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『オールド・クロック・カフェ』一杯め「ピンクの空」【ノトコレ版】

 その店は東大路から八坂の塔へと続く坂道を右に折れた細い路地にある。板塀の足元は竹矢来で覆われ、木戸の向こうに猫の額ほどの庭があり山吹が軒先で揺れる。門の前に木製の椅子が置かれメニューを書いた黒板が立て掛けられていなければ、カフェと気づく人はいないだろう。
 そのメニューが変わっていて、こんなふうに書かれている。
 
  六時二五分のコーヒー………五〇〇円
  七時三六分のカフェオレ……五五〇円
  一〇時一七分の紅茶……………五〇〇円
  一四時四八分のココア…………五〇〇円
  一五時三三分の玉子サンド…三五〇円
 
 この風変わりなメニューに足を止め、いぶかしげに覗きこむ人がいる。
 ようこそオールド・クロック・カフェへ。
 あなたが、今日のお客様です。

 店舗コーディネーターの亜希は、外回りで足が悲鳴をあげ、ヒールを脱ぎ捨てたい衝動に駆られていた。小指の痛みが頭まで響く。次のアポイントまでに昼をすませなければ。だが、もう歩けそうにない。右手の路地の先に椅子が一脚置かれ、黒板が立て掛けてあるのが見えた。カフェだろうか。
 黒板の前で亜希は首をかしげた。メニューに時刻がついている。なぜ?  いぶかしがりながらも木戸をくぐり飛び石をたどる。ガラスの嵌った格子戸を引くと、からからと乾いた音がした。
 ぼーん、ぼーん。柱時計が時を打つ。
「いらっしゃいませ」
 カウンターで本を読んでいた娘が立ちあがる。白のスタンドカラーのシャツに黒のカフェエプロンをつけている。きゅっと笑くぼが浮かんであどけない。古びた店の雰囲気とちぐはぐな印象が、亜希をほっとさせた。
 京町家を最低限だけ改修したのだろう。床は黒光りする土間で、入り口の真向かいにも格子戸がある。きっと向こうは中庭だ。両方の庭に面して窓があり、射しこむ陽で店内はよいかげんに明るい。
 店に入って驚いた。壁という壁を柱時計が埋め尽くしている。全部でいくつあるのか。たいていは木製だが青銅や真鍮製もあれば鳩時計もある。大きな置床式の古時計もあった。時計の森に迷い込んだようだ。
「すごい……ですね」
 感嘆以外の言葉が見つからない。
「三十二台あります。去年まで店主だった祖父が時計好きで東寺の弘法市なんかで骨董品を集めてました」
 カウンターの他にテーブル席が両方の窓際にひとつずつと中央にひとつある。亜希は中庭側のテーブルに座りヒールから踵を外した。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 メニューが亜希の前に置かれたとたん、柱時計のひとつが鳴った。
「気にいられたようですね」
 店員が笑くぼを浮かべる。
「えっ?」
 亜希は顔をあげる。
「あの十二番の時計がお客様のことを気にいったみたいです」
「時計が私のことを気にいる?」
 淡い水色から薄紫へとグラデーションを描く柱時計を女性は指さす。エナメル塗装が陽を受けて光る。
「時計は気まぐれやから気に入ったお客さんやないと鳴らん、と祖父が云ってました」
「時計が客を選ぶの?」
「お客様が席につかれるタイミングで鳴ると、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれるそうです」
「忘れ物?」
「本人も気づいてへんから忘れ物なんですって」
 また笑くぼを浮かべる。
 信じがたい話に亜希はとまどう。とんでもない店に入ってしまったのだろうか。娘の瞳はまっすぐで、からかっているようにはみえない。
「店を継いで三か月ですが、時間でもないのに時計が鳴ったのはお客様で三人めです。一人めのお客様はアホなこと言うなと怒って出ていかれました。二人めのご婦人はずいぶん悩まれたのですが、『時のコーヒー』をご注文になられました」
 時のコーヒーいうのは、と娘が続ける。
「時計に番号がついてて、鳴った時計と同じ番号の豆で淹れるコーヒーを『時のコーヒー』と呼んでます」
「ふつうのコーヒーとは違うの?」
「私も気になって三十二番まで試し飲みしてみたんですけど、何も起こりませんでした。時計が鳴らんと奇跡は起こらないみたいです」
 と肩をすくめる。
「ご婦人はひと口啜られると寝てしまわれて、目を覚ますと、忘れ物を思い出したわ、と帰っていかれました」
「ひとつ訊いてもいいかしら」
「なんでしょう?」
「メニューの時刻には意味があるの?」
 気になっていたことを尋ねる。
「わかりません。メニューも祖父が考えたんです。おもろいやろ、と笑っただけで教えてくれませんでした。私も謎解きに挑戦しているところです」
 いたずらっぽい目をしていう。
「それと、時計の時刻も忘れ物と関係があるそうです。祖父の話なのでほんまかどうかわかりませんが」
 亜希は薄紫の柱時計を見あげる。四時三八分を指していた。その時刻に私は何を忘れてきたのだろう。
「じゃあ、ミックスサンドと時のコーヒーを」
「かしこまりました」 
 ミルで丁寧に豆を挽く音が響く。微かにコーヒーの香りが漂いはじめた頃あいでサンドイッチが運ばれてきた。それを摘まみながら亜希は中庭に目をやる。連翹と雪柳がひと群れさわさわと揺れ、蝶が遊んでいた。 
「お待たせしました。十二番の時のコーヒーです」
 ふくよかな香りが立ちのぼる。ためらいがちにひと口啜ると、ほろ苦い甘みが広がった。三口めを舌の上で転がすと、亜希はゆっくりと時の彼方へまどろんだ。
 
