足」が根本的な課題となり、韓国では2015年時点で火葬率78.8%にまで上昇したということです。



土に"埋める"じゃなくて、土に"還る"? 「ヒューマン・コンポスティング」

一方で近年、ヨーロッパ・アメリカなどのいくつかのスタートアップから「土葬」の選択肢を推奨しようという動きが広まりつつあります。しかも彼らは、ただ死者を埋葬する「土葬」を目的としているわけではありません。人間が”土に還る”「堆肥葬」いわば「ヒューマン・コンポスティング」を提唱しているのです。

Recompose (リコンポーズ)…アメリカ・ワシントン州シアトルのスタートアップ。葬儀後の遺体を、堆肥化を促進させる容器、カプセルの中に収め、約30日かけて分子レベルにまで分解していくサービスを提供しています。

そのほかにも、同じくアメリカ・ニューヨークのスタートアップ「Coeio」の「遺体を養分にしてキノコが成長し、土に人体の毒素が流れ出るのを最小限に抑えてくれるキノコスーツ」や、オランダ発の「Loop」では「キノコの根である菌糸体を原料とした棺桶」に遺体を収め、2〜3年で分解され「コンポスト」のように肥料になる例なども。微生物のはたらきを借りることから、従来の土葬よりも早く遺体が分解され、長らく課題であった「土葬用地不足」を解消することもできそうです。
これらのスタートアップを中心とした運動により、アメリカ国内ではワシントン州にて人間の遺体の堆肥化を認める州法が2020年5月から施行され、ほかカリフォルニア州、オレゴン州でも合法化に至りました。ヨーロッパ諸国では、一例ではオランダ、スウェーデン、イギリスなどでも法整備が進んでいます。

彼らがヒューマン・コンポスティングを提唱する共通の理由のひとつは、火葬の環境負荷の大きさです。一説によると、一人を火葬する時に乗用車のガソリンタンクほぼ2つ分のエネルギーを消費するとも。でも堆肥葬をすれば、CO2排出量を一気に抑えるどころか、土壌の栄養にもなれて、一石二鳥(それ以上?)ということ。

しかも目的は、環境負荷を減らすことだけではありません。「肉体が土に還り、養分となる」自然観も、重要なモチベーションになっています。理解の助けになりそうだったので、「Recompose」 オフィシャルサイトの冒頭文を自分なりに訳してみました。

Become soil when you die. (死んで、土になる)
Death is profound, momentous, and beyond our understanding. With an approach that is as practical as it is meaningful, Recompose connects the end of life to the natural world.  (死は、深く、重く、私たちの理解を超える出来事です。その重大さと同じくらい実践的なアプローチで、Recomposeは、生命の終わりを自然の世界へと繋いでいきます。)

人間はあくまで自然の一部であり、死んだ後は自然に還る。人間は生きているあいだずっと、人間以外のあらゆる他種によって生かされていて、生命活動が終わった後も、その関係性は終わらない。土、空気、あらゆる環境に息づく微生物などの他種によって分解され、自分の肉体も彼らの養分になっていく。このような考え方は、マリア・プイグ・デ・ラ・ベラカーサさんの「More-than-human」のような、他者や他種へのケアに満ちた概念に通じるものがあります。


また、未来の地球や生き物たちへのまなざしに満ちた「Good Ancestor(よき祖先)」でありたいという観点ともつながります。最近「Weのがっこう」のみんなと語り合う色んなことに繋がっていって、なんとも興味深いです。


新しい弔いのかたちは、環境負荷の高い火葬に対するアンチテーゼとして重要な意味を発揮しています。また、従来の土葬と対比してみても、テクノロジーの進化や宗教・倫理観が変化したことから、課題を大幅にクリアできていると言えそうです。

それと同じくらい重要なのは、ヒューマン・コンポスティングは「土に還り、自然の一部になりたい」という故人の自然観を尊重した選択肢であり、それが選べる時代になりつつあるということ。タブー視されがちな「死」を当然のこととして受け入れ、自分/他者/他種の3方すべてにとって望ましい選択肢を準備しておくこと。ヒューマン・コンポスティングは、死後の時間すらもケアする死にかただと言えるでしょう。


さいごに

つい先日「Weのがっこう」の対話のなかで、印象的なやりとりがありました。未来の世界がどのようになっていても、未来世代がよりよい選択肢を選べるようにしておくことが現在世代のできること、それが私たちの「責任」であり、未来に対して「応答する力」(response + ability=responsivility)なのではないか、と。

環境問題だけを理由に火葬を悪者にすることはできませんし、その価値観だけを押し付けたり、望んだりしているわけではありません。それに、感染症の脅威が今までになく押し寄せているいま、葬儀方法の観点からもリスクを抑えることがさらに重要視されていると言えます。

あらゆるリスクや価値観がせめぎ合うなかでも、「従来の選択肢の課題をちゃんと認識し、それ以外の選択肢を作っておくことが、未来に向けた前進である」ということが、今回の調べを通して、自分の中でしっかりと腑に落ちました。「ヒューマン・コンポスティング」も、それ以外の”死に方”も。未来の子孫たちが死ぬとき、彼らが選びたい方法を選べる世界をつくることもまた、現在世代の私たちのよき在り方なのではないでしょうか。

参考文献・参考WEBサイト
https://president.jp/articles/-/48330?page=1
https://recompose.life/
https://www.loop-of-life.com/
https://coeio.com/
https://heapsmag.com/mushroom-burial-ecology-new-death-movement

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本メディアWONDERは「あらゆるいのちをケアする想像力」をはぐくむDeep Care Labによって運営しています。100年後の未来や生態系への想像力が触発される学びや実験、事業を多様なセクターと共創しています。プロジェクトの協働ご興味ある方はぜひお気軽にご連絡ください。

書いた人:三浦真央子( twitter @maokomiura )

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