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大河ファンタジー小説『月獅』             第3幕「迷宮」<全文>

第1幕「ルチル」は、こちらから、どうぞ。
第2幕「隠された島」は、こちらから、どうぞ。

天、裁定の矢を放つ。
光、清き乙女に宿りて天卵となす。
孵りしものは、混沌なり、統べる者なり。
正しき導きにはごととなり、
悪しきいざないには禍玉まがたまとならむ。

『黎明の書』「巻一 月獅珀伝」より跋

<あらすじ>
(第1幕)
レルム・ハン国エステ村領主の娘ルチルは「天卵」を宿し王宮から狙われる。白の森に助けを求めるが、白の森の王(白銀の大鹿)は「蝕」の期間にあり力を発揮できない。王は「隠された島」をめざすよう薦め、ルチルは断崖から海に身を投げる。
(第2幕)
ルチルは「隠された島」に漂着する。天卵は双子だった。金髪の子をシエル、銀髪の子をソラと名付ける。シエルの左手からグリフィンの雛が孵るが、飛べず成長もしない。グリフィンの雛のなかに成獣のビュイックが閉じ込められていることが判明する。浜に王宮の船が着き、ルチルたちは島からの脱出を図るがソラが見つからない。小麦畑のなかで光るソラを見つけたそのとき、ソラがコンドルにさらわれ、嘆きの山が噴火した。

<主要登場人物>
シキ(12)‥‥孤児
ラザール‥‥‥レルム・ハン国星夜見寮の星司長・シキの養親
キリト(12)‥第4王子(王妃の三男)
カイル(17)‥第2王子(貴嬪サユラの長男)

<レルム・ハン国 王家人物>
ウル‥‥‥‥‥国王
ラサ‥‥‥‥‥王妃・トルティタン皇国第一皇女だった
サユラ‥‥‥‥貴嬪
アカナ‥‥‥‥淑嬪
アラン‥‥‥‥第1王子・逝去(享年18歳・王妃の長男)
ラムザ‥‥‥‥第3王子・逝去(享年14歳・王妃の次男)
カヤ‥‥‥‥‥第2姫宮・カイルの妹
カムラ王‥‥‥レルム・ハン国の前王(キリトたちの祖父)
王太后‥‥‥‥カムラ王の妃・ウル王の母
ラムル王‥‥‥レルム・ハン国初代王、建国の祖

<その他登場人物>
エスミ‥‥‥‥サユラ妃の侍女頭
ナユタ‥‥‥‥カイルの近侍頭・エスミの実弟
ソン‥‥‥‥‥キリトの守り役
イヴァン‥‥‥ルチルの父、エステ村領主、巽の塔に幽閉されている
ルチル‥‥‥‥イヴァンの娘、天卵を生む
ムフル皇帝‥‥トルティタン皇国の前皇帝
ウロボス元帥‥レルム・ハン国の軍のトップ
カール・ルグリス‥王太后の兄
ダレン伯‥‥‥内務大臣、天卵の捜索隊を指揮する

シエル‥‥‥天卵の双子・金髪の子
ソラ‥‥‥‥天卵の双子・銀髪の子
ビュー‥‥‥グリフィンの雛
ビュイック‥ビューの中に閉じ込められているグリフィンの成獣

<補足>
星夜見寮‥‥‥‥‥星の運行で卜占をする役所
月夜見寮‥‥‥‥‥月の運行で卜占をする役所
真珠宮‥‥‥‥‥‥ラサ王妃の宮(後宮にある)
藍宮‥‥‥‥‥‥‥カイルの宮(外廷にある)
翡翠宮‥‥‥‥‥‥サユラ妃の宮(後宮)・カイルはここで育つ
レイブン隊‥‥‥‥レイブンカラスによる王直属の偵察隊

『黎明の書』‥‥‥王国の史書・天卵に関する記述がある
『月世史伝』‥‥‥古代レルム文字で書かれた幻の古文書
月の民‥‥‥‥‥‥滅びた古い民
巽の塔‥‥‥‥‥‥王宮の南東の端にあり、イヴァンが幽閉されている
エステ村‥‥‥‥‥白の森の東を守る村
白の森‥‥‥‥‥‥王国西端にあり、人が入れぬ森。白銀の大鹿が森の王
※白の森については、こちらを参照してください。

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第10章「星夜見の塔」

「星夜見の塔」(1)

 群青の闇を月がうすく照らしていた。
 シキは星夜見ほしよみの塔へと続く石段を、銀水を満たした手桶を提げてあがる。塔までの石段は「星のみち」と称し、石英のかけらが埋め込まれている。それらは星の位置によって光る場所が変わる。塔までの道は幾筋も枝分かれしながら螺旋でのぼる迷路になっている。光が示す道しるべに従って登壇しなければならない。あやまてば、銀水はたちまち蒸発し霧散する。シキはときどき夜空を見あげ星の位置をたしかめながら径をたどる。闇が怖くなくなったのは、いつからだっただろう。こうして闇夜をたどっても、もう震えることはない。青いローブの丈は膝上までと短く、その下に短袴たんこを履いているから歩きやすくはあるのだが、肩から下がっている前垂が時おり突風にあおられ、顔を塞ぐのがやっかいだった。風に乱されぬようシキは総髪に切りそろえた黒髪を頭の高い位置で結っている。きつく結ったつもりだったが、後れ毛が顔に貼りつく。急いでいたため鬢油を塗り忘れた。
 ラザール星司長せいしちょう様はきっと今夜も星夜見ほしよみをなさるだろう。星盤に注ぐ銀水は欠かせない。急がなければ。このところまた不穏なことが続いている。
 二年前に星が四つ、次つぎに流れた。それと前後して、レルム・ハン国には厄災が続いている。
 一つの災いが次の災いを招き、それがまた次の綻びを生み、互いに縺れ連なる鎖となって、この国の中枢をがんじがらめにしていく――そのような予感がしてならないのだよ、とラザール様はおっしゃり、常にも増して星夜見に精勤されるようになった。
 かれこれ五日も塔に籠られたきりである。シキはこの国の行く末よりも、五十をとうに超えているラザール様のお体のほうが心配だった。もうたいせつな人を失うのは嫌だ。

 五年前の七歳の夏にシキはラザールに拾われた。
 シキが七歳になってまもない頃、村が賊に襲われた。
 母はありったけのパンと革袋に入ったミルクをシキに持たせ、怖がらないようにと父はシキの耳に綿を詰めて塞ぐと、シキを床下のかめに隠した。
「けっして声を立てるな。怖くてもそこから出るな。床の上が静かになっても、パンとミルクがなくなるまでは出るんじゃないぞ」
 父と母にきつく抱きしめられた。母がシキの顔じゅうにキスをする。その手が震えていた。「生きるのよ、シキ」と、頬ずりした母の涙がシキの頬をしめらせた。
 父がシキを甕に降ろし、蓋が閉じられ、シキは闇に閉じ込められた。
 木蓋にはところどころ隙間があり微かな光が漏れていたが、シキは固く目をつぶった。ほのかな明かりはかえって、暗くて狭い甕に閉じ込められていることを思い起こさせる。目を閉じていれば忘れられる。シキはひたすらに祈り、眠った。どのくらいの時間がたったのか、いや、何日がたったのかもわからなかった。シキは目を開けずに手探りでパンをかじりミルクを飲んで、また眠った。
 父さんの言いつけを守り、パンとミルクが底をつくまで甕のなかで膝をかかえてうずくまっていた。ずっとそうしていたかった。床の上がどうなっているかを知るのが怖かった。
 ――生きるのよ、シキ。
 母さんの声がどこか遠くで聞こえたように思った。空腹が聞かせた幻聴かもしれない。だが、それが朦朧と怯えるシキの背を押した。
 つぶっていた目を開けた。蓋の隙間から弱よわしい光がこぼれている。埃がそのかすかな光の筋をくるくると回ってのぼる。
 シキは甕の縁に手をかけて立ちあがった。頭に押されて蓋が落ちる。そのまま上体を引きあげ、甕から這い出た。甕は床下の土に半分埋められている。シキは耳に詰めていた綿をはずし、床上の物音をうかがう。
 ピチチチチ。鳥のさえずりが聞こえた。ネズミだろうか。小動物が走る細かな足音がした。他に物音はない。父さんや母さんの声や足音は聞こえなかった。
 シキは頭上の床板をそろりと持ち上げ、床上に顔を出した。
 突然の闖入者ちんにゅうしゃに驚いたネズミたちが、いっせいに走り出し壁の穴から姿を消した。床には小麦粉が撒き散らされ、棚に並べてあった瓶類を薙ぎはらったのだろう、割れたガラスが散乱し、酢漬けの汁だろうか、べとべとしていた。父と母の姿はない。人のけはいはなかった。
 表の扉が開いていて、ぎぎーっと風に軋んでいた。
 シキはガラスのかけらを踏まないように気をつけながら戸口に近寄り、開いた隙間から外をうかがった。三メートルほど先に若草色の衣の裾が見えた。別れるまぎわ母は若草色の長衣を着ていた。
 シキは扉を大きく開けた。久しぶりの光に目がちかちかする。
 瞳を眇めて地面をなぞりながら、若草色の衣へと視線を走らせる。こげ茶の短衣にズボン姿の父が母をかばうように折り重なっていた。父と母はシキを守るために、わざと家から出て賊の注意を自分たちに引き付けたのだろう。
 シキは裸足でよろよろと近づく。
 父の背は肩から腰にかけて斜めに袈裟けさ斬りにされ、赤黒く血が固まっていた。母はどこを斬られたのだろうか。伏せたまま流れた血は土と混じって、わからなかった。母の左手を両手で胸にとると、シキは、ぐうっ、ぐふっ、ぐうっと奥歯を噛みしめながら泣いた。空を見あげ、唇を嚙みしめ声をたてずに泣きじゃくった。
 ――生きるのよ、シキ。
 風にのって母の声が聞こえた気がした。
 シキは涙でかすむ目で辺りを見回した。村人が幾人も斬られ土をつかんで倒れている。柳が風に揺れていた。村には人のけはいがなかった。もう誰もいないのかもしれない。
 七歳のシキに墓を掘る力はない。
 いつか戻って来たときにわかるようにと、ドングリを植えた。花を摘めるだけ摘んで両親の亡骸なきがらの上から降らせた。
「父さん、母さん。ごめん、ごめんね」
 父と母の服からボタンを一つずつ引きちぎり、たいせつにポケットにしまい込んだ。
 そうして家に戻ると、わずかに残っていた食料を袋に詰め込み、シキは家を出た。
 生きようと思った。父と母が守ってくれた命を生きようと。涙でぐしゃぐしゃの顔で決意した。
 見あげた空には、雲がひと筋まっすぐに伸びていた。
 ――あの雲の指す方へ行こう。

「星夜見の塔」(2)

 シキは歩き続けた。
 家畜小屋から卵をくすねたり、干してある芋を盗ったり、畑の野菜をかじったりした。パンを盗めた日は大収穫だった。夜になると、納屋に忍び込んで眠った。
 雲はまだまっすぐに伸びていた。父母が進むべき方角を示してくれているようだった。
 ある日、街道から外れた山道に馬車が一台止まっているのを見つけた。
 そっと辺りをうかがうと、道端から少し下がった窪地に泉がある。そのほとりで身なりのよい男が顔を洗っていた。御者ぎょしゃも馬に水を飲ますのだろう。手桶をもって泉のほうへ降りていく。
 今なら馬車に積んでいる食い物か金目のものを盗める――。
 そう考えて近づいたときだ。大きな手に肩をつかまれた。
「そこで何をしている」
 泉で顔を洗っていた男が立っていた。法服のようなものを着ている。
 逃げようともがくシキを御者が押さえる。
「そなた、親は」
 首を振る。シキは賊に襲われ親を亡くしたことをぽつぽつと尋ねられるままに話した。
「そうか。可哀そうに。酷いめにあったのだな」
 男はなぐさめるようにシキの頭を撫でると、片膝をついてシキと目線を合わせた。
「だが、今、そなたがしようとした盗みは、生きるためとはいえ、村を襲った賊がしたことと変わりはないぞ」
 あっ、とシキは男を見、そして頭を深く垂れてうつむいた。
 男は馬車のコーチから何かを取り出し、シキの前にかがむ。
「ほら、腹がすいているのであろう」
 パンをさしだしながら言う。
「欲しければ、こっそり盗むのではなく、わけてくださいと頼めばよいのだ」
 シキが顔をあげる。男は、ほら、とパンをシキの手にのせる。
「遠慮せずに食べなさい」
 シキはもう一度男の顔をうかがい、最初はおずおずと、途中からはむちゅうになってパンをむさぼり食った。ときどき喉を詰まらせて目を白黒させる。
「どこか行く当てがあるのか」
 シキは空を見あげて雲を指さす。
「あの雲の先」
「雲の先に、頼れる人がいるのか」
 首を振る。
 男はしばらくシキのようすを見つめていた。
「私はラザールという。そなたの名は?」
「シキ」
「シキ、行く当てがないなら、私のところに来ないか」
 シキはパンをくわえたままぽかんとする。
「私にも家族はいない。こんな老いぼれとでも良ければ、一緒に暮らしてみないか。嫌になれば出ていけばいい。それまでのあいだベッドと食事は確保できる。どうだ?」
 ラザールが目尻の皺を深くする。
 シキはこくこくと頷いた。
「ではまず、そこの泉で水浴びをしてきなさい。私は鼻がいい。そう臭っちゃ、馬車で一緒に何時間も揺られると私の鼻が曲がってしまう」
 ラザールはわざと顔をしかめて笑う。
 野生の毛ものは、まめに毛づくろいするし水浴びもするから、案外、臭わない。だが、突然に親を失ったこの子にはそんな知恵はなかった。おそらく甕に閉じ込められてから一度も水浴びすらしていないのだろう。シキからはえた臭いがただよっていた。

「驚いた。女の子だったのか」
 シキはちょうど泉からあがったところだった。
 体を拭く手拭いを渡し、ラザールはしばらく腕を組んで思案していた。
 シキがラザールの短衣をかぶる。ぶかぶかだ。腰紐でたくしあげて調節した。
「シキ、男として生きてみないか」
 ずり落ちる肩口を必死でたぐりあげていたシキは、きょとんとする。
「男の服を着て、男のようにふるまうのは嫌か」
 シキは大きくかぶりを振る。男だとか、女だとか、どうでもいいと思った。ベッドがあって食事がある。それ以上になにを望むというのだ。

