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詩を書くように批評を書く

宮本武蔵は「みる」という営みについて、観見ふたつの目があるという。

「見の目」とは、普通に物を見る目である。それに対し、「観の目」とは、心のはたらきにより、状況を大きく見る目である。

これを引いて小林秀雄は、批評眼というのは「見の目」であり、ジロジロ見る目だともいう。それに対して歴史観というのは本来「観の目」であるはずが、「観」という言葉の語感に注意が払われない。「語感などという古臭いものは詩人にまかせて置け」という風潮を感じる小林秀雄は、「語感」そのものへの意識が薄れていることを憂う。

詩人にとっては、言葉の意味とは、即ち語感の事である。語感とは言わば言葉の姿だ。言葉というものが生きており実在している表情の如きものだ。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p166

唐突に詩や詩人のことが出てきたわけではない。小林秀雄を「近代批評の神様」と呼ぶならば、その批評の原点に詩があったことは言うまでもない。

私が象徴派詩人によって啓示されたものは、批評精神というものであった。これは、私の青年期の決定的な事件であって、し、ボオドレエルという人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろうと思われるくらいなものである。

『詩について』「小林秀雄全作品」第18集p20

ただ、先の戦争をはさんで小林秀雄は、自分の批評の在り方に疑問を抱き、新しい試みをしていたのも事実である。1948(昭和23)年の講演『私の人生観』に先立つ、あの舌禍となった1946(昭和21)年の座談会「コメディ・リテレール」において、小林秀雄はその試行錯誤の一端を示している。

近頃、こんなことがしきりに考えられる。真っ白な原稿用紙を拡げて、何を書くか分からないで、詩でも書くような批評も書けぬものか。(中略)批評だって芸術なのだ。そこに美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。

『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで(座談)』「小林秀雄全作品」第15集p29

すでに小林秀雄は、「詩的言語」を持って批評する試行錯誤をしている。1942(昭和17)年に発表した、あの「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」で知られる『当麻』であり、本稿でも触れた『西行』『平家物語』などを収録して同年に刊行された「無常という事」における日本の古典に対する批評に表れている。

小林秀雄は「詩的言語」について、どのように考えているか。そして、どのように批評として表現されているか。言葉の「形」「姿」とは何か。これらをまとめれば、『小林秀雄の言語観』という本が一冊書けてしまうだろう。

盟友である中原中也のこともあり、小林秀雄にとっては生涯、詩人というのは身近な存在であり、また答えが簡単に分かるものではない謎だった。それでも、自分の目指すところでもあったのだろう。

詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるものでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えてしまう、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。

『美を求める心』「小林秀雄全作品」第21集p251

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