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【3/12】古典読解ゼミ#2(サルトルを読む)レポート

本日は、古典読解ゼミ#2のレポートをお送りします。
担当の小林がレジュメを準備し、『イマジネール』の序の部分を読みました。

序は、サルトルの養子であり最期の愛人であるとされるアルレット・エルカイム=サルトルによるものです。全体の構成としては、『イマジネール』と一般的な心理学理論との対比について述べられる前半部と、『イマジネール』の第一部から第四部、結論の構成が述べられる後半部に分かれます。
一般的な心理学理論が、ヒュームの連合主義のように、人間の意識状態というものが外的感覚によって受動的に形成されると考えるのに対して、サルトルは(自己)意識の能動性に着目している点に両者の争点があります。『イマジネール』は、ベルクソン哲学の持続概念に依拠し、連合主義への批判、心的イメージと知覚の差異といった共通の問題意識を見出しますが、サルトルは、ベルクソンの直観をあまりに主観的すぎるとして距離を取り、「経験の所与が意味をもつようにする支点」となる「具体的なもの」を求めたのだと、エルカイム=サルトルは述べます。そして、サルトルにとって「具体的なもの」とはデカルトのコギトであるとされます。

※当日も議論がありましたが、「我思う」(コギト)と「具体的なもの」との関連がいまいちよく分かりませんでした。「具体的なもの」自体が何なのか(訳注にあるように、ジャン・ヴァ―ルに由来するようです)ということもありますが、我思う(コギト)が私の存在の確証するというデカルトの議論と、イメージの存在が反省的意識が可能となることの条件となるという構造的な類似以上に、どのようなつながりがあるのかを理解するには、本文を読み進める必要があるかもしれません。

さらに序では、本書の構成が次のように述べられます。第一部では、心的イメージというものがそもそも記述困難であるため、迂回して、心的イメージの仲間である肖像、カリカチュア、物まね、図式的デッサンが論じられます。

当日配布資料より

第二部では、イメージにおける志向対象とその類似的代理物(アナロゴン)の対立を可能にする意識構造について、第三部では、思考のさまざまレベルに介入するイメージの役割について、第四部では、フロイトやジャネによる夢や幻覚についての病理学的事例について論じられます。
『イマジネール』は、心的イメージという想像力の問題を扱いつつも、イメージを不在として生み出す存在や、現実的なものの否定としての意識といった、その後の『存在と無』における意識(対自)、無、即自存在の三者による存在論的ドラマを構成する論点がそこには見出されるとエルカイム=サルトルは指摘しています。

参加者の方々からは、サルトルは意識の志向性構造をどのように導いたのか、「具体的なもの」とは何なのか、ウィトゲンシュタインのアスペクト論と判断中止(エポケー)の相違などについての議論がありました。

全体の印象としては、序はサルトル本人のものではないということもあり、実際に本文を読んでみなければ分からない部分があるのと、現象学的な議論について具体的な論述や論証が行われているわけではないので、書かれている通りを受け入れるしかなく、それほど議論を展開できるものではありませんでした。ともあれ、次回から、第一部「確実なもの」の読解に入りたいと思います。

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