 一面に広がる海。そこにぽたりとピンクの滴が落ち、たちまち滲んで薄紫になる。ぽたり、ぽたりと滴の輪が広がり干渉しあい色が重なっていく。青とピンクと紫が溶けてたゆたう。揺れていた視線が引いていくにつれ、パレットに溶かれた絵の具が現れた。と、耳をつんざくほどの蝉時雨が降ってきて、視界がぱっとクリアになった。
 学習机に座ってパレットをもつ少女のポニーテールが揺れている。あれは小学四年生の私だ。夏休みの宿題の絵を描いていた。「家族の思い出」という課題で二年前の夏に出かけた海の光景を描いた。家族四人がそろっている最後の夏だ。
 夏休みも残りわずかとなった週末、父は「竹野海岸の保養所に行くぞ」と告げた。亜希は小学二年生、姉の早希は五年生。ふたりは歓声をあげた。
 盆を過ぎた日本海は、時折、高い波をあげる。
 父が笑う、姉が笑う、母も亜希も笑う。タイマーをセットして海を背に写真を撮った。家族四人で過ごした最後の幸せな記録だ。
 その年秋から冬へと季節がうつろう頃、父は家を出た。
 
 テニスの部活から帰った早希は、階段をのぼると亜希の部屋を覗く。
「何してるん?」
「宿題の絵描いてる」
 ぼそぼそとしゃべる亜希の声は、シャワーのように降る蝉の声にかき消されがちだ。
「見せて」
 姉は描きかけの絵を取りあげる。砂浜で家族四人が笑っている。背景に海と空が広がる。
「なんで空がピンクなん?」
 姉が眉をしかめる。
「お母さあん、亜希の絵が変よ」
「帰って来るなりにぎやかね」
 パタパタと階段をのぼるスリッパの音がした。
「空がピンクなん」
 姉が絵を見せると、母の顔が険しくなる。
 母は良くも悪くも常識人だ。常識の枠から外れるものを認めない。父が絵描きになると家を出たものだから、クリエイティブなものを嫌悪していた。
「どうして空がピンクなの? 空は青で雲は白でしょ」
 亜希はうつむく。
 海も空も水色で塗ると境めがわからなくなった。困り果て線を引こうと思いついた。父が笑っている。母も笑っている。家族の笑顔を描くと、明るい色を足したくなった。
 淡いピンクをパレットで作り水平線に筆を走らせた。すると、ピンクが水色と滲み薄紫になった。その偶然の色が亜希には魔法の色のように思え、ピンクを塗る手が止まらなくなった。ピンクと薄紫と水色がまばらに溶け合った空は美しく亜希はうっとりした。
 それを姉と母に全否定された。
 亜希は姉がうらやましかった。母はいつも「お姉ちゃんのようにしなさい」という。勉強もスポーツもできる姉は母の自慢だ。亜希も母に認めてもらいたかった。
 (うまく描けたから、ほめてもらえるかも)
 ふくらんでいた期待が急速にしぼんでいく。目を逸らすと、机の上の時計が四時三八分を指していた。まるで亜希の気持ちをなぞるように、針までうつむいてみえた。
「早希、明日は部活ないでしょ。塗り直すのを手伝ってやって」
 樫の木にとまった蝉が渾身の鳴き声を轟かせる。
 亜希は言葉を吞み込んだまま、うつむくことしかできなかった。
 蝉の声が遠ざかり、ぼーん、ぼーんと穏やかに空気をふるわせる音が追いかける。画面がレンズを閉じるようにフェイドアウトしていくと、時計の文字盤が浮かびあがった。
 