 ラザールは遠眼鏡で星を観測しながら、シキと出遭った日のことを思い出していた。
 馬車に盗み入ろうとする子を取り押さえて驚いた。黒髪はぼさぼさでわらやら草やらが引っかかって鳥の巣のようになっていたが、怯えて振りむいた面差しが似ていたのだ、コヨミに。いや、似ていたのは黒髪と蒼い瞳だけだった。だが、雷に打たれたように一瞬、あの子が還ってきたのかとわが目を疑った。そんなことはあろうはずがない。コヨミが亡くなってすでに二十年近く経つというのだから。
 星夜見は夜の仕事だ。夕刻に登壇し、明け方に帰る。星の異変があると王宮で王のめざめを待ち、ときには朝見ちょうけんの儀に陪席し卜占ぼくせんの予見することを語らねばならない。そうなると昼夜をまたいで屋敷には戻らない。何事もなかった夜であっても帰ればすぐに睡眠をとるから、そもそも家の者たちと時間が合わなかった。
 その晩、コヨミは頬を紅潮させ潤んだ目をして見送りに出てきた。額に手をやると熱っぽかった。ヤン先生を呼ぶようにと言いおいて屋敷を出た。月が中点をよぎる頃だったか、コヨミの容体が急変したとの報せがあった。だが、その日は一人で星夜見に臨む初めての夜だった。うまくやり遂げれば、副星夜見士長から正星夜見士長に昇進できる試観の意味あいもあり、若きラザールにとっては特別な夜だった。「ヤン先生がついてくださっているなら大丈夫だ」そういって遣いを帰した。星夜見をなし遂げ、日が昇ってから屋敷に戻ると、コヨミは冷たくなっていた。
 ベッドの傍らにヤン医師が立ち、沈痛な面持ちで首を振る。コヨミに縋りついていた妻は泣き腫らした顔を向けると、「わが子の命より、星のほうがたいせつなのですか」と絶叫した。ほどなくして妻は出ていき離縁した。
 昇進はしたが、愛するものを失った。
 コヨミの不調を察した時点で登壇を思いとどまっていたら、傍についてやっていたら。悔恨が消えたことはない。医術師でもない自分が居たとて、コヨミを救えたかどうかは甚だ疑問ではある。だが、星夜見を続ける限り、夜の不在はまぬがれない。もう二度と家族を持つまいとラザールは誓い、独り身を貫いてきた。
 それなのに。シキを捕まえたとき胸が震えた。コヨミ、とつぶやきそうになった。コヨミは男の子だった。シキは女の子だ。決定的なちがいが明らかになってもなお、長く見失っていたコヨミを見つけたような衝動が胸をおおった。がりがりに痩せて泥だらけの細い手足をさらした子を、どうしても放っておくことができなかった。
 夜に一人にすることはできない。登壇する夜は連れて行こう。
 だから、「男として生きるか」と愚かなことを訊いたのだった。
 神聖な星夜見の塔に女があがることは禁忌とされていたから。

「星夜見の塔」(3)

 すでに星司長という星夜見のトップの座についているラザールにとって、星童ほしわらべという名目で幼いシキを塔に伴うことはわけもなかった。髪を肩で総髪に切り揃えて結い、短袴を履かせれば、わざわざ男の子だと告げずとも、誰もが男児と思い込んだ。
 賊に襲われ甕の闇に閉じ込められていたシキを、宵闇に連れ出すのはどうかと逡巡もしたが、屋敷に残すよりはいい。星の径の前に出るとランタンの灯りを消す。星明かりに従って径をたどるためだ。すると、つないでいた手がぎゅっと強く握られた。見下ろすと、シキが固く目をつぶっている。ラザールも強く握り返す。
「ほら、シキ。だいじょうぶだから目を開けてごらん。星が道を示してくれているよ。どんな闇にも光はあるんだよ」

 シキは砂地が水を吸うように字を覚え、星の巡りについてさまざまな知識を吸収した。屋敷に迎えた当初、シキは一人になることに怯えた。星夜見の塔はもとより、館に帰っても片時もラザールの傍を離れようとしなかった。古今東西の書物が並ぶ書斎でラザールとシキは時を忘れて過ごした。知識の受け渡しをする濃密な時間。ラザールは遠い昔に失ってしまったコヨミとの時間を埋めるように、シキにありとあらゆることを教えた。天文学だけではない、数学も、本草学も、詩歌も、哲学も。持てる知識の泉を、シキという甕に移し替えるように。
 ラザールが目をみはるほどシキは優秀だった。素直な性格が幸いしたのだろう。ラザールの言葉をなぞって素読し暗唱し理解した。あと数年もすれば、もう教えることはなくなるのではないか。年が明けて十三歳になれば、正式に星夜見士の試験を受けることができる。合格はまちがいないだろう。いま星夜見寮にいる十人の星夜見士の誰よりもすでに、シキは星の巡りに精通していた。皆がシキの聡明さに舌を巻き、「行く末はラザール様のあとを継いで星司長ですね」とその将来を嘱望した。
 だが、それはあり得ない。いかに星夜見の士服がゆったりしていようとも、声変わりもせず髭も生えぬシキを不審がる者は早晩現れよう。どうすればよいのか。この才を女というだけで活かしてやれないのは、なんとも口惜しかった。

 学ぶことは楽しい。
 シキはラザールについて学ぶことで、親を亡くした悲しみを、天涯孤独の寂しさを埋めようとした。からっぽだった自分のまわりが満たされていくようだった。シキが文字を覚えるたびに、天文の知識を理解するたびに、ラザールは喜んだ。シキはラザール様のお役にたてることがなによりうれしかった。
 だが、それもあと数年しかできない。女は月のさわりがあるから、神聖な星夜見に穢れを持ち込むとされている。シキはふくらみはじめた胸を見るのが怖かった。どんどん大きくなっていくのが、おぞましかった。「そなたが男であれば」とラザール様は近頃ため息をつかれることが増えた。胸を晒できつく巻いているけれど、いつ露見するやもしれぬ。その前に身を引かなければ、ラザール様が失脚してしまう。
 月夜見寮に知られてはならない。
 国のまつりごとの卜占を司る季夜見こよみ庁には、星夜見寮と月夜見寮がある。星夜見寮は星の運行を、月夜見寮は月の満ち欠けをもとに卜占をなす。星と月の動きは互いに補い合って観るべきなのだが、二つの寮は昔から反目していた。
 レルム・ハン国の王宮は王都リンピアのノルムの丘にあり、どの方角からの攻撃にも堅固な六芒星の形をしている。星夜見の塔は南の頂点にそびえ、月夜見の塔は北の頂点を守る。二つの塔は、王宮の物見櫓でもあった。星夜見の塔は月夜見の塔よりも高い。南の海からの敵襲を見張るため遥か遠くまで見渡す必要があるゆえだ。ひるがえって北には二千メートル級のノリエンダ山脈が天蓋のごとく聳え、天然の要壁となっている。未だかつてノリエンダ山脈を越えて敵が侵入したことはない。そのため月夜見の塔を高く堅牢にする必要がなかった。だが、それが月夜見寮の不満をつのらせる。二つの寮を統べる季夜見庁の長官である大臣はこのところ何代にもわたって星夜見寮から輩出していた。そのこともまた、月夜見寮の対抗心を煽っていた。
 ことに当代の月司長エランダは、なにかにつけて星夜見寮ひいてはラザールの足を引っ張ろうと画策しているふしがある。「大臣にはエランダがなればよいではないか」とラザールは気にも留めていなかったし、シキも政治的な駆け引きはわからなかったが、それでもラザールになにか厄災がおよぶのは嫌だった。どうすればいいのかわからないが、月夜見寮に目をつけられないよう気をつけなければ。周囲は星夜見士の受験を勧めるけれど。これ以上、目立ってはならない。
 シキは受験するつもりがなかった。

「星夜見の塔」(4)

 シキは銀水の手桶を提げて星の径をたどりながら蒼く沈む空を見あげる。十日前に耳にした、星夜見士のダンさんとロイさんの会話がずっと気になっている。
 シキはラザールから頼まれた書類の整理をしていた。ふたりは窓辺にもたれアチャの実茶を啜りながら話していた。
「ここんところ、レイブンカラスどもが塔のまわりをうろついてないか」
「俺も気になってた。月夜見のやつらがまた何か企んで、カラスに偵察させてるんじゃないか」
「ちっ、相変わらず汚ねえな、月夜見は。レイブン隊も二年前の、天卵は海に沈んだっていう報告の真偽で窮地に立たされてるからな」
「そりゃそうさ、星占ほしうらに出ちまったからな。『天はあけの海に漂う』って」
「エステ村領主の娘だったか、天卵を産んだのは」
「ああ。領主のイヴァン殿がまた巽の塔に幽閉されたらしいぞ」
「お気の毒なことだ」
 天卵の伝説は、文字を習いはじめたころに『黎明の書』を素読して知った。その三年後に伝説と信じられていた天卵をエステ村の少女が産んだと聞いて驚いた。少し前に星が四つ流れ、星夜見寮は騒然となったから覚えている。あのときもラザール様はここ数日のように、幾日も星夜見の塔に籠られていた。レイブン隊が天卵と少女の追跡に向かったと知ると、早馬でも二日はかかる西の果ての白の森の方角を眺め、「なんと愚かなことを」とこぼされた。傾きかけた陽がその裾足を塔の内部に伸ばしラザールの横顔に翳を落としていた。
 なぜラザール様が「愚かなこと」とおっしゃったのかわからなかった。けれども、領主のお嬢様でも星が宿っただけで運命が激変することがあるのか、星とは何なのかと思ったことは覚えている。
「星占はさまざまなことを予見してくれる。だが、その予見をどう扱うかは人しだいなのだよ。よく心得ておきなさい」
 星占に現れたことは絶対だとシキは思っていた。そうではないのだろうか。
 そういえば、「天は朱の海に漂う」という星占をなしたのは副星司長のオニキスが当直の夜だった。重大な星占が出たと明朝、一番鶏が時を告げるのも待たずに王宮に奏上され、宮殿は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。登庁直前に報告を受けたラザールは、卜占の内容とそれがすでに王宮に奏上されたことを知り、こめかみを押さえ天井を仰いだ。「なぜ奏上前にひと言相談を……愚かな」と聞き取れぬほどの声でつぶやいたのをシキは耳にした。「急ぎ、出廷する」と言いおいて、ラザールはすでに多くの貴族が衆愚となり騒ぎ立てている御前会議の広間へ駆けつけたのであった。
 ラザールはオニキスを探した。だが、広間に足を踏み入れるやいなや貴族たちに囲まれた。口々に星占の意味を問う。「朱の海に漂うとはどういうことなのか」「天とは天卵のことを指すのか」と。適当にあしらいながら、きらびやかな衣装のあいまを縫って……オニキスを見つけた。
 広間の中ほどで十重二十重に取り囲まれ、蒼い士服の腕を大きく広げ、口角をあげ大仰に星占について演説していた。東雲しののめの光が彼の顔を紅潮させている。国を揺るがすほどの卜占をなし、得意の絶頂にいるのだろう。愚かなことだ。己の手柄よりも、国の行く末を深慮せねばならぬのに。
 オニキスはあからさまな野心家だった。ユイマール男爵家の四男に生まれたオニキスに爵位を継ぐ順が回ってくる希望などなかった。養子の口を探すよりも自らの力で生きていく道を選択し星夜見士をめざした。家柄にあぐらを搔いている兄たちを馬鹿にし、ゆくゆくは季夜見庁の大臣になると公言して憚らなかった。
 ラザールは星司長の座になんの未練もこだわりもなく、オニキスに譲ってもよかった。だが、オニキスの出世や権力に対する露骨さが、よくない輩につけいらせる隙になり、ひいては星夜見寮を揺るがす事態を招きかねぬとの懸念を払拭できずにいた。今朝のように手柄に逸るあまり軽率なふるまいをするところも往々にしてあった。オニキスは左の副星司長だが、五歳年若の右の副星司長のルアンは実直で思慮深く、ラザールはオニキスよりもルアンに期待していた。かといってオニキスを飛び越しルアンを次の星司長に指名すれば、ルアンに執拗な嫌がらせや報復を図ることは火を見るよりも明らかであり、不穏な星の動きの頻発するいま、よけいな騒動を引き起こす火種を巻くわけにはいかなかった。
 ラザールは広間を見渡す。大理石の柱の陰にエランダと月夜見寮のものたちがかたまり、得意満面のオニキスを苦々しげに見つめ、あたりを窺いひそひそと話している。薄く開いた窓からレイブンカラスが一羽ひそりと忍び入ると、月夜見のものたちが背に隠した。それを偶然目にとめたラザールは眉をひそめる。
 銅鑼どらが国王ウルの登壇を告げた。玉座に向かっていっせいに跪拝する。
 ラザールはもっとも末席に控えた。オニキスが滔々と卜占について披瀝し終えると、「天卵は海に沈んだのではなかったのか」「レイブン隊の報告は偽りだったのか」「天卵と娘を逃したのではないか」「大いにありえますな」「カラスは信用ならぬ」「虚偽罪を問えるのでは」「王に対する反逆罪ですぞ」レイブン隊を非難する声が轟々と飛び交った。
 隊長のクロウを引っ立てるべきとの声が一段と高くなったとき、黒い鳥が一羽すーっと音もなく広間にすべりこみ、誰に気づかれることもなく玉座の前に舞い降りた。その不気味さに一同がぎょっとして口をつぐむ。 
 クロウは翼を広げオニキスを睨み、「その星夜見は確かなのですかな」とすごんだ。小さき鳥ではあるが全身から場を圧する迫力がみなぎっていた。たじろぐオニキスを認めると末席からラザールが進み出た。
「ご不信はごもっとも。国の命運に関わる卜占。念には念を入れ今一度、やり直しをいたしましょう」
 ラザールはレイブン隊の行動のすべてを認めているわけではない。だが、きらびやかな衣装をまとって居並び、口先だけで責任のなすりつけ合いをする貴族どもよりも、ずっと彼らのほうが国のために働いている。国の行方を祈り卜占をなす季夜見庁と、目指すものや手段が異なり相容れないことがあろうとも、国のために働いているという一点において近しいものを感じていた。そうはいっても、此度こたびのことでレイブン隊が星夜見に恨みを抱いたことは想像がつく。気をつけねばなるまい。
 その後も形だけの議論は紛糾したが、辺境警備軍の派遣が妥当であろうと落ち着いた。辺境警備軍を統括する内務大臣のダレン伯が妙に乗り気であったことも後押しした。
 散会するころには昼をとうに回っていたが、その間、王はひと言も発しなかった。
「陛下の忠実なるしもべであるこのアーシー・ダレンが、我が身命を賭して必ずや陛下のために禍の種を摘んでまいりましょう」
 でっぷりと太った体躯を揺らしながら両手を広げて己を誇示すると、胸の前で手を組んでこうべを垂れ恭しく跪拝した。道化の演技さながらの大仰な所作に、ラザールは嘆息する。天卵を禍玉まがたまとなすような最悪の事態を招かぬことを祈るよりほかなかった。

