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(9/23)ジェイムズ『純粋経験の哲学』ゼミレポート#3- 純粋経験がついに登場@ソトのガクエン

みなさん、こんにちは。ソトのガクエンの小林です。

9月23日(土)に行われましたジェイムズゼミのレポートです。今回は、12頁から読み進めました。冒頭、「「意識」は存在するのか」の最重要概念である「純粋経験」が導入される箇所が登場します。

ジェイムズはこう述べます。

わたしのテーゼはこうである。もしもわれわれが世界のうちにはただひとつの原初的な素材や材料のみが存在し、この素材によってすべてのものがつくられているのだという想定から出発するならば、そして、もしもわれわれがこの素材を「純粋経験」と呼ぶのであれば、そのときには、認識するという作用は、純粋経験の特定の部分どうしが互いにもちうる関係として容易に説明できるであろう。

ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』(岩波文庫)、12頁。

ジェイムズの意図は、わたしたちが通常、物と対比させて理解する「意識」の存在を無しにすることにありますが、この世界がまったくの無ではない以上、何かが実在していなければならない。ならば、その世界の素材を「純粋経験」と呼んでこれを置きます。当然ながら「純粋経験」は、意識と物の対立以前、むしろ、そこから意識と物の対立が生じてくる素材であると言えます。(※ここで、無ではなく有を前提に置くこのジェイムズの姿勢が、きわめてヨーロッパ的な発想ではないかと、参加者の方からご指摘がありました。)

このテーゼを理解するには、多くの説明が必要であるとして、ジェイムズはまず、意識を単なる「自己意識」という形式へと、極限まで揮発させた新カント派が、それでもなお経験内容から意識を析出できるとし、経験内容と意識という内的な二元性を前提していることを指摘します。すなわち、新カント派は、現実の最小単位を「主観-プラス-対象」(object- plus- subject)
とし、対象を捨象すれば主観(意識)が、反対に、主観を捨象すれば対象(経験内容)が析出されるように、両者の関係を引き算によって理解するとジェイムズは言います。
これに対してジェイムズは、わたしの主張はこうした考え方と正反対であるとし、「経験とはそのような〔主観と対象という〕内的二元性をもつものではない。経験が意識と内容に分離されるのは、引き算によってではなく足し算によってである」(17)と主張します。すなわち、いわば主客の区別がない(未分化な)経験(純粋経験)がまずあり、その経験の所与の一片が、他の経験の断片からなる集合のなかに加えられることによって、あるときは認識者の役割を果たし、あるときには認識されるもののの役割を果たすようになる。これは例えば、ある絵具(経験の所与の一片)が、絵の具屋(他の経験の断片①)の壺(他の経験の断片②)のなかで(「なかで」も他の経験の断片?)、他の絵の具(他の経験の断片③)と並べられている(他の経験の断片①②③etc…からなる集合に加えられる)とき、売り物としての役に立つのに対し、キャンバスのうえに周囲を取り囲む他の絵の具とともに塗られると(他の~省略)絵画の一部分を構成し、精神的な機能を演じることになることとしてジェイムズは説明します。
こう考えると、純粋経験は、いまだ主観的でも客観的でもない、両者が未分化な状態であるとも言えますし、この純粋経験自体が、主観と客観の両者になるわけですから、主観的でも客観的でもあるともいえる。こうした純粋経験を前提にすることで、意識というものを「意識」であるということ以上に説明できないものにしてしまう新カント派とは異なり、「つねに個別化し具体的に定義できる」ようにすること、検証可能なものにすることが、ジェイムズの企図であるということができます。

当日の議論としては、ではそもそも「純粋経験」とは何なのか?プラトンのイデアのように読める、いや、イデアを物質化可能なものとして理解するならばそうともいえるかもしれない、などの議論が参加者の方々のあいだで繰り広げられました。個人的には、純粋経験が、主客未分化な実在であるとして、それをなおも「経験」と呼ぶことができるのはなぜなのかという疑問を持ちました。参加者の方々も、「経験」であるからには個人的に経験されるものとの先入見から(ジェイムズのレトリックとしては、純粋経験は個人的に経験されるものではないが、経験されるものでもありうるというものなので、先入見とも言い難いのですが)、さまざまな疑念が生じていたように思います。

また、ジェイズムの主張を真摯に受け入れるならば、認識というものは、純粋経験の一片と他の経験の断片の集合において生じるものですので、もはや認識作用は人間存在はおろか、意識を持つ存在者にも属するものではなくなります。人間も意識的存在者も不在のところに、いたるところで経験の諸断片同士が関係を結び、いたるところで認識作用(意識)がポコポコ生じては消えるそのような多元論に当然なるはずであり、極めて形而上学的なヴィジョンが、ジェイムズのコスモロジーには含まれているという話をしました。「「意識」は存在するのか」という、あくまでも心理学の延長上で議論されるものと、こうした形而上学的なヴィジョンがどう両立するのか(しないのか)ということが興味深いポイントのひとつかと思います。


次回は、9月30日(土)22時より、19頁「読者も自分自身の経験に照らしてみれば~」から読んでいきたいと思います。

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