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 頭の奥で響いていた音がじかに鼓膜を振動させ、亜希は目を開けた。意識は現実と夢の間で揺れていたが、頭をひとふりして店内を見渡す。中庭ではまだ蝶が遊んでいる。
 いったん開いた記憶の蓋は、あの午後の続きまで呼び起こした。
 
 翌朝、姉は牛乳を飲みほすと「食べたら空を塗り直すよ」と告げた。
 亜希はトーストをかじりながら無言でうなずく。
 亜希はたいてい母や姉に命じられるままに従ってきた。だがその日は、気持ちが前に進まなかった。あの空を塗り直すのかと思うと心がうつむく。もぞもぞとトーストを噛み続けた。
「なんで空をピンクにしたん?」
 早希はパレットに絵の具を出しながら尋ねる。
「海と空の境めがわからんくなって」
「それで空をピンクに? 意味わかんない」
 亜希は言葉を探して口をとじる。
「そんなんはね、入道雲を描いときゃいいの」
 早希は筆に白をふくませ、水平線に大きな入道雲をふたつ描いた。たちまち空と海が分かれる。亜希があんなに苦労したことを姉は簡単に修正する。
「空を水色に塗り直すよ」
 早希がピンクの空をどんどん水色に塗り変える。またたくまに入道雲の湧く夏の空が広がる。どこかで見たことのある海の絵ができあがった。亜希がうっとりした空は、ひと欠片も残っていない。
 父がいた夏の幸せな記憶まで色褪せてしまったようで悲しかった。楽しかった夏はもう二度と帰ってこないのだと、水色に塗りつぶされた空が告げる。ふつうの空が、ふつうの家族の思い出を塗りつぶしてしまった。
 