 王宮での評定の仔細については、帰宅したラザール様よりうかがった。名誉を取り戻したいレイブン隊が、月夜見寮の企てに加担する可能性も警戒せねばならぬとおっしゃっていた。
 カラスは何を探っているのだろう。私が女であることがばれたのだろうか。
 胸に宿った不安に気を取られていると、うっかりと径をまちがえそうになりシキはあわてた。いけない、今夜の星は左の径を照らしている。右に曲がりかけた歩を戻す。径をあやまてば、銀水を霧散させるところだった。ラザール様がお待ちだ、急がなければ。シキは宵闇に蒼白く光る星を見あげる。「星のみしhは、星の未知でもあるのだよ」とラザール様はおっしゃっていた。わからないこと、未だ知りえないことを教え導いてくれるのだと。
 
「ラザール様、遅くなって申し訳ありません。銀水をお持ちしました」
「おお、シキ。早く星盤に銀水を。今宵はまた星の動きがおかしい」

第11章「禍の鎖」

「禍の鎖」(1)

 禍いのはじまりは、十八歳の王太子アランのとつぜんの死だった。
 レルム暦六百三十三年三月、二年前の早春だ。
 冬眠からめざめたアナウサギの狩に出かけた王太子が馬もろとも崖から転落した。
 まだ岩肌には根雪が残っていた。それが陽をあびて表面から透明にほどけ、ときに結晶の形を露わにしながら溶けていく。雪解け水で地盤がゆるんでいたのだろう。犬や馬が何頭も駆け抜けたのも災いした。雪山から羚羊が降りてきたのを犬が吠えたてた。アナウサギよりもずっと大きな獲物に皆がはやる。崖際を跳ねるように駆けのぼる羚羊を犬たちが列をなして追う。犬のあとを追って、アランの騎乗する白馬が駆けたはずみで崖が崩れ、馬の後ろ脚がとられて谷底に滑落した。背後を護っていた三騎の側近が急ぎ谷への隘路をたどったが、王太子は暴れる馬を御せず手綱を振り切られたのだろう、谷底の河原で後頭部を強打し、天を仰いでこと切れていた。
 享年十八歳。将来を嘱望された王太子のあまりの早い死に皆が絶句した。それだけではない。葬列がもがりの宮を出ると、側近の三名の若者たちが互いに刺し違えてあとを追ったのも人びとの嘆きを深くし、「流星の禍じゃ」とたちまち流言がひろがった。
 アラン亡きあと立太子した三男ラムザもその半年後に、高熱から肺炎を患いあっけなく一週間で身罷った。世継ぎのたて続けの死に国中に暗雲がたれこめた。王家は呪われている、天卵の祟りではないかと。国王ウルと王妃ラサの嘆きは深く、ことに愛息ふたりを一年も経たぬうちに失った王妃は「アランもラムザも暗殺されたのじゃ」「王家に弓を引くものがいる」「わらわを追い落とす気か」と疑心暗鬼となり、残された十歳の四男キリトに妄執するようになった。
 国王ウルには他に、妾腹の十五歳の次男カイルと三人の姫宮がいる。一の姫オリが十二歳、二の姫カヤが十一歳、三の姫マナが十歳だ。カイルとカヤ姫は兄妹で、その母は貴嬪サユラ。オリ姫とマナ姫の母は、淑嬪アカナであった。
 ラムザが亡くなって一年半。王太子はいまだ空位のままだ。
 ラムザ亡きあと四男のキリトが立太子するものと誰もが思っていた。ところが、禍が末息子にふりかかることを恐れた王妃が、キリトの立太子をしぶった。だからといって、妾腹の第二王子カイルの立太子も許さなかった。
王妃ラサは隣国のトルティタン国第一皇女だった。トルティタンの皇帝ヌバクの皇妃アンはウルの妹だ。互いに婚姻を結ぶことで同盟関係を強固にしてきた。王妃の意向を無視することは同盟関係にひずみを生み外交問題に発展しかねない。国王ウルは王妃の気が鎮まるまでと立太子問題を放置した。
レルム・ハン国とトルティタン国にとっての脅威は北方騎馬民族のコーダ・ハン国と南の海洋国家セラーノ・ソル国だった。

「禍の鎖」(2)

 ノリエンダ山脈の北には茫漠とした平原が広がっている。
 緑豊かな平原ではない。雲は天蓋のように聳えるノリエンダ山にぶつかり山脈の南側に雨を降らすと乾ききった風となって山を越える。からっ風が吹き抜ける荒野には天からの落とし物のような奇岩が点在し、幹のいたるところから気根をぶら下げる灌木がぱらぱらと散在しているにすぎなかった。雨季にだけ緑の草原が広がり、命がいっせいに歓喜する。短い驟雨の季節が過ぎると、平原はまたしだいに乾いていく。枯れた芒の原が広がるころ、いずくにかさまよえる湖が現れる。どこに現れるのか、いくつ現れるのかはわからない。乾きでひび割れる原野に忽然と現れ、また忽然と大地の底に姿を消す。それを求めて遊牧民や毛ものたちがさまよう。
 コーダ・ハン国の起源はそんな不毛の大地をさすらう流浪の民で、遊牧民や隊商を護衛することからはじまった。飢えをあがなうため糧を求めて侵略と略奪を繰り返した。人馬一体となった騎馬集団は、牙集団との異名をとり、またたくまに辺りを蹴散らし立国した。そうして水を求め南へ南へと版図を広げたのだ。水を追うゆえに機動力を優先し、都をもたなかった。皇鄭こうていですらバクという天幕で過ごし、さすらいの国として周囲を恐怖に陥れてきた。定住し土地を耕し生産するという考えがとぼしく、彼らの流儀によると、欲しいものは奪ってくるものなのだ。
 二代前のジュリ・ハンていは、そんな国の在り方を変えた。
 「蛮族として恐れられる時代は終わった、真に国力のある大国になる」と宣言し、広大な版図を統べるには定住が必要であり治水こそが国の要と灌漑事業に取り組んだ。雨季の激しい驟雨を地下に蓄え、国中に水路を張り巡らせる壮大な計画に着手した。国を挙げての事業はコーダ・ハン国を技術集団へと変貌させた。もともと槍や弓などの武器の鍛造技術を持っていた。そこへ灌漑技術をもつ職人を周辺国からさらってきたのだ。
 それでも一年を通じて水を引けたのは、鄭都ていとハマリク周辺だけである。干上がった大地を潤すには圧倒的に水量が足りなかった。現皇鄭のチャラ・ハンはノリエンダ山脈の万年雪と雪解け水に目をつけた。同時に白の森の北に位置するノルテ村の鉱石も狙っていた。

 白の森の北を守護するノルテ村は、急峻なノリエンダ山脈の山あいに広がる村だけに、わずかばかりの土地に狭い棚田を重ねてはいたが、ノリエンダの嶺にぶつかる風が夏は冷害をもたらし、冬は豪雪を降らせる。農耕に向かない土地柄だ。かわりにノリエンダ山には鉄や金、銀などさまざまな鉱脈が走っていた。たたら製鉄も盛んでノルテの「ヤマ」から採掘され精製される鉄や鉱石が、王国の繁栄を支えていた。
 騎馬民族のコーダ・ハンにとって武器の材料となる鉄は喉から手が出るほど欲しい。
 それだけではない。ノリエンダ山からはめずらしい鉱石が採掘されることもあった。たいていは装飾品としてもてはやされたが、なかには不思議な力を備え幻の石と呼ばれるものがあった。そのひとつが「アグア」と称する魔石だ。
 アグアは龍が口にくわえる宝玉のかけらと云われ、こんこんと水をしたたらせる奇石と伝えられる。安置すると永遠に水が湧き、涸れぬ泉となるという。干上がることのない水源を求めるチャラ・ハン鄭に、ノリエンダ山脈の南からやってきた隊商の頭目が魔石アグアの伝説を披瀝し、ノルテ村にならあるやもしれませぬと耳打ちした。
 チャラ・ハン鄭にとってノルテ村はなんとしても征服したい村となった。
ノルテ村を虎視眈々と狙っているのは、なにもコーダ・ハン国だけではない。
 同盟国であるトルティタンですら、ひそかにノルテ村を狙っているとの噂が絶えない。それゆえ王妃もノルテ村に立ち入ることはできない。王妃だけではない。いずれ周辺国に嫁ぐ運命さだめにある姫宮たちも入村が許されていなかった。ノルテ村の周囲はレルム・ハン国の兵士によって厳重すぎるくらい厳重に守られている。ノルテ村の南は白の森に接し、北にはノリエンダ山が聳える。白の森の東を流れるオビ川はエステ村へとさしかかる手前で二本に分かれる。その支流がノルテ村の東端を迂回して深い渓谷を刻んでいるのだが、ノルテ村への入り口はその谷にかかる橋一本であった。まさに陸の孤島である。
 ノルテ村はレルム・ハン国にとって宝であるとともに、火種でもあった。

「禍の鎖」(3)

 白の森の尖端にあるカーボ岬から遥か南へくだった海域に、大小の島が夜空の星のごとく無数に点在するシアック諸島がある。セラーノ・ソル国はこのあまたの島を統べる海洋国家だ。かつてあたりの海を荒らしていた海賊を祖とする。東西より流れ込む暖流と寒流は、ここで不規則に点在する大小無数の島にぶつかり複雑な渦を巻く。魔の海域として知られる海が彼らの庭で、北のアトラン大陸(レルム・ハン国はここにある)と南のホリゾン大陸のあいだに横たわる海洋のほぼ全域を掌握していた。そのため南北の大陸間の交易はすべてセラーノ・ソルを介することになる。彼らは大小さまざまな船を操るが、特異なのは水棲馬すいせいばを飼いならしていることだろう。紡錘形の胴から細く長い首が伸び体躯は銀の鱗で覆われている。胴に鞍を置き、口に嵌めたハミから延びる手綱で操る。四脚から進化したひれは水流を流す無数の溝が刻まれていて、ひと掻きで数十メートルは進むといわれる。陸上の馬と大きさに差はないため小回りがきき俊敏であるだけでなく、潜水泳もできるため潜って敵船に近づき奇襲をかけるのを得意とする。水棲馬隊による奇襲は敵国に恐れられてきた。
 また彼らの操るタジン船は小型だが機動力にすぐれていた。海底の地形も複雑なこの海域では、嵐でなくともあちこちで潮流が渦をなし大型船はそれらに巻き込まれ座礁しやすい。彼らの水先案内なしでは魔の海を通過することはかなわない。タジンは攻撃力にもすぐれていた。
「あははは、見ろ。目先の通行料を惜しむからあのようになるのだ」
 セラーノ・ソルの関所を強行突破した大型船が水棲馬隊の猛追を振り切ろうとして渦潮に巻き込まれ、あっというまに小島の断崖に激突し破船したところだった。
 シアック諸島の中ほどにもっとも大きなセル島がある。二枚貝が開いたような形をしているこの島にセラーノ・ソルの都がある。島の西の片割れに小高い山があり、その山頂に山城を築いていた。
 一つに束ねた黒髪を潮風になびかせ、城の物見櫓で小柄な女が遠眼鏡をのぞいている。肌は陽に灼けて鞣し革のごとくつややかで、遠眼鏡をおろすと眼球の大きな目が現れた。鋭い光を放ち、島影をにらむ。
 矢を盛った箙えびらを背に武装している近衛兵が両側に控える。海洋国家セラーノ・ソルを率いる女王セリダだ。
 セラーノ・ソルでは、代々女性が王位を継いできた。母なる海を守護するのが、女神セラーンであるからだった。女だからとなめてかかっては痛い目にあうというのがもっぱらの噂だ。なにしろ気性の荒い海の男どもを配下に御して君臨しているのだから。
 女王セリダはレルム・ハン国の南東端にあるスール村に目をつけていた。レルム・ハンの主たる交易港はスール村と王都リンピアにある。リンピアは星夜見の塔からの見張りの目があるため、おかしな動きをみせれば即刻、開戦となるだろう。海洋民族である彼らは領土に対する執着は薄い。それよりも交易を有利に進め、富を得ることのほうに重きをおいていた。だから、レルム・ハンを征服しても意味がない。むしろ生かしてノルテ村の鉱石からあがる富を搾取したいだけだ。その足掛かりとして、スール村の商人たちを懐柔しようとしていた。
 セリダは足下の海をながめていた遠眼鏡をはるか北へと向ける。洋上の火山が爆発したのか。狼煙のろしのような朱がうすく雲間を縫って幾筋もあがっている。レルム・ハンはそのずっと北で、影すら見えない。そういえば、あのあたりに昔から「隠された島」と海の男どもが呼ぶ小島がある。行きはあったのに帰りには忽然と姿を消し、別の航路で見かけるのだと。そんなばかなことがあるものか。北から錆色の雲が厚くなりはじめている。閃光が天の一角から短く、だが続けざまに走った。かなり遅れて微かな雷鳴がセリダの耳をかすめる。嵐が来るか。
「伝令じゃ。全船入り江に退避させよ。嵐が来るぞ」
 合図のほら貝が島から島へと響きわたった。

「禍の鎖」(4)

