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【3/26】古典読解ゼミ#4(サルトルを読む)レポート

本日は、『イマジネール』第一章「記述」45ページあたりから最後まで(65ページ)読み終わりました。今回読んだ箇所(イメージの第三の特徴「想像的意識は対象を一つの無として立てる」)は、かなり内容が難しく、読み解いて行くのが困難でした。とりわけ難しかったのは、イメージに関する意識について、サルトルが非反省的意識や反省的意識、非措定的意識などいくつもの同じような表現によって言い換え、説明している部分です。

あらゆる意識は、何ものかについての意識である。非反省的意識は、自分とは異質の対象を目指す。たとえば、樹木についての想像的意識は樹木を目指す、つまり本性から言って意識の外部にある物体を目指す。この意識は自分自身から出て、自分を超越するのである。

『イマジネール』(講談社学術文庫)53ページ
樹木をイメージする

樹木をイメージするとき、意識は樹木についての意識であり、自らの外部にある樹木のイメージに向かって自分を越え出ています。このように、自分の外部に向かって自らを越え出ていく運動をサルトルは超越と呼んでいます。

自分とは異なるものへと自分を越え出る運動としての超越

この樹木を想像しているときの意識構造を記述するためには、自らを反省する反省的意識を生み出す必要があるとサルトルは言います。

想像的意識=非反省提起意識を記述するためには反省的意識が必要

ならば、反省的意識が生み出されていない時点では、この想像的意識は無意識だということになるが、これは矛盾していると指摘します。

では反省的意識がない段階の想像的意識=非反省的意識は無意識なのか?

想像的意識=非反省的意識は、反省的意識が生み出されていない段階においては、イメージとしての樹木以外の対象をもたないとしても、「自分自身についての何らかの意識を含んでいなければならない」。つまり、「想像的意識はみずからについての内在的で非措定的な意識をもっている」(54)ということになるとサルトルは言います。

自らの内在的で非措定的な意識を想像的意識はもっている。

この部分を読めば、反省的意識の対象となるのは、想像的意識=非反省的意識であると同時に、そこに含まれている自らについての非措定的意識であるということが分かります。ただし、サルトルはここでは非措定的意識について記述することは斥け(訳注によれば、これは「自我の超克」や『存在と無』で論じられることになります)、想像的意識の記述においては、①非反省的意識は、いかにして対象を定立するのか、②この意識は、対象の定立にともなう非措定的意識において、いかにみずからに現われるのかの2点を知る必要があると言います。難しいのは、イメージする意識も、想像的意識=非反省的意識も、反省的意識も、非措定的意識も、すべて同一の意識であるということで、これらを区別するために、サルトルは現象学的方法を参照しているというわけです。


また、サルトルは、反省的意識によって記述される想像的意識がイメージを定立する仕方は次の4つの形式に限られると言われます。

(1)対象を非実在のもの〔inexistant〕として定立する。
(2)対象を不在のもの〔absent〕として定立する。
(3)対象を他の場所に実在するもの〔existant ailleurs〕として定立する。
(4)「中立的な立場をとる〔neutraliser〕」つまり、対象を実在するもの〔existant〕としては定立しない。

これら4つのイメージについて、たとえば一人っ子が兄弟についてイメージすること、あるいは生き別れた兄弟をイメージすることなど、それぞれに具体的な事例を当てはめて考えることができそうだという意見が参加者の方からありました。当日、途中で断念してしまいましたが、たしかに面白そうです。ともあれ、想像的意識はイメージが構成されてからイメージに付け加わるのではなく、イメージを定立する作用がイメージの意識、すなわち想像的意識を構成しているのだとサルトルは言います。

この箇所は、定立という語も合わせてシェリングが想起され、「哲学的経験論の記述」における無からの創造について論じられる非実在と不在の区別、すなわち、その存在が現実的に存在すること(定立すること)を否定する「メー・オン」と、存在の否定が肯定され定立される「ウーク・オン」との区別が念頭におかれているのではないかという指摘がありました。

このほかにも、サルトルは、知覚、概念、想像のそれぞれの意識にそれぞれ異なる総合作用があり、イメージにおける対象は、多様な総合作用において捉えられるべきものとして現れると言いますが、この部分は、カント『純粋理性批判』の「純粋悟性概念の演繹」の議論を想起させたりと、哲学史的に重要な議論がいくつか背景にあるように思われます。


このように、第一章「記述」では、意識が、非反省的意識、非措定的意識などの同じような用語で何度も言いかえられ、難解な現象学的概念を用いて説明されていますが、これは、イメージをもつ意識(想像的意識)を理解する上で、意識を実体化することなく、また、想像における意識作用(ノエシス)と固有の対象(ノエマ)を、知覚や認識とは異なる仕方で記述する目的のためであるというのを押さえておけば、ここまでのサルトルの主張自体はそれほど難解なものではないかと思います。

そして、序でアルレット・エルカイム=サルトルが述べていたように、想像的意識それ自体を記述するのは難しいため、第二章からは、いくつかの具体的なイメージの仲間を分析することで、想像的意識の固有性を明らかにすることが試みられることになります。

次回は、基礎力向上ゼミが4月5日(火)21時から、古典読解ゼミが4月9日(土)22時から再開いたします。参加ご希望の方は下記からご利用ください。


現代思想コース/哲学的思考養成ゼミ(@ソトのガクエン)は、参加者を募集中です。参加ご希望の方は、サークルのページソトのガクエンのPeatixもしくはホームページにて詳細をご覧ください。


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