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(9/12)『公共哲学入門』ゼミレポート#2-第2章「公共哲学の歴史I」 @ソトのガクエン

こんにちは、ソトのガクエンの小林です。

毎週火曜日に実施しています『公共哲学入門』ゼミ、第2回目のレポートです。今回は、Sさんがリーダー(reader)となり、作成いただいたレジュメをもとに、第2章「公共哲学の歴史Ⅰ」を読み進めました。

本章は大きく分けて、十九世紀半ばを境に、それ以前をカントによる公共哲学によって、それ以後を、主としてシュミット、リップマン、デューイ、シュンペーターによる「大衆」をめぐる公共哲学によって解説するものでした。カントの公共の議論を起点に、それがどのような形で継承されているのかを辿るという趣旨ですが、では、それ以前の公共哲学として名前が挙げられているアリストテレスやキケロはほったらかしでいいのか?といったツッコミもありながら、ともあれ、テキストの流れに沿って読解を進めました。

個人的に興味深かったのは、カントが「私的」という語を、自らが属する組織の規範や規則に拘束されていることとし、「公共的」という語を、そのような自らの組織によって制限されることなく、「既存の境界を脱する動きを含意」するものとしているということでした。
では、この集団組織を越えて、「既存の境界を脱する動き」というのは、カントの自律的理性使用と考えて良いのか、ここで議論されてるカントの公共についての議論と、カントの普遍的道徳の原理ははたして整合的なのか、ということがその場では議論となりました。

一点、テキストでは、カントは「征服と変わらない「訪問」によって普遍的歓待の条件が甚だしく損なわれている」として、当時の植民地主義を批判し、むしろ「「訪問」は、植民地支配や資源の収奪のためにではなく、世界全体を法的な状態(「世界市民状態」)、つまり全世界の市民の権利・義務が法によって規定され、保障される状態に近づけていくために行われなければならない」(46)としていたとあります。しかし、現実には、後者の視点そこが極めて「ヨーロッパ中心主義的」なものであり、結果的に、「訪問」先の支配や資源の収奪になってしまうことこそが、啓蒙主義の問題なのではないかと個人的には思いました。

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後半部分、「大衆」というタームを軸に、多元的で自由な討論からデモクラシーを切り離すシュミット、当てにならない大衆(ないし世論)に抗して「基本的な諸権利を保障する立憲主義の体制を擁護する」リップマン、リップマンとは対照的に問題解決に市民が参加すべしとするデューイ、市民の政治活動は投票行動にとどまるべしとするシュンペーターという整理はとてもわかりやすいものでした。

参加者の方々とは、公衆と大衆の違いとは何なのか(今日読んだ箇所では明瞭に説明されていない)、予算配分の意志決定は専門家に任せるのか or 一般市民も参加すべきか、蓮實重彦による「プラトンの寝椅子」の議論、厚生年金の問題等々等々、テキストを出発点にさまざまなテーマについて色々と議論することができました。

基本的にとても読みやすいテキストなので理解がしやすく、また、一章ごとがコンパクトなので、ゼミのような形式で読むのにとても良いですね。

次回は、9月19日(火)22時より、第3章「公共哲学の歴史Ⅱ」を読んでいきましょう。


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