 ラザールが王に呼ばれたのは、「天は朱の海に漂う」との星夜見がなされてまもないころだった。王太子の空位はすでに二年近くになる。
 通されたのは、謁見の間ではなく王の執務室だった。
「ラザール星司長をお連れいたしました」
 部屋の中央には大理石の円卓があり、王はその上に並べられたジェムの駒を真剣な顔つきで動かしていた。大理石の円卓そのものがジェム盤になっているのだろう。ジェムは戦を模した棋盤ゲームで、通常は丸い盤上で二つの陣営が争う。対戦相手を四陣営まで増やすことができ、それだけ戦いも複雑になる。戦略を考えるのに良いとされ王侯貴族が興じた。ウル王のジェム好きは有名だ。ノルテ村で採れた色とりどりの輝石を細工したジェム駒が王宮に収められたと耳にしたことがある。スール村の豪商が特別にこしらえさせて献上し、商人は王室御用達の称号を得た。ラザールの入室を告げられても王は顔すらあげない。ベールで顔をおおった喪服姿の王妃が傍らのカウチに斜めに横たわり物憂げに盤を眺めていた。縦に長い格子窓からそそぐ午後の陽は弱く、部屋の空気はけだるく淀んでいた。
 これが一国の執務室の光景かと、ラザールは目を疑った。
 マホガニーの大きな執務机には国璽こくじを待つ書類が山積みにされている。ジェムに興じるよりも、それらを裁可することのほうが先ではないのか。なぜ王妃がここにいるのか。謁見の広間に居並ぶことはあっても、玉座に華を添える飾りにすぎず、政治の実務を行う執務室で王妃を見かけたことなどついぞなかった。そもそも妃嬪は後宮で暮らし、表の政庁にお出ましになることなどない。
 世継ぎを立て続けに失い、陛下は政への興味を失速されている。もともと強いカリスマ性も、王としての覇気も持ち合わせてはおられなかった。
 ウル王が即位されたのは、御歳おんとしわずか十歳のみぎりだった。
 父王のカムラ陛下は歴代の王のなかでもとりわけ勇猛果敢で知られ、常に戦の陣頭指揮をとった。若き王の勇姿に臣下はもとより民も熱狂した。
 レルム・ハン国はけっして強国ではない。コーダ・ハン国やセラーノ・ソル国などの比ではなく、歴代の王たちはノルテ村が狙われれば応戦するにすぎなかった。
 弱小国のレルム・ハンが独立を保つことができたのは、その地形による。レルム・ハン国はカーボ岬を頂点に東に大きく湾曲した逆三角形をしている。北の底辺には急峻なノリエンダ山脈が聳え、南はレルム海に面し、西には人を寄せつけぬ広大な白の森がある。ノリエンダ山脈の東端はレルム海に迫るように裾野を伸ばしているため、東の国境は鳥の喉笛ほど狭く、そこさえ守っておけば国は安泰であった。天然の要害に囲まれた稀有な国として栄え、温暖な気候は農耕に適し、神より賜りし土地と称されてきた。ノルテ村が襲われでもしない限り、レルム・ハン国から戦を仕掛けることはなかった。亀のように天然の甲羅のうちに首をすくめて閉じこもっておればよかったのだ。
 ところが、血気盛んなカムラ王は防禦のみの軍事方針にいらだち異を唱えた。
「防戦一方ゆえになめられ、ちょろちょろと周辺国からノルテが狙われるのじゃ。こちらから蹴散らしてやろうぞ」
 双頭の鷲の戦旗が各地ではためいた。
 だが、長年平和を謳歌してきた軍隊は一朝一夕では如何ともしがたく、疾駆する騎乗の王を追ってわらわらと付いていくのが精いっぱいであった。
 西隣のトルティタンとの戦乱のさなかだった。流れ矢が王に命中した。
 矢傷は致命傷ではなかったが、雨季にはいったばかりで季節が悪かった。雨でぬかるんだ土壌に馬が脚をとられ姿勢を崩したところに矢が的中し、馬もろとも泥水に転倒した。泥にまみれたため矢傷からじゃが入り傷口が化膿し高熱にあえいだ。酒ぐらいでは邪気をはらうことはできない。驟雨の続く戦場の天幕では手のほどこしようがなかった。王は枕頭にはべる副官のウロボス将軍に影武者を立て停戦交渉に入るよう指示するとあっけなく身罷った。
 王の死は秘匿され、実力伯仲の消耗戦のなか停戦交渉がすすめられた。王の遺命どおりトルティタンのラサ第一皇女をウル王太子の妃として迎え、ウル王太子の妹のアン王女がトルティタン皇太子の皇太子妃に、末永く両国は強固な同盟関係を結ぶことが決定した。ていのいい人質交換である。
 王の影武者は署名すると立ちあがり、トルティタン皇帝ムフルと握手を交わした。

「禍の鎖」(5)

 ウル王太子十歳、ラサ皇女八歳の結婚の儀は、あまりの幼さにままごとのかわいらしさであったという。結婚の宴は三日三晩続き、その翌日に突如カムラ王の崩御が公表され、ウルが即位した。トルティタン皇帝ムフルは地団太を踏んで悔しがったが、すでに最愛の姫を嫁がせたあとであり反撃をしかけてくることはなかった。ノルテ村から採掘される鉱石の一割を融通するとの密約が水面下で交わされたとも噂されている。
 幼い王と王妃は雛人形であり、実権は長らく母である王太后とその外戚であるルグリス侯爵家が握ってきた。また、トルティタンとの同盟で尽力したウロボス将軍を王太后が重用し、カムラ王が各地に派遣していた兵の撤退指揮を一任した。
 対外的な王はウルであり、表面的な実権を握っているのは王太后だが、王太后に執政は荷が重く、裏で太后の兄カール・ルグリス侯爵とウロボス将軍が操っているという複雑な権力構造となっていた。指揮権の複雑化はひずみを生み、さまざまな思惑の温床となる。
 ウル王は傀儡であることに素直であった。というよりも、傀儡の意味すらおわかりではなかっただろう。十歳の子どもにとって周りの大人たちの命に従うはごくしぜんなことであり、そこに疑問など起ころうはずもなかった。王太后が五年前に薨去され、ようやくウル王が政を執られるようになった。十歳で即位されてから実に二十五年が経っていた。
 もともとのご気質もあったが、傀儡であることに甘んじてこられたゆえにか、なにごともご自身で決断されることがない。臣下の議論が収束するところに従う。平時であれば、皆の意見に平等に耳を傾けることはよき資質ともいえたが。あれは鷹揚というのではなく凡庸というのだ、と陰で嗤うものもいる。
 それでも陛下なりに政に真摯に向き合おうとしてこられたと、星夜見のご進講を通じラザールは思っていた。
 ところが、アラン殿下に続きラムザ殿下まで亡くされてからは、政への興味を失われている。子を亡くした嘆きの深さ、心にぽかりと空いたくらうつろにのまれそうになるお気持ちは、我が子を亡くしているラザールには痛いほどわかる。しかし、むごいようだが、陛下は親である前に国を統べる王である。切って捨てねばならぬ感情があると諭す側近はおらぬのか。ジェム盤を片付け、各地の窮状を伝えるものはおらぬのか。
 跪拝しながらラザールは眉をひそめる。
「陛下、ラザール殿が控えております。ジェムはそのくらいにして、妾の願いを伝えてたもれ」
「ああ、そうであったな」
 王妃にうながされようやく王はラザールに目を向けた。
「そなたを呼んだのは他でもない、キリトの師傅しふを引き受けてはくれまいか」
「キリト殿下には、ソン太師がお誕生以来、守り役を務めておられるではありませんか」
「うむ、そうではあるのだがな」
 王はちらっと王妃をうかがう。
 そういうことか。ラザールはすべてを悟った。

「禍の鎖」(6)

 二日前のことであった。星夜見を終え、朝焼けの半透明に靄った光のなか暁の門へと続く回廊を歩んでいたラザールに大股で迫る足音が耳に届いた。
「ラザール殿、星夜見からのお帰りですかな」
 追いかけてくる声に振り返って驚いた。背後に立っていたのはヨシム准将だったからだ。これまでヨシムが親しげに話しかけてきたことも、ラザールから声をかけたこともなかった。陸軍の准将と星夜見士との間に接点などない。王宮に何か異変かと、みがまえた。
「ラザール殿とはかねてより胸襟を開いて話したいと思っており申した。拙者はいささか腕に覚えはあっても、お恥ずかしいことに、とんと無学でござる。星の巡りについてご教示願いたい。出入りの商人から年代物のサリュ酒を手に入れ申した。拙宅にて一献、いかがですかな」
 ヨシムが左手で盃を傾けるしぐさをする。
「お招き痛み入ります。ですが、当方には宵闇を恐れる者がおります」
「おお、そうでありましたな。優秀な養子を迎えられたと聞き及んでござる」
「恐れ入ります。かような訳で、待つ者がおりますゆえ失礼つかまつります」
 ラザールは丁重に辞儀をして門を出た。
 ヨシムはその背を残念そうに見送る。
 ノルムの丘から見下ろす城下は、暁の光に裾から目覚めはじめていた。

 あれを誰かに見られていたのか。
 ヨシム准将はカイル派と目されている。
 王太子の空位が長くなるにつれ、不穏な空気が蠢きはじめていた。
 ラムザ殿下の一連の葬送の儀を終え服喪が明けたころから、川が二筋に分かれるように四男のキリト派と妾腹の次男カイル派に二分され権力争いの火種が飛び火しはじめた。早々と態度を鮮明にするものもなかにはいたが、どちらかというと皆、形勢を見極めようと日和見を決めこみながらも水面下で画策と駆け引きと奔走を繰り広げていた。腹のさぐりあい、といっていい。王の態度がはっきりしないことがそれぞれの思惑に輪をかけた。
 キリト殿下が立太子するものと誰もが思っていた。それを王妃が渋ったことで本来ならばとうの昔に消えていたはずの埋火が燻りだした。それはウル王とラサ王妃の婚姻の契機となったトルティタンとの和平交渉にまでさかのぼる埋火だ。
 カムラ王の遺命により、両国の第一皇女と一の姫宮が双方の国に輿入れすることでかつてない同盟関係が結ばれた。ただの人質交換とみえた停戦交渉は、その後のレルム・ハン国に戦略的な平穏をもたらした。
 カムラ王が自らの亡き後のレルム・ハン国の行く末を予測してのことであったのならば、実にみごとな深慮遠謀であったと、ラザールはうなる。カムラ王を失ったことが国の禍のはじまりでなかったかと、王宮の凋落を目の当たりにするにつけ思うのだ。
 幼き王にとって、また幼き王を擁立せざるを得ない国にとって、強力な後ろ盾の有無は国の存亡にかかわる。トルティタンとの二重婚姻関係は、ウル王とレルム・ハン国にその後ろ盾を与えた。それだけではない。北のコーダ・ハン国と南のセラーノ・ソル国の脅威が増すにつれ両国の同盟の重要性も増した。トルティタンがコーダ・ハン国と戦っているすきをついてセラーノ・ソルの海軍団が奇襲してきても、レルム・ハン国が応戦することができる。これまでは一国で北と南に二分せざるをえなかった戦力を一方に集中させることができるのだ。この効果は絶大であった。ここ二十数年の両国の安泰は、同盟のおかげで保たれてきた。そのことは誰もが認めるところだ。
 一方で、王統の純血はどうなるのか、という声はラサ王妃との婚姻時よりささやかれてきた。ラサ妃の王子たちには異国の血がまじっている。レルム・ハン国の王位の純血が保てないばかりか、やがてトルティタンに併合されてしまうのではないか。頑迷なる保守派のあいだでた泡沫うたかたのごとく現れては消え、消えては現れささやかれ続けてきた懸念である。その声を鎮めるべく後宮に迎えられたのが貴嬪のサユラ妃と淑嬪のアカナ妃だ。サユラ妃はギンズバーグ侯爵の、アカナ妃はロタンダ伯爵の姫であり、国を代表する二家から選ばれた。サユラ妃とアカナ妃の後宮への入内じゅだいが内定した折、はじめてウル王は王太后に抗議したときく。王と王妃はままごとの雛飾りのごとく、夫婦というよりも兄妹のように成長なされた。金の籠に入れられた鑑賞用の二羽の小鳥たち。大人の都合のいいようにもてあそばれる心細さと寂しさをお二人はわけあってきた。それゆえ「ラサだけでよい」と。だがその願いは権力の均衡の前では歯牙にもかけられなかった。
「陛下はジェムがお好きであろう。ジェムでも持ち駒が多いほど有利。そういうこととお考え遊ばされるがよい」母である王太后は嫣然と諭した。
 ほどなくしてカイル王子と三人の姫宮が、ラサ妃の王子たちの隙間を縫うように次々にご誕生になられたが、この頃からではなかろうか、ウル王がジェムにのめり込まれるようになられたのは。性欲すらも政治のにえとせねばならぬ。お飾りとして玉座に居ることの哀しさはいかばかりであったろう。
 ラザールは執務室の中央に据えられた大理石のジェム盤をちらりと見やる。

「禍の鎖」(7)