 亜希は吐息をつく。小学生の私が無意識に心の奥にしまい込んだできごと。とっくに時間が洗い流しているから、今さら傷つくことはない。
 亜希は椅子に深く体をあずけ、ぼんやりと考え込んだ。十二番の柱時計に目をやる。あの時計は私に何を気づかせたかったのだろう。薄紫のグラデーションが光のかげんでピンクに見える。亜希は目をしばたく。
 からから。
 店員が格子戸を引いて中庭へ出ていった。窓からうかがうと、連翹と雪柳を切っている。山吹も添え、またからからと戸の音をたて戻った。格子戸のすき間を縫って射す光が、カウンターの上に格子の幅の光と影のストライプを描き出していた。店員はガラスのピッチャーに花を盛ると、カウンターの端に置いた。
 それを眺めて亜希は、はっとした。真っ白なはずの雪柳が、光と影のいたずらか、微妙に色をまとって見える。黄色の連翹にはさまれた一枝は、淡く金色の輝きを。蜜柑色の山吹の隣の枝は濃い黄を帯びて揺れる。光と目の錯覚。絵の具を溶かなくても、色はこんなふうに影響しあうのか。
 花についてきたのだろう、蝶がひらひらと舞う。窓辺の光に鱗粉が躍る。蝶の羽の色は構造色だ。羽に色はなく、複雑な形が光を反射させ宝石のごとく輝く色になるという。
 色の不思議に思いを巡らせて、はたと気づいた。
 私はあの時間に色を置き去りにしてきたのだ。
「空は水色で、雲は白でしょ」
 母の言葉が呪文となって亜希を縛った。海の絵は記憶の奥底にしまったけれど、「正しい色」があると信じ外れてはいけないと思い込んだ。美術の課題は友人と同じ色を塗った。まちがえずに済むから。二十七歳になった今も服のコーディネイトに自信がない。黒かグレーのスーツばかり選ぶ。どの色の組み合わせが正解なのかがわからないから。今日もグレージュのパンツスーツだ。亜希はため息をついてコーヒーを啜る。
 考えてみれば「正しい色」なんてないのにね。
 幼児は太陽を赤のクレヨンで描く。大人たちはそれをほほ笑ましくみる。でも、昼の空にある太陽はまぶしい白だ。陽が傾くにつれて濃い朱になる。太陽を白で描く子がいれば、「ちがうよ」と大人はまた常識を持ち出すのだろうか。目に映る自然とは異なる色を常識にしたのは誰なのだろう。
 色への自信を取り戻そう。
 正しい色のトラウマから解放されてもいいはずだ。あの夏描いたピンクと水色と薄紫の混じりあう空は、大人になった亜希が見ても美しいと思うもの。
 そうだ、カラーコーディネーターの勉強をはじめよう。
 亜希の店舗コーディネーターという肩書は飾りだ。入社した建設会社でリノベーション部に配属された。コーディネーターとは名ばかりで客と業者や設計士の伝言係にすぎない。壁材や什器のサンプルをもって訪問し、業者に客の要望を伝えるだけ。稀に客から「どっちの色がええかな」と尋ねられとまどう。言葉を濁すと客の顔に失望が滲む。それに気づかないふりをした。
 逃げるのはもうやめよう。
 基礎から勉強すれば臆病にならずにすむ。「こちらの色はいかがですか」と薦められるようになるかもしれない。
 亜希は不意に父を思い出した。
 画家になると家を出た父は、スペインで画家として認められた。五年経ってようやく届いたハガキには「アンダルシアの空が気に入った」とだけ記されていた。
 幼いころよく父とお絵描きをした。亜希の絵を父は「天才だ」と手放しでほめ、「お父さんも描くぞ」とクレヨンを手にすると娘を忘れて夢中になる。父が描いた絵にはピンクの象や水色の虎がいた。
「ピンクの象さんはいるの?」
「いると思えばいるんだよ」
 いると思えばいる。その自由な発想がまぶしい。
 亜希はむしょうに父に会いたくなった。
 今朝出がけに郵便受に入っていたハガキをバッグにつっ込んできたことを思い出した。縦長の大判サイズ。たしか表書きに英文が。バッグをさぐる。厚めのハガキには右肩上がりの字が並んでいる。個展の案内状だ。
 
 ――脇坂優斗 凱旋個展「蒼の幻想~スペインの空から」 

 大仰なタイトルと開催期間のわずかなスペースに、ひと言「会おう」と書かれていた。
 お父さん、帰って来るの? 個展を開くの?
 ハガキを裏返しそこに描かれている絵に亜希は目を瞠る。
 タイトルは「コスタ・デル・ソルの空」。
 画面下から右に登る坂道に白い家々が描かれている。それ以外はほとんどが空だ。淡いピンクと紫とブルーが、混じりあい浸食しぼかしあい溶けあって広がる幻想的な空が一面に描かれている。
 亜希は言葉を失う。
「うわあ、素敵な空ですね」
 不意にやわらかな声が降ってきた。ピッチャーをもって娘が立っている。
「すみません、覗き見しちゃって」
「父の絵なの」
「お父様は画家さんですか」
「ええ、スペインでね。帰国して個展を開くみたい」
「どこで? 京都やったら見に行きたいです」
 グラスに水を注ぐ。
「よかったら覗いてみて。父もきっと喜ぶわ」
「会場はどこですか」
 エプロンのポケットからメモ帳と鉛筆を取り出す。
「四条西洞院のギャラリー時枝だって」
「ギャラリー時枝ですか」
「知ってるの? 有名かしら」
「有名かどうかは……。時枝って、時の枝でしょ。この店みたいだなって」
「ほんとね」
「この空すごく素敵。実物を見てみたいです」
「私も見たいわ」
 この娘もピンクと紫と水色の空を美しいという。亜希はなんだか誇らしくなった。胸がふつふつとたぎる。正しい色なんてない。私はまちがっていなかったんだ。あの夏の日の自分を抱きしめてやりたくなった。
「忘れ物は見つかりましたか?」
「ええ」
 亜希は薄紫の柱時計に視線を滑らせて立ちあがる。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 十二番の時計が時を打つ。光のかげんか、薄紫がほんのりピンクに染まっている。
「また、いらしてくださいね」
 亜希は格子戸を開けた。陽ざしがまぶしい。父の個展の案内状をバッグにたいせつにしまうと背筋をのばす。
 そうだ、帰りに河原町の高島屋で春色のワンピースを買おう。
 

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