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知覚の拡大は、共感の拡大だ

芸術家も哲学者も、生活上の行為をするための物事から注意を逸らし、むしろ生活に役に立たない視点からその物事を見ることで、物事の本質を見きわめることができるとベルクソンは説く。その考えを援用して、小林秀雄は「美の問題」をさらに突き詰めていく。

優れた芸術家達は、ベルグソンが哲学者達に望んだ様に、唯一の美のシステムの完成に真に協力している様に思われます。真の協力とは、めいめいがその個性をつくして、同じ目的を貫くという事だ。<中略>画を見る為に、人々は、めいめいの喜びも悲しみも捨ててかかる必要はない。各自が各自の個性を通し、異なった仕方で一枚の画に共感し、われ知らず生き生きとした自信に満ちた心の状態を創り出す。そういう心は、たがいにどんなにことなっていようが、友を呼び合うものです。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p181

批評家の河上徹太郎や作家の今日出海など学生時代からの盟友をはじめ、文芸や骨董、美術など、幅広い交友関係を小林秀雄は持つが、文士としては群れず、孤高を貫いた印象がある。それが、共感する、友を呼び合うといった方向へ話が展開するとは、ちょっと意外だった。

いや、それは誤読である。

『私の人生観』から17年を経た1965(昭和40)年、初対面の数学者・岡潔と半日かけて語り合った『対談/人間の建設 岡潔・小林秀雄』において、二人は芸術においても意気投合している。

小林 いまの絵かきは自分を主張して、物をかくことをしないから、それが不愉快なんだな。私は絵が好きだから、いろいろ見ますけれども、おもしろい絵ほどくたびれるという傾向がある。人をくたびれさせるものがあります。物というものは、人をくたびれさせるはずがない。
 そうなんですよ。芸術はくたびれをなおすもので、くたびれさせるものではないのです。

『対談/人間の建設 岡潔・小林秀雄』「小林秀雄全作品」第25集p147

小林秀雄のいう「おもしろい絵」とは「自分の考えたこととか自分の勝手な夢をかく」絵のことであり、岡はそれを、自我が強い絵といっている。それよりも、物が描かれている絵がいいと二人は口をそろえる。自分の考えたこと、自分の勝手な夢というのが、生活における行動を目的とした知覚の表れであり、それを描いた絵は、「くたびれさせる」。だが、物が描かれているとき、その「物」は生活上の何の役にも立たない。行動から注意が逸れている。そのときに「物」の本質が見えてくる。絵にも表われてくる。見る者にとっても新鮮な発見があれば、「くたびれる」はずがない。むしろ内なる力がわいてくる。ベルクソンも『思考と動き』で、哲学者の注意の転換は、内的生命の領域で、変化の実体性が明らかになるといっている。

さらに二人は、個性と共感について話を繰り広げる。

小林 (略)岡さんの数学の世界というのがありましょう。それは岡さん独特の世界で、真似することはできないのですか。
 (略)数学の世界で書かれた他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書いてある。一人一人みな別だと思います。ですから、ほんとうの意味の個人とは何かというのが、不思議になるのです。(中略)各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。(中略)個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。(中略)個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。

『対談/人間の建設 岡潔・小林秀雄』「小林秀雄全作品」第25集p154

芸術家も一人一人の個性は違う。見る側もそれぞれ個性が異なる。それでも、優れた芸術には共感できる普遍性がある。そして生きる自信がわいてくる。さらに共感が広がり、人の和もできる。

ベルクソンによる「知覚の拡大」は、小林秀雄にとってみれば、人の心の拡大であり、共感の拡大にほかならない。小林秀雄がベルクソンに心酔した気持ちを「思い出せる」ようである。

(つづく)

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