 飼い殺しという言葉が脳裡をかすめた。
 玉座を降りることはできないが権力も与えられない。ウル陛下は即位以来、飼い殺しの王であった。まつりごとの頂点に君臨しながら、政から最も遠かった。
 カルム王が戦場で斃れられた折、ルグリス侯爵もウロボス将軍もカルム王の遺命に従い難局を乗り切るのに身命をいとわず尽くされた。その働きによりレルム・ハン国の国威は保たれた。それはまごうことなき事実である。
 だが権力という魔物に一度捕り憑かれると人はその美酒に酔いしれる。
 五年前に王太后が薨去され王権はようやくウル陛下のものとなったはずであった。むろんルグリス侯爵もウロボス将軍もとうに第一線を退いていたが、老獪な彼らの息のかかった重臣たちに太刀打ちするには、ウル王は圧倒的に経験も胆力も知略も足りなかった。綿菓子にくるまれ目と耳を閉ざしてきた陛下にも非はある。たとえ傀儡に甘んじられてきたとしても、それを逆手にとって民の暮らしに目を向け、政の真髄について考えることはできたはずだ。諦めることを覚えた者は、生きる意志すら投げ出したといっていい。
 ウル王とはまた別の意味で、カイル殿下もキリト殿下も飼い殺しのお立場であられた。アラン王太子がご健在であった昨春まで、おふた方とも忘れられた王子であった。違いがあるとすれば、目立たぬように生きよと諭されてきたか、末っ子ゆえにのびのびと自由に育ってきたかぐらいであろう。
 いったんは鎮まっていた王統の純血の議論。それが再燃している、カイル派の大義名分として。不意に表舞台に引きずり出され、カイル王子ご自身がもっとも困惑されているのではなかろうか。
 アラン殿下やラムザ王子はよく王宮の広場で剣の鍛錬に励まれていた。歳の順に従えばカイル王子のほうがラムザ王子よりも二歳上であるのだから、武術の鍛錬を共になさってもよいはずだ。だが、そこにカイル王子の姿を見かけたことはない。一度だけ広場を囲む回廊の端でお見かけしたことがある。あれはまだ十二、三歳のころであったか。画帖をかかえ柱にもたれて熱心に衛兵の鍛錬のようすをスケッチされていた。
「みごとな腕前ですな。カイル殿下は画がお好きですか」
 画帖に落ちた人影にちらっと目をやり、うつむいたまま応える。
「好きかどうかはわからぬ。筋肉の動きを観察するのはおもしろい」
 風に散らされそうな声だった。ラザールには目もくれず衛兵をまねて腕を動かしていた。王子の存在に気づいたのだろう。大柄な兵が声をかける。
「カイル殿下も剣の鍛錬をなさりますか」
 一瞬、王子の目に光が宿ったのをラザールは見た。が、はたと気づいたように、次の瞬間にはまつげを伏せて首を振る。
「吾にかまわず訓練を続けてくれ。邪魔をして悪かった」
 そう云いおいて、王子は画帖をかかえ去って行った。
 武術は苦手でお嫌いなのかと思っていたが、そうではない。妾腹というお立場ゆえに、剣だけでなく多くのことを諦めてこられたのだろう。共も連れずに去る薄い背を目で追いながら鳩尾みぞおちが軋んだ日のことを、ラザールは思い出した。
 息をひそめて生きてきたものを今さら権力の汚泥に引きずりだそうとするのか。ヨシム准将の筋骨隆々たる体躯とカイル殿下の線の細い神経質そうなまなざしを思い起こす。王族とは権力の亡者たちに翻弄されジェムの駒となることを強いられる運命さだめなのだろうか。
 貴重な宝玉のきらめきが虚しい。大理石のジェム盤の上では輝石でできた駒が転がっている。
 おそらくヨシム准将に誘われていたことを耳に入れられたのだろう。
「むろん、引き受けてくれるであろうの」
 王妃が嫋やかにほほ笑む。
 ラザールがカイル派にくみする前に先手を打ってきたのだ。引き受けるということは、キリト派つまり王妃派であることを表明することになる。
 もしや、とラザールの胸にひとつの考えが灯った。
 キリト王子の立太子を引き延ばしておられるのは、立太子までに不穏分子をあぶり出そうとのお考えではあるまいか。
 黒いベールに顔を隠した王妃に目を向ける。あの幼くあどけなかった皇女はいつのまにこれほどのしたたかさを身につけたのか。母は子のために強くなるという。ラザールは瞑目する。カイル殿下の寂しげな顔が脳裡をかすめる。一国の存亡と一王子の将来とを等しく天秤にかけることはできまい。我もまた王子をジェムの駒として扱うのか。ラザールは奥歯を噛みしめる。立ってしまった波を鎮めることはかなわぬか。ならば、レルム・ハン国がこの大波にのまれて沈まぬように力を尽くすほかない。
 天卵は今どこにあるのか。もう孵ったのだろうか。天卵の子がこの混沌とした淀みを統べる要となるのであれば、禍玉まがたまとなる前に見つけださねばなるまい。
 熟れた桃は地に落ちるしかないのだろうか。

第12章「忘れられた王子」 

「忘れられた王子」(1)

 後宮の池にはりだした四阿あずまやにはすでに王太后が腰かけていた。池面を初秋のぬるい風がわたる。
 カイル王子のご誕生に、サユラ妃の父であるギンズバーグ侯爵は狂喜し「よくやった」と娘を手放しでねぎらった。宿下がりから後宮にもどるとすぐにサユラ妃は王太后に呼ばれた。
 四阿に続く柱廊を渡る。池の畔の柳が風に裳裾を揺らす。正装の胸もとに汗がにじんだ。乳母に抱かれたカイルの泣き声が届くと、たっぷりとしたドレスの裾をひるがえして王太后が立ちあがった。
「元気なお子じゃ。よくぞ無事にお産みになられた。礼を申します。乳が欲しいのやもしれぬ。ここは風も淀んでおる。邪気にあたってはならぬゆえ、カイル殿はさがられよ。皆もさがりや。妾はサユラ殿と少し話がある」
 王太后は人払いをし、サユラに席をすすめた。警護の衛兵のみ回廊の端に控える。
 鯉が朱と白の肢体をくねらせ跳ねた。浮草がゆれ水紋が広がる。
 カイルが泣くとサユラの乳首からじんわりと白い液体がにじむ。わが子に与えることのかなわぬ乳。胸に巻いた晒しか吸ってはくれぬ。初乳は赤子に必要だからと、生まれてすぐに一度だけ吸わせた。小さな口がぎゅっと吸いつき、まだ歯も生えておらぬのに、乳首をかりっと噛んだ。思わず「痛っ」と小さく叫び、声を挙げたはしたなさを羞じいり慌てて口をつぐんだ。思いのほかの力強さに、愛おしさが胸の奥からこみあげ涙がひと筋こぼれた。だが、乳を吸わせたのはその一度きり。吾子あこはわが手から取りあげられた。
「喉が渇いておるであろうが、我慢してたもれ。毒見のものもさがらせたでな」
 はっと、サユラは顔をあげる。
「そなたに害をなすつもりは妾にはない。なれど、どこに悪意がひそんでいるやもしれぬ。王宮とは魔宮よ。危険は避けるにこしたことはなかろう」
 王太后はゆるりと笑む。
「吾子とは愛しいものであろう」
 ぬるい風が頬をなでる。
「ひと度手にしたものを失いたくはのうなる。ましてやそれが吾子となれば」
 サユラは激しくうなずく。
「カイル殿を無事に育てられよ。そのためには、玉座からもっとも遠ざけられよ」
 また鯉が跳ねた。サユラは膝に置いた扇を握りしめる。
「トルティタンとの同盟を反故ほごにはできぬ」
 王太后は池の向こうに目をやる。
「そなたとアカナ殿にはむごいことをしたと思うておる。なあ、王族とは虚しいものであるな。そうまでして護らねばならぬ国とはなんであろうな」
冷たい汗が胸もとを滑り降りた。

「忘れられた王子」(2)

 サユラは侯爵家の娘として自らの役割を幼いころから諭されて育った。後宮に入内し妃嬪となり王子を授かることは、敷かれたレールの輝かしいゴールのはずだった。ゆりかごですやすやと寝息を立てるカイルに目をやる。王太后様の言葉が耳の奥でこだまする。
 嬰児あかごの頬をそっと指先でなぞる。
「お抱きになられますか」
 背後からの声にさっと手を引っ込める。侍女頭のエスミが立っていた。
「私どもの目のあるところでなら、お抱きになられてよろしいのですよ」
 エスミがカイルをゆりかごから抱きあげ、サユラにさしだす。サユラは叱られた子のような目でエスミを見あげた。カイルを産んでからサユラはいっそう臆病になった。
「王家が恐れているのは、サユラ様がカイル様をさらって後宮から出奔され、ご実家の侯爵家に身を寄せられることでございます」
 エスミは侯爵家から付いてきてくれた侍女のひとりで、気の弱いサユラは姉のごとく頼りにしている。
「先日の王太后様のお話は、カイル様に玉座を望まぬようにとの仰せだったのではございませんか」
 サユラは驚いて切れ長の目を大きくし、口を開けて空気を呑み込む。
「姫様」とエスミがことさらに昔の呼び方でサユラを見つめる。
「ものは考えようでございます。玉座から遠ざけてよいと王太后様からお墨付きを賜ったのです。我らはカイル様の無事な成長だけを願い、目立たぬようつつましやかに暮らせばよいのです」
 ああ、とサユラの頬に紅がさす。
「なれど、いかがいたせば」
 サユラは幼いころからの癖でエスミに答えを求める。
「そうでございますね」とエスミは赤子をサユラの腕に抱かせる。
「気をつけねばならぬことは、おふたつかと」
「ふたつ?」
「お辛いでしょうが、第一はご実家とのつながりを絶たれることです」
「侯爵家や父上とは、今後いっさい関わりを持ってはならぬということか?」
 サユラが不安げに瞳を揺らす。
「いっさいとは申しませんが」と断ってからエスミは続ける。
「姫様は、お父上である侯爵様に異をとなえたり、意見なさることはできますか」
 サユラは激しく首をふる。
「お立場上はサユラ様のほうが侯爵様よりも上なのですよ」
「そうかもしれぬが、父上に逆らうなど……」
 サユラはぶるっと身を震わせ、吾子を抱きしめる。
「サユラ様のご気性では難しいでしょう」
 エスミは他の侍女たちに目配せして下がらせる。
「侯爵様はなにゆえ姫様を入内させたのでしょう」
「それは……」と答えかけて、はっとする。
「そうです。サユラ様がお産みになられる御子を玉座につかせ、外戚として権力をほしいままにしたいからです」
 サユラは下唇を噛み、腕のなかのカイルに目をやる。視線を察したわけではあるまいが、小さな瞼が開く。泣くかとたじろぎ、見よう見まねではあったがそっと揺らしてやるとかすかに笑んだ。
「父上にとっては、妾もカイルもジェムの駒でしかないということか」
 エスミはそれには無言で応じる。サユラは気が弱く自らの意見はめったに口にしないが、思慮深いことは知っている。
「いまひとつは、カイル様を武芸から遠ざけ、できるだけ目立たぬようにお育てになることです」
「ああ、それなら」とサユラは表情を明るくしたが、エスミは目を伏せる。
「姫様のご気性を継いでいらっしゃれば問題はありません。ですが、先代王のご気性をお持ちであれば、それを押さえることは……」
 文武両道に秀でることは名君に求められることであるというのに。それを吾子には封印させねばならないのか。「堪忍してたもれ」とサユラはつぶやく。熱い滴がひとつ、子の頬に落ちた。

「忘れられた王子」(3)

 カイルは聡い子であった。聞きわけのよすぎることが不憫に思えるほどに。「あぶないので、宮から出てはなりませんよ」「多くを望んではなりません」「剣も弓も、手にとってはなりません」「アラン殿やラムザ殿とはちがうのです」
 たくさんの禁止の言葉でカイルを縛った。むごいとは思うたけれど、なにかを禁じるときには必ず「お母様といっしょに居たければ」と添えた。幼子にとって母と離されることは恐怖に近い。それがカイルを守るためであるとわかっていても、子を恐怖で縛ることにサユラの胸は軋んだ。カイルの伸びるはずの芽をひとつずつ手折たおっているのだと、その度に胸に抜けない棘が刺さった。
 後宮には六つの宮がある。王太后の宮を金剛宮、王妃は真珠宮を、貴嬪のサユラは翡翠宮を賜っていた。淑嬪のアカナは玻璃宮である。黒曜宮と柘榴宮は使われていない。
 それぞれの宮は土塀で囲まれ、後宮の正殿である星雅殿せいがでんと柱廊で結ばれている。
 翡翠宮には噴水のある池と果樹のなる庭があり、このせいぜい百メートル四方の空間がカイルの世界のすべてだった。庭園を訪れる鳥や虫、小動物とたわむれ、朝露をまとった蜘蛛の巣を観察していることもあった。同じ年頃の遊び相手のいないことを不憫に思い、子猫と鷲の雛をエスミがどこからか貰いうけてきた。猫をシュリ、鷲の雛をハヤテと名付け、彼らはカイルの唯一の友となった。常ならば王子には家臣のなかから歳の近い子息が童子に選ばれ、遊びと勉学の相手を務める。成長すると彼らがもっとも忠実な側近となる。アラン皇太子の葬儀の折に自決した三名の若者も童子より仕える側近であった。どの王子の童子となるかによって、一族の将来の栄華と不遇が決まる。権力争いは、幼いころより始まっているといえよう。
 一度だけウル王が「カイルの童子に候補がおるそうだ」とついでのように仰せのことがあった。「もったいのうございます。ですが、カイルは病で床に臥せることも多いので、まだ早いかと」とサユラが申しあげると、それっきり興を失くしたのか再び話にのぼることはなかった。ラサ王妃の産んだ王子にしか王の興味がないことは幸いでもあったが、父王からも忘れられる吾子が哀しくもあった。
 童子だけでなく、師傅もつけなかった。
 歩きはじめてまもなく、カイルは文字に興味をもった。「カイル様はもう字が読めるようです」侍女のひとりが目を輝かせて報告してきた。まだ二歳にもなっていなかった。翌日には、翡翠宮はその噂で明るくなった。妃嬪どうしの関係とは別に、それぞれの宮の侍女たちの間で小競り合いが絶えない。皇太子を擁する真珠宮の侍女たちから、あからさまに見下げられることも多かったものだから、カイルがたった一文字か二文字読めただけで「カイル様のほうがアラン様よりも優れている」とまるでわが事のように自慢する声が聞こえてきた。
 眉をしかめたのはエスミだ。下女たちは共通の井戸に水を汲みにいく。一刻も早く彼女たちの口をふさがなければ。殿上の侍女だけでなく下女まで一人残さずサユラ妃の前に集めた。
「皆がカイルのことを慈しんでくれること、ありがたく思っております。カイルが文字を読めたことをわが事のように喜んでくれることも。それゆえ、妾からお願いがあります。カイルが微妙な立場の王子であることはわかってくれるであろう。どうかカイルの無事を願ってくれるのであれば、真珠宮を刺激せぬよう、お願いできないであろうか。悔しいことも多かろう。なれど、カイルの成長の喜びは翡翠宮のうちだけに留めおいてもらえぬか。妾はカイルに玉座を望んではおりませぬ。母として、ただ無事に育つことを願っておるだけ。皆が子に願うのと同じ。妾のささやかな願いのために苦労をかけますが、どうかお願いいたしまする」
 サユラは椅子から立ちあがり、正座をし床につかんばかりに頭をさげた。
 貴嬪の土下座に侍女や下女はどよめき驚愕する。貴人に触れることは許されていない。「もったいのうございます」とわななく嗚咽が宮をゆるがした。
 この日を境に翡翠宮は心をひとつにした。おそらく真心からの所作であったのだろうが、言葉数は少なくとも人の心を深くつかむサユラの器量に、エスミは母になって強くなられたと感じ入った。
 この騒動もありカイルの才が外に漏れることを恐れ、師傅をつけなかった。ただし書物は望むだけ与えた。

「忘れられた王子」(4)

 四年後に産んだ子が姫とわかると、産褥の床でサユラは安堵の涙をこぼした。
 カイルに対する裏返しだったのかもしれない。いずれ他国へ嫁ぐのだからと、多少のことには目をつぶって甘やかしたからであろうか、妹姫のカヤは自由奔放に育った。木に登っては落ちる、池の亀に指を噛まれる、雨の庭に走り出て泥まみれになる。カイルよりもカヤのほうが男子おのこのようであるな、とサユラは笑った。
 カイルはそんな妹姫をかわいがった。カヤもまた兄宮を慕った。
 カイルは母の言いつけを守り宮の外に出ることはなかったが、カヤは頻繁に脱走をはかった。行く先はたいてい玻璃宮だった。
 翡翠宮と玻璃宮は、観月台をはさんで井桁のように隣り合っていた。サユラとアカナは名門貴族家からの入内と出自が似通っている気安さから、互いを茶に招くことがあった。アカナの御子は姫宮ふたりだったため、あるとき「カヤ姫様もごいっしょに」と誘いを受けた。アカナ妃の一の姫オリは、カヤよりも一つ年嵩の五歳、妹のマナ姫は一つ下の三歳であった。カヤは一度に姉と妹ができたごとく、たいそう喜んだ。翌日から「次はいつ玻璃宮に行くのだ」とせがむ。「そのうちに」とか「またお誘いがあれば」とかわしていたが、カヤの行動力をサユラもエスミもみくびっていた。
「も、も、申し訳ございません」
 カヤの乳母が血相を変え、姫様の姿が見当たりませんと訴えた。午睡からお起こし申しあげようと寝台をうかがうともぬけの殻であったと。
「どこぞでかくれんぼでもしておるのであろう、いつものことじゃ」
 と取り合わなかったが、傍らにいたカイルが
「母上、カヤは玻璃宮にまいったのではありませんか」という。
 まさか、とサユラは思った。宮と宮を結ぶ回廊の出入り口には宦官の門衛もいる。姫が出ようとすれば止めるであろうが、念のために遣いを走らせた。オリ姫の寝台でふたりが手をつないで寝息を立てていて、玻璃宮でもひと騒動になっていた。
「母上、こちらへ」とカイルが庭の隅にいざなう。
 土塀の下から不意に何かが飛び出した。カイルの飼い猫のシュリだ。古くなった土塀が崩れ、猫の往来に十分な穴が開いていた。よく見ると穴の下の土が抉るように掘られている。傍らには土のこびりついた陶器の欠片が転がっていた。
「もしや、カヤはここから」
 振り返るとカイルがうなずく。その足もとでシュリも肯定するように尻尾をばたつかせる。無理やり通ったのであろう。穴の口に引きちぎれた薄紅の絹の切れ端が落ちていた。
「オリ姫の寝台に泥まみれで忍び込んだか。さぞかし驚かれたであろうな」
 常に背を正して座しているオリ姫の困惑する様を思い浮かべ、サユラは嘆息した。
「穴はすぐに塞がせます」侍女がいうとカイルが、
「ここを塞いでも、カヤはまた別の抜け穴を見つけるでしょう。木登りも得意になりました。木に登って塀を超えようとするやもしれません」
「そうであろうな」サユラは塀の上の空を見あげる。
「週に一度、玻璃宮にお連れ申し上げるようにいたしましょう」
 エスミが提案するも、カイルは即座に異を唱えた。
「それではカヤを満足させられません。また脱走いたします」
 皆の目がいっせいに八歳のカイルに集まる。
「カヤはお姫様の物語よりも冒険譚を好みます。万難を排してたどりつく冒険がしたいのです」
「なんとまあ、困ったことよのう」
 甘やかしすぎたか、とサユラは眉をしかめる。
「母上、吾にお任せいただけませんか」
「なんといたす」
「トビモグラに力を貸してもらいます」
 トビモグラにトンネルを掘らせ、地下道をつたって通わせたらいかがか、という。トビモグラたちのねぐらとは別に掘らせれば、カヤが迷子になることも、別の場所へ遠征することもできない。専用の地下通路であるから、人目にふれることもなくカヤが攫われる心配もない。これならばカヤの冒険心も満たせると思うのです、と。
 これが八歳の子の知恵であろうか。滔々と理を分けて説く子を見つめ、ただの貴族の家に生まれておれば官吏として知略を存分に活かす道もあったであろうに、とサユラは瞼をおさえる。
「この計画に母上もエスミも」と周囲を見渡す。
「皆も、気づいていないふりをしていただきたいのです。あくまで、吾とカヤが秘密で立てた策と素知らぬふりをしてください。玻璃宮にもそのようにふるまっていただくようお願いしていただけませんか」
「相わかった。アカナ殿には妾から頼もう。皆もどうか吾子たちの遊びに付き合ってたもれ」

「忘れられた王子」(5)

 兄は妹の自由闊達な心を守り、妹は兄のままならぬ自由を補おうとした。
 成長するにつれカヤは宮から出られぬカイルの代わりに、兄の目になろうと決心したふしがある。後宮から出ることはかなわぬが、後宮内を女童めのわらわの恰好をして歩き回り、噂話や見聞きしたことをカイルに語って聞かせた。いっぽう鷲のハヤテは、外廷はむろん王都リンピアのようすや、時には海上まで遠征し鳥瞰でとらえたさまざまを伝えた。カイルは翡翠宮の奥に居ながらにして、後宮の隅々やゴーダ・ハン国の灌漑工事のことも、セラーノ・ソル国の王がセリダという小柄な女王であることも知っていた。
 カヤが女童に身をやつしてうろついていると注進が入ると、さすがにエスミは「姫様にはきつくお灸を据えねばなりません」と眉をつりあげた。とりなしたのはサユラだった。
「舞や竪琴の稽古などはさぼっておらぬのであろう」
「ええ、それはまあ。姫様は器用というか、なにごとも飲み込みが早く、すぐにおできになられます。ただし人並みにでございます。それ以上、上達しようとはなさりません」
 エスミには忸怩じくじたる思いがある。
「姫のたしなみとしては、それで十分ではないかえ」
「そうではございますが。それと、女童の姿で徘徊されるのとは別にございます」
「のうエスミ、カヤは兄想いであると思わぬか」
 サユラは椅子から立ちあがり、鎧戸をあけて窓から庭園を眺める。
 池に張りだした四阿でカイルが画を描いている。カヤは隣に座してしきりに兄になにかを語っている。
「姫様の戯れは、カイル様のためと」
 サユラは春風のように微笑む。 
「妾は何も見ようとせず、知ろうともせず、覚悟もなく入内した。カヤは、王妃様のようにいずれは国を背負うて他国に嫁がねばならぬ。敵国に人質として嫁ぐこともあろう。ひとりで考えて、ひとりで対処せねばならぬようになる。危険に曝されることも多かろう。遠からず、ひとりで運命を切り拓いていかねばならなくなる。女童に身をやつして見聞を広げることは、あの子を助けることもあるやもしれぬ」
 池をわたる風にでも説くようにサユラは語る。
「妾が愚かであったがために、吾子たちには過酷な運命を強いることとなってしもうた」
 エスミもまた、サユラ妃とお子様たちの苦悩を思って嘆息した。王族とはなんと忍従を強いられる運命であるかと。

 十五歳を迎え成人の儀である冠賀礼かんがのれいを済ませると、王子は後宮に住まうことは許されない。外廷に独立して宮を持つことになる。カイルは藍宮らんきゅうを賜った。
 立宮に際し、近侍としてギンズバーグ侯爵家からも三名の推挙があったが、父上や兄上の息のかかっている若者を受け入れるわけにはいかない。丁重に断ると「童子はおろか、近侍までしりぞけるとは。後ろ盾もなしに立宮させるのか」と激怒したと聞く。エスミの弟のナユタを近侍頭とし、他に三名、カイルが生涯無冠のまま権力とは一線を画することを心得たものをつけた。
 カイルは立宮前に臣籍降下を父王に願いでたが、沙汰が下りる前に王太子のアランが事故で急逝した。ひと月後に控えていたカイルの冠賀礼は王太子の服喪中であるため中止となり、藍宮への引っ越しだけがひそりと行われ、臣籍降下の請願もうやむやになった。冠賀礼が取りやめになったことを翡翠宮のものたちはたいそう口惜しがったが、「目立たなくてよかったではないか」とサユラもカイルも笑って取り合わなかった。

 サユラとエスミは、一本ずつあらぬ懸念の棘を抜くようにして慎重にカイルを玉座から遠ざけ守ってきた。
 それがあろうことか、今、王宮を二分する権力闘争に巻き込まれようとしている。
 王妃が三人目のキリト王子を無事にご出産なされたとき、サユラは心底、胸を撫でおろした。たとえアラン殿が儚くなられようとも、カイルを王太子にともくろむ勢力はこれでもう生まれないであろうと。まさかラムザ殿まで相次いで身罷られるとは思いもしなかった。
 いくらカイルには玉座を欲する気持ちはないとサユラが訴えても、外戚であるギンズバーグ侯爵は取り合ってはくれぬ。カイルが後宮を出て二年、もはや守ってやる手は届かぬ。これまでの歳月はなんであったのだろうか。争いに巻き込まれることは避けようがないのか。このような将来になるとわかっておれば、護身術だけではなく、剣や弓も兵法学も望むだけさせてやれば良かった。
 王太后様も五年前に薨去された。
「のう、エスミ。何ゆえ、王妃様はキリト様の立太子を据え置かれているのであろう。大きな渦を止めることは、もはや叶わぬのかのう。『天は朱の海に漂う』との星夜見があったそうじゃ。天卵の禍いであろうか」
 庭園にたわわに実る香橙こうだいの梢から、レイブンカラスが一羽音もなく飛び立った。

第13章「藍宮」

「藍宮」(1)

 カイルが十五歳で立宮してまもない浅春のこと。池の氷はほどけていたが、頬をなでる風にまだ冷たさが残るそんな日だった。王太子のアラン兄上が事故で落命される数日前のことだ。

「お待ちください」
 図書寮を退出しようと正面扉にカイルが手をかけるのを、近侍のナユタが押しとどめた。
「それほど警戒せずともよかろう」と笑っても、ナユタは盾とならんと前に出る。
 エスミの末弟のナユタは、カイルよりも十歳上の二十五歳の青年で、姉からカイル様を我が身にかえてお守りせよと厳命されている。
 カイルを背でかばい腰の佩刀はいとうに手をかけ、ナユタが重厚なオークの扉を内側に引いたはずみだった。仄暗い図書寮に白い昼の光がなだれを打って射しこんだ。と同時に、つっかえを失った何かがどさりと倒れこみ辺りに書物が散乱した。
 とっさにナユタは左手でカイルを背後に突き飛ばすと、倒れている人影を長靴ちょうかで踏んで動きを抑え、太刀を首筋に突きつける。まばたきほどの間に事が決していた。
 射しこむ光に埃が螺旋を描いてのぼる。
「ナユタ、子どもだ。太刀をおさめろ、足をのけよ」
 カイルは尻もちをついた姿勢から立ち上がり、尻をはらいながら命じる。
 革の長靴に踏みつけられ、ひしゃげた蛙のごとく這いつくばっているのは、身の丈から十歳ほどの男児とみえた。
 ナユタは太刀を鞘におさめると、子の両腕を後ろ手に縛りあげ、襟もとをつかみ身を起こさせた。ぽたりと、赤黒い滴が石の床に落ちた。倒れていたあたりにも血溜まりができている。どうやら前のめりに倒れた拍子に床で鼻をしたたかに打ったらしい。
「たいせつな書物に……」
 男児は太刀を向けられてもおののきもしなかったのに、書物を汚したことに顔を蒼白にしてうろたえていた。鼻血は止まらず、ぽたぽたと膝に落ちる。
 カイルは袂から手巾はんかちを取り出し、びりりと引き裂いて「鼻に詰めよ」と渡す。
 子はきょとんとカイルを見あげる。ああ、そうか。縛られていては何もできぬな。
「ナユタ、縄をほどいて手伝ってやれ」
 言いおいて、片膝をつき散らばった書物を集める。
 『星辰記』『万象算術』『古今地暦』『本草略記』などの星や算術の書にまじって『ウィマール物語』や『グリーク神話』といった物語も幾冊かあった。返却に来たのだろう。扉に手をかけたとたん、内側からナユタが扉を引いたのだ。さぞかし驚いたであろう。物語のたぐいはあの子が読むのだろうか。算術書などの書籍は誰かに返却を命じられたか。わかりやすくまとめられた良書ばかりであるな、と感心する。
「血は止まったか」と振り返る。
「名は何と申す」
「申しあげられません」
 太刀を突き付けた相手に名は明かせぬか。
 後頭部でひとつに束ねていた髪はほどけ、肩までの黒髪が揺れていた。蒼い瞳がたじろぐことなくカイルを見あげる。
「星の文様の散った青い前垂れ。星童の服装でしょう」
 ナユタが指摘すると、ぷいと顔をそらし目が泳ぐ。
「この御方は、このたび藍宮を立宮されたカイル王子であるぞ」
「第二王子様……ですか。も、申し訳ございません」
 慌てて平伏する。それでも、頑なに名は明かさぬ。
 カイルはひとつ嘆息すると、子の脇を抜け図書寮前の回廊に出て天を仰ぐ。左手を挙げると、すーっと何か大きな影が近づいた。
「そいつは星童のシキ。ラザール星司長の養い子だ」
 ばさっと大きな羽をたたんで、鷲のハヤテが書庫前の楡の木に舞い降り告げた。

 カイルはシキを立たせるとその両腋に手を入れて持ちあげ、重さを確かめるように上下に揺らす。ふむ、とうなずいておろすと、足もとに積んでおいた書物の山を持ちあげ首をかしげる。
「そちのほうが軽いな」と結論し、ナユタを振り返る。
「書物はおまえが運んでくれ」と命じ、シキをひょいっと肩に抱きあげる。
「な、な、なにをなさいますか」
「手当をしに宮に戻るのだ、暴れるな」
 シキの尻を抱えながら、カヤと同じだ、と笑みがこぼれる。
 よくカヤを抱きあげた。抱かれながらも、ネズミだ、トンボだ、と落ち着きがなかった妹姫を思い出す。カヤはその横溢な好奇心でカイルの世界にいつも風を運んできた。
 立宮の日の朝、眉をつりあげてカイルに視線を据え「兄上様の望みが叶うよう、カヤはかならず手を尽くします」ときりりと述べ、口を真一文字に結んだ。侍女たちが号泣するなか、十一歳の少女は凛と顔をあげて兄を見つめ、無言で涙だけを頬に走らせていた。木から落ちても泣かなかった妹がこれほど涙を流すのをカイルは初めて目にした。
 あれからまだひと月も経っていないというのに。胸をすきま風がなでる。
 カヤは遠からず他国に嫁がされる。あの天真爛漫な妹に相まみえることは、もはや望めぬであろう。臣籍降下を果たし諸国漫遊の旅に出ることができれば、あるいは。だが、その折には身分が隔たりすぎて、近くに寄ることも叶わぬか。いや、あのカヤなら城を抜け出して来るかもしれぬ。乾いた笑いがこみあげる。諦めは常にカイルと共にあった。
「そなた、歳はいくつだ」
 カイルは歩きながら尋ねる。
「十歳になります」
 カヤとひとつ違いか。シキという星童は男児であるが、抱きあげた感触がカヤと似ているように思うのは気のせいか。いささか感傷が過ぎるなと、後宮の空へと目をやる。
 宮に戻ると侍医を呼び、星夜見の塔に使いを走らせた。

「藍宮」(2)

 書物はすべてシキが借りていたのだと知って驚いた。
 ラザール星司長の薫陶を受けているらしい。「学ぶことは楽しい」とまっすぐな瞳でいう。その楽しみはカイルもよく知っている。書物はさまざまな世界への扉を開いてくれた。カイルは師について学んだことはないが、良き師に巡り合えば独学では得られぬ喜びもあるのだろうか。ラザール星司長は高潔な人物ときく。いつか会ってみたいものだ。
 吐き気がなければ心配ないと医師がいうので、書斎に案内するとシキは警戒を解いた。
「ラザール様の書斎のようです」
 これも、この書もありますと、瞳に興奮を宿してカイルを振り返る。
「ラザール殿の蔵書にはかなわぬであろうが、読みたい書があれば貸そう」
 とたんに目を輝かせたが、前垂れをぎゅっとつかんでうつむく。
「読みたいものはないのか」
 首を横に振る。書斎の机に積まれている書物を指さす。シキが床にばらまいた書物は、数冊に血痕がついている。
「気にせずとも、汚れはできるだけ落とさせて、吾が返しておく。落ちなければ、その頁だけ新たに書写させよう。血のついた理由も吾が説明するゆえ心配せずともよい。そのくらいは吾の力でもなんとかなろう。案ずるな」
「あ、ありがとうございます。ですが……」と口ごもり、思慮深げな蒼い瞳を泳がせる。
「たいせつな書物をお借りして、また、このように汚してしまってはたいへんです。カイル殿下だけでなく、ラザール様にまでご迷惑をおかけすることになっては……」
 少年がなにを懸念しているのかに合点がいった。
「相わかった。では、読みたくなったら遠慮なく宮を訪れよ。ちょうど話し相手がほしいと思っておった。気が向いたら、読んだ書物のことや星夜見のことを聞かせてくれぬか」
「はい」と元気よく答えて、はっと思い出したのだろう。慌てて跪拝し、
「承知いたしました」と言い直した。
 以来、ひと月に数度訪ねてきては、ぽつりぽつりと賊に襲われふた親を亡くした身の上なども話すまでになっていたが、初秋にラムザ王子が病でとつぜん身罷ったころから訪問が途絶えがちになっていた。

「藍宮」(3)

 シキの足が遠のいたのを寂しく思っていたころ、珍客はとつぜん現れた。
 ラムザ王子の喪が明け、新年を迎えてまもないころだった。王族は新しい年を迎えるとひとつ歳をとる。カイルは十六歳になっていた。
 藍宮の庭に石造りのささやかな泉がある。
 その日は朝から晴れ、泉に張った氷も冬の日に溶けかけていた。泉のかたわらには蜜柑の木がたわわに実をつけている。ひとつもぎ採ろうとカイルが手をのばしたときだ。
 ばささっ。
 まがきから愛猫のシュリが飛び出した。いちもくさんに駆けて来る。抱きかかえようと広げたカイルの腕を無視し、蜜柑の幹をしなやかに肢体を伸縮させ駆けのぼった。その直後だ。
 ばさばきっ、ざざっ、バキバキ、どさっ。
 小枝を折りながら猫を追って何かが籬から頭を突き出し、勢いあまってつんのめり倒れこんだ。
 難を逃れたシュリは、蜜柑の枝で総毛を逆立ててうなっている。
「なにごとですか」
 物音を聞きつけ、ナユタを先頭に近侍が走り寄る。
「なんと。キリト王子ではございませんか」
 不審者を取り押さえ、ナユタが驚愕する。
「ここは、どこじゃ」
 毛織の上着に短袴をはいた男児が、四つん這いのまま顔だけあげる。籬に引っかけたうえに、溶けた雪で湿った土にまみれ泥だらけだった。顔にも細かな傷がついている。
「藍宮でございます」
「藍宮とな。では、カイル兄上の宮か」
 さっと立ち上がる。怪我はないか確かめようとするナユタの手を振り払い、カイルのもとに駆け寄る。
「カイル兄上、お会いしとうございました」
「キリト殿か。従者はどういたした」
「宮をこっそり出てきました」
 十一歳の弟宮は誇らしげに胸を張り、明るい瞳をくったくなげに見開く。
「まいりましたな」
 ナユタがとほうにくれた視線でカイルを見る。
 アランに続いて第三王子のラムザまで逝去し、次の王太子が空位の微妙な時期だ。藍宮がキリトを拉致したなどと、あらぬ嫌疑をかけられるのは避けねばならない。
 カイルはナユタにうなずき返す。
「後宮までお送りいたしましょう」
 ナユタが立ち上がると、
「いやじゃ……いやじゃ、いやじゃ、いやじゃあ」
 最後は絶叫だった。溶けた雪のぬかるみに尻をつき、空を仰いで泣きじゃくる。その激しさに、ナユタとカイルが圧倒される。
 カイルは蜜柑をひとつもぎ取るとキリトの前に膝をつき、
「よく熟れて甘いぞ」と弟宮の手にのせた。
 袖口で涙をぬぐい、濡れた瞳をまたたかせる。掌の蜜柑とカイルを交互に見やる。
「枝からもいだゆえ、毒の心配はない。食べてよいのだぞ」
 カイルがうながすと、
「このまま……ですか」と首をかしげる。
 そうか。宮では剥いて皿に盛ったものしか供されぬのであったな。
 翡翠宮では、庭の果樹はカイルやカヤが自ら採って食べていた。採るのが楽しいと、カヤは木に登り手に余るほど収穫しては侍女たちに分け与える。他の宮ではあり得ぬ光景だったのだと、カイルは思い知る。
 皮を剥いて房を分け、キリトの掌にのせる。
「ほら、うす皮ごと食べてごらん。こんなふうに」
 カイルはひと房、自らの口に放りこんでみせ、キリトを木陰の長椅子に掛けさせる。
「キリト殿は、なにゆえ宮に帰りたくないのか?」
「兄上が、ラムザ兄上がお隠れになってから……母上は宮を出ることを禁じられます」
 細い肩を落としてうつむく。
 第一王子のアランが落命するまで、ラサ王妃の関心はもっぱら王太子のアランに向けられていた。まさか次男のラムザまで儚くなるとは予測もしていなかったのだろう。将来の王位を担うものとして厳格に育てられた二人の兄宮とは異なり、末弟のキリトは王位から遠いため、よく言えばのびのびと甘やかされ自由にふるまうことを許されてきた。それが。
 アランとラムザの死により一変した。にわかに監視が厳しくなったのだ。
 兄を一度に二人も失った寂しさもまだ癒えておらぬのに、自由まで奪われ我慢がならなかった、とまなじりをあげる。
「それで、抜け出してまいったのか」
 どうやらキリトにも脱走癖があるようだ。これまでは後宮を抜け出しても咎める者がいなかったのをよいことに、アラン兄上の紫雲宮しうんきゅうをひんぱんに訪れていたらしい。
「……閉まっておりました」
 門にはかんぬきが渡され、鍵が掛かっていた。入れるところはないかと塀に沿って歩いていて、虎猫のシュリを見かけ追いかけてきたという。興味がくるくると移るところまで、カヤに似ている。カイルの口から自然と笑みがこぼれる。
「真珠宮のものが探しておるであろう。隠れていてはかえって事が大きくなり、ここへの出入りを禁止されるかもしれぬ。そうなってもよいのか」
 激しく首をふる。
「ならば、藍宮を訪れていると伝えてもよいな」
 短袴をぎゅっと握りしめてうなずく。
「次からは、断りを入れてから来るのだぞ」と諭すと、ナユタがカイルの袖を強く引く。
 柱の陰に引き込んで声を潜め、「これ以上、関わられるのは」と濁す。
 キリトは猫を追いかけ、明るい笑い声を立てている。カイルは柱に背をもたせ、無邪気に走り回る弟宮の姿を眺める。うすく晴れた冬の空を鷲のハヤテが旋回していた。
 弟が兄に会う。ただそれだけのことが、ままならぬとは。母が異なるというだけで、有象無象の淀んだ思惑が絡みつく。王宮とはまことに魔宮である、とカイルは瞼を閉じる。自らに流れる王族の血を厭わしく思わなかった日などない。一刻も早く臣籍降下し、ハヤテのように自由に世界を飛び回りたいものだ。
「真珠宮の判断にゆだねるしか、しかたあるまい」
 
「キリト殿下。これは臣の独り言とお聞きください」
 ナユタはキリトの盾になるよう半歩斜め前を行き、前方を見つめたまま低く沈んだ声で背後に語る。子どもに諭したところで、詮ないことかもしれぬ。だが、カイルに不要な嫌疑がかかることは排除せねばならない。
「納得のゆかぬことかもしれませんが。殿下の行動が、カイル様を窮地に追いやり、お命を危うくするかもしれぬことを、どうかお心にお留めおきください」
「それは……なにゆえじゃ。吾が兄上のお命を奪うとでもいうのか」
「そうではありません。殿下がどれほどカイル様をお慕いしようとも、殿下の意思とは関係なく動く者がいるということです。それらの者は、殿下のためという大義名分を盾にいたします。キリト殿下に王位を継いでほしいと望む大人たちにとって、カイル様は敵とみなされるのです」
「王位など望まぬと言ってもか」
「殿下のご意思は関係ございません」
 ナユタはきっぱりと打ち消す。
「キリト殿下が王太子となられ、ゆくゆくは王位につかれることが肝要なのです。そのためであれば、どのような手段も用いるでしょう」
 キリトはぎゅっと唇を結んで、後宮の門につくまでひと言も話さなかった。
 子どもには酷な話であったかとナユタの胸は軋んだが、ひと月も経たぬうちにその思いを撤回した。

「藍宮」(4)

 暦が二月をめくってまもないある日、キリトは近侍二名を伴って藍宮を訪れ、カイルとナユタを驚かせた。
「母上を説得してまいりました」
 胸を張るキリトの後ろで近侍たちが苦笑していた。どうやらここひと月、真珠宮では悶着が続いていたらしい。

 ――なにゆえ後宮から出てはいけないのか。なぜ藍宮を訪れてはいけないのか。どうしてカイル兄上に会ってはいけないのか。
 新年の行事で忙しないラサ王妃をキリトは追い回し、直談判を繰り返した。
 まだ子どもゆえ適当にあしらっておけばよいと、ラサは高を括っていた。アランもラムザも母の言いつけには素直に従ってきたので、キリトも当然従うものと思っていたのだ。
「忙しいので、後にしてたもれ」といなすと、 
「後とは、いつですか」と問う。
 数日姿を見せずようやく諦めたかと胸をなでおろしていると、侍女から「キリト様がお食事を召しあがられませぬ」と訴えられる。
 王妃はいささかうんざりしていた。根負けしたといってもよい。
「後宮から出ることを禁じたのは、そなたの身を案じるゆえ。アランもラムザも謀殺されたのではないかと、母は思うておる」
「では、一人で抜け出さずに、護衛をつければよろしいですね」
 ラサは一瞬、押し黙り考えをめぐらす。
 これまでラサの関心は、王位を継ぐ可能性のあるアランとラムザにあり、幼いキリトは愛玩動物のようにかわいがりはしてもそれ以上の関心はなく、侍女と守り役のソン太師にゆだね自由にさせてきた。
 ひと月近くにおよぶ根気強い抵抗には驚いた。
 カイルとは王太子の地位を争う立場であるゆえ親しくしてはならぬと禁じれば、「王太子になどなりませぬ」と言い出しかねない。子どもゆえのまっすぐな理屈をくつがえす正論をラサはもっていなかった。ごまかしは効かぬか、と嘆息する。
 条件をつけて認めるしかあるまい。
 存外、アランやラムザよりも王者としての資質はキリトにあるのではないか。一歩も退かないばかりか、愛嬌のある笑みすら浮かべて王妃に挑む末子を見つめる。キリトの教育を急がねばならぬ。
「武術の鍛錬と勉学を怠らなければ、月に二度、護衛を連れて藍宮に通うことは許しましょう」

 王妃の許可を取り付けたと誇らしげに語る弟宮を、カイルは驚きをもって眺めた。育ちの違いといってしまえばそれまでだろうが。黙して諦めるだけではない道もあるのだと、小さな弟が示してくれた。
 従者の語るところによると、事前に双方の宮で日程の調整をし、護衛も伴って訪問することとなったという。

「カイル様」
 背後からおずおずとした声がかかる。
「お話のところ申し訳ございません。これにて失礼させていただきます」
 星夜見寮での新年の行事がひと段落したからと、この日は朝からシキが新年のあいさつに訪れていた。
「ああ、シキ。読みたい書物があれば、いつでも遠慮なくおいで」
 シキに告げていると、カイルの袖をキリトが引っ張る。
「兄上、そのものは誰ですか」
「星夜見寮のラザール星司長の養い子のシキだ」
「星夜見寮とな」
キリトの目がたちまち輝く。
「そちも星夜見士か」
「いえ、まだ星童でございます」
「もう帰らねばならぬのか。星夜見の話が聞きたい。だめか」
 シキが困ったようにカイルを見あげる。
 カイルがキリトの前に膝をつき視線を合わせる。
「キリト殿、シキが困っておる。王族が命令すれば、拒むことのできるものはおらぬ。故にむやみに望んではならぬ。シキには、シキの務めがあろう」
「……ソンのじいも、そのようなことを申しておった」
 キリトは眉尻をさげ、シキのほうを向く。
「足をとめさせてすまなかった。なれど、星夜見のことを知りたいのだ。そちはよく藍宮を訪れるのか。よければ、次の機会に教えてもらえぬか」
 シキはあわててキリトの前に跪拝する。
「畏れ多いことにございます。私はいっかいの星童にすぎません。星夜見についてのご進講ならばラザール様にお願いください」
「そういう堅苦しい勉強のようなのはいやなのじゃ。星の話をしてくれればよい」
「星の話ですか……」
 シキは返答をためらう。
「ラザール様にお伺いしてからご返答申しあげても、よろしいでしょうか」
「うむ、かまわぬ」
 口では大人ぶって鷹揚にかまえていたが、キリトは目を輝かせシキのほうに身を乗り出している。これではシキも、色よい返事をせぬわけにはいくまい、とカイルは苦笑した。
 ほぼひと月に一度、シキはキリトの藍宮訪問に合わせて訪ねて来るようになった。カイルをはさんでキリトとシキが星の話に夢中になる。微笑ましい光景ではあるのだが、ナユタの気が休まることはなかった。
 ――キリト王子の希望とはいえ、王妃様はどうお思いであろうか。
 王妃の思惑も気懸りではあったが、それよりもキリト派に良からぬ口実とならぬよう気を揉んでいた。ところが、半年を過ぎる頃から「本日はお伺いできません」とシキから断りの申し出が増えるようになった。

第14章「月の民」

「月の民」(1)

 レルム暦六三五年四月、王国に激震が走った。
 「天は朱の海に漂う」との星夜見がオニキス副星司長によってなされた。流星が流れ、天卵が生まれてからちょうど二年が過ぎた春で、カイルは十七歳、シキとキリトは十二歳になっていた。
 二年前、白の森の南端にあるカーボ岬から、天卵は海に没したとレイブン隊が報告していた。それを覆す星夜見に王宮は騒然となる。事の真偽を確かめるべく、ダレン伯が辺境警備軍を率いて海路探索に向かうことになった。
王宮は浮足立っていた。
 回廊で、広場の片隅で、各々の執務室で、三々五々に集まって議論したり、ひそひそと密談したり、まことしやかで不確かな憶測が飛び交っていた。そのような折にシキは、星夜見士のダンとロイが月夜見寮の不穏な動きについて話しているのを耳にした。
 天卵のことは、『黎明の書』に「孵りしものは、混沌なり、統べる者なり」と書かれていることしか知らない。天卵から生まれた者は、王国に混乱をもたらし、国を乗っ取るのではないかと恐れられているらしい。カイルやキリトと知り合う以前のシキは、誰が王様になろうと、どうでもよかった。ラザール様のお役に立つことにしかシキの関心はなかった。だが。偶然にもカイル殿下に出遭い、キリト王子に星の話をするようになった。自分のようなものが王子様方と席を同じくする。村にいたころには考えられなかったことだ。父さんと母さんが導いてくれているのだろうか。
 カイル様は王位につくつもりはないとおっしゃる。
「王宮という鳥籠ではなく、シキのように父母といっしょに食卓を囲むような民の家に生まれたかったよ」と。
 シキには、王宮の窮屈さはよくわからない。返すことばが浮かばず黙っていると、
「畑を耕したことも、シキのように空腹に苦しんだことも、盗賊に襲われる恐怖も、生きるために卵を盗んだこともない。書物のなか、空想のなかでしか世を知らぬ。吾は空虚なのだよ。だからこそ、この目と足で確かめてみたいと願うのだ」
 後宮にいたころはほとんど翡翠宮から出たことがなく、立宮して少しは自由になったが、それでも藍宮と図書寮を往復するぐらいだと苦笑される。
「星夜見の塔にも登ってみたいものだ」
「ラザール様にお願いしましょう」
 シキが身を乗り出すようにして提案すると、静かに首を振られる。
「申し出はうれしいが、ナユタに止められるだろうね」
 なぜに、とシキは振り返ってナユタをうかがう。
 最初の出会いで刃を突き付けられた恐怖もあり、シキはナユタが苦手だ。
「バランスの問題です」
 ナユタは細い目でシキを見据えていう。
「バランス?」
「星夜見寮と月夜見寮は、昔からいざこざが絶えません」
 星夜見士のダンとロイも話していた。月夜見が何か企んでいるのじゃないかと。星夜見の皆は、ことあるごとに月夜見の動きを警戒している。
「カイル様が今、星夜見の塔を不用意に訪ねられると、月夜見寮の不興をまねくばかりか、星夜見がカイル様にくみしたとあらぬ憶測を呼ぶことになるでしょう。わかりますか」
 シキには政治はわからない。が、ナユタが何を案じているのかはぼんやりとわかった。
 それにしても、なぜ、星夜見と月夜見はいがみあうのか。
 シキは月夜見について、ほとんど何も知らない。月の運行を観察しているというくらいだ。なぜ季夜見庁には、星夜見寮と月夜見寮のふたつの役所があり、それぞれに夜見の塔があるのだろう。どうして月夜見寮は星夜見寮を敵視しているのだろうか。
「わからないことを、わからないからと目を閉じてはいけないよ」
 ラザール様はいつもおっしゃる。

 まず月夜見のことを知らねばならないと、シキは図書寮に足繁く通い、『月世史伝』という古い史書を見つけた。
 それは書架の奥の奥で埃を積み、まるで隠されるようにあった。鞣し革をせた背表紙はかろうじて形を維持していたが、息をころして扱わねば、たちまち歳月の彼方へと崩れおちる魔法でもかけられていそうだった。
 『月世史伝』はかなり古い書物で、古代レルム文字で記されていた。
 シキには古代レルム文字は読めない。諦めて閉じようとしたとき、風が頁をめくった。木の葉が舞い上がるようにぱらぱらと数頁がめくれ、ぴたりと止まる。挿絵なのか図なのか判然としないものが目にとまった。古代の壁画ほども簡略化されていないが、象徴的な図案のようなものが描かれていた。
 中央に縦長の長方形があり、上部が半円になっている。下部には幾重にも輪が描かれ、その軌道上に小さな円がいくつか点在していた。円は白と黒で塗り分けられていたが、左半分が黒で右半分が白、猫の爪か三日月のようなものもある。魔法陣かと思ったが、しばらく眺めていてシキは、月の満ち欠けを表しているのではないかと考えた。古い月夜見の宿図だろうか。頁を繰ると、他にも地図のようなものがある。文字が読めないことには、挿絵だけで推測するにも限界がある。
「まだ居たのですか。もう閉めますよ」
 当番のものがランプをかざして近づいて来た。
 図書寮は貴重な書物が蔵されているため火を嫌う。ランプや火燭は置かれておらず、日が陰ると閉館される。シキは時の経つのを忘れていた。
 そうだ、星夜見の塔に銀水を届けなければ。今宵もラザール様は塔にお籠りだろう。
 「天は朱の海に漂う」との星夜見がなされて以来、屋敷にお帰りになられない日が続いている。できることならばラザール様に『月世史伝』を解読していただきたいが、これ以上ご負担をかけるわけにはいかない。銀水を届けるついでに『月世史伝』のことをお伝えし、古代レルム文字を読むにはどうすればよいかをお尋ねしよう。
 シキはそっと『月世史伝』を閉じ、慎重に書架に戻すと、塔をめざして小走りに駆けた。あかい月が行く手を照らしていた。

「月の民」(2)

 レルム・ハン国の王宮は六芒星の形をしている。その北の頂点に月夜見寮はある。背後にはノリエンダ山脈が聳え、月夜見寮は王宮の北を守護する重要な砦でもある。一方、星夜見寮は南の頂点にあり、レルム海を一望し、海上からの襲撃を見張る。ふたつの寮は星と月の運行から王国の命運を占うとともに、守りの要でもあった。
 シキは辞書を片手に『月世史伝』の解読に励んだ。ラザール様からは「史伝を持ち出すわけにはいかないだろうから、わからない箇所は書き写しておいで」とおっしゃっていただいた。シキを悩ませたのは、単語の語尾がさまざまなことだ。おそらく語尾の変化形なのだろうと推測をつけても、どんな意味に変化するのかがわからない。辞書も薄く主要な単語しか載っていない。それにどうやら現代のレルム語とは文のつくりが異なるようなのだ。一文がどこで終わっているのかを示す記号も見当たらない。海図のない海に放りこまれたようだった。
 まだわずかしか解読できてはいないが、レルム・ハン国がこの地を治める以前、ここには月を信仰する「月の民」という古い民がいたことはわかった。シキが最初に見た絵は月と交信するための「月の塔」だった。いにしえの忘れられた民である月の民の史書、それが『月世史伝』であった。
 遅々として進まない解読に疲れると、シキは月の塔の図をながめた。そういえば、月夜見の塔も屋上に半球の天蓋をもつ。月の塔と形が似ているとシキは思った。

 その日は、蔵書の点検があるからと昼過ぎに追い出された。図書寮に籠りっきりだったので、昼の陽がまぶしい。『月世史伝』のことで頭がいっぱいだったからか、気づくと見慣れぬ塔の横にいた。ここはどこか、と辺りを見回していると、ふいにバシャリと頭上から水が降ってきた。ひとつに束ねた黒髪がびしょぬれになった。額からぽたぽたと滴がたれる。あわててシキは書写した紙束を前垂れの下にいれ、塔から離れようとした。
 ぎいっと鈍い軋みを立てて扉が開き、衛兵が現れた。
「おまえは星童か」と尋ねるので首肯すると、
「水をかけて申し訳なかった、詫びがしたいと、塔の住人が申している」
「すぐに乾きます。それより、ここはどこですか」
「なんだ、迷ったのか。ここは東の砦にある巽の塔だ。エステ村領主のイヴァン様が幽閉されている。謝りたいそうだ。いいから、ついて来い」
 衛兵はくいっと顎をしゃくり、背を向ける。シキはしかたなく従った。
 なかは小窓がいくつかあるだけで薄暗かった。外は汗ばむくらいの陽気だったが、石造りの塔のうちは冷やりとしていた。明るい戸外から入ったため視界が白くかすむ。ようやく目が慣れると、ラザール様よりは若い壮年の男が立っているのに気づいた。身なりから貴族とみえる。
「エステ村領主のイヴァンだ。水をかけて申し訳なかった。めったに人が通らぬものだから、確認もせず盥たらいの水を捨ててしまった。風邪をひいてはいけない、これでよく拭いなさい。温かい飲み物をいれよう。アチャの実茶は、いかがかな」

「月の民」(3)

 イヴァンと名乗った男性は低いがよくとおる声で微笑みながら布を差しだすと、奥に消えた。シキが渡された布を手に呆然と佇んでいると、すぐに盆をもって戻って来た。壁際に暖炉がある。その前に木製の大きなテーブルがあり、椅子が六脚ならんでいた。男は盆を卓の上に置くと、暖炉に火をくべる。シキは棒立ちのまま、イヴァンのようすを目で追った。
「捕らわれの身だからかせでもはめられていると思われたかな」
 火をおこしながらイヴァンが振り返る。シキが黙っていると、衛兵が太い声を響かせた。
「イヴァン様は罪人ではない」
 シキはイヴァンと衛兵に視線を泳がせる。捕らわれているのに罪人でないとはどういうことか。
「といっても、塔から出ることはできないのだがね。それ以外は自由にさせてもらっている。まあ、掛けなさい」
 シキに暖炉の前の席をすすめる。
「そなた、名は何という?」
「シキです」
「シキは、なぜ私が捕らわれているかわかるか」
「よくは……わかりません」シキは肩をこわばらせる。
「では、天卵を知っているかな」
「『黎明の書』の予言と、二年前に生まれたことくらいなら」
 イヴァンはシキの蒼い瞳を見つめ、ふっと息を吐く。
「二年前に天卵を生んだのは、私の娘だよ」
 石の壁にことばが沁みこむ。暖炉で薪がはぜる音がした。
「二年前に娘のルチルは天卵を抱いたまま、カーボ岬から海に沈んだ。レイブン隊が確認したはずだった。だが、今になって『天は朱の海に漂う』との星夜見があった」
 星童のシキなら当然知っていることだ。
「『天』とは天卵を指し、天卵の子は南の海のどこか孤島で生きているのではないか」
 イヴァンは暖炉の炎に目をやる。
「それが此度の星夜見に対するおおかたの見方だ。それゆえ、私が巽の塔に拘束されている。ルチルと天卵の子をおびきだすために」
 唇の端をひきつらせ自嘲をひっかける。その瞳に苦渋がにじむ。
「ほら、冷めぬうちに飲みなさい」
 うながされるままにシキがカップに手を伸ばす。前垂れの下に抱えていた紙片が一枚床に落ちた。あわてて拾おうと立ち上がると、残りの紙束が石の床に散らばった。
「む? これは古代レルム文字か。ラルムスコンセラシエテイヒ……七の月に嵐が起こり、か」
 一枚を手にとりイヴァンが読みあげた。
「古代レルム文字が読めるのですか」
 膝をついて紙を集めていたシキが驚いて顔をあげる。
「ご祈祷に必要だからね」
「ご祈祷?」
「白の森は知っているかな」
 イヴァンは立ちあがり、椅子に腰かけながら問う。

「月の民」(4)

「西の国境にあって、白銀の大鹿が森の王だということだけですが」
 拾い集めた紙束を卓の上でまとめ、シキも腰かけた。
「白の森の周りには四つの村があって森の恩恵を受けている。わがエステ村はその一つで森の東にある。白の森に人は入ることはできないのだよ」
「どうしてですか」
「森が拒むのだ。入ろうとすると、枝やツルが伸びてきて排除される。代わりに遥拝殿で祈りを捧げ、森の恵みをわけていただく。その祝詞のりとは古代レルム語で書かれていて代々の領主に受け継がれている」
「では、エステ村の人は皆、古代レルム語がわかるのですか」
「村人たちは祝詞を聞くだけだから、古代レルム文字を読むことはできない。呪文のように思っているだろうね。ただし、四村の領主は祝詞に記されている文字の読み方や意味を親から一子相伝で学ぶ。祝詞にある言葉ならわかるよ」
 シキの目が輝く。
「では」と身を乗りだす。
「古代レルム語を教えてください」
「これらは何を書き写したのかな」
 紙の束を指してイヴァンが問う。
「月の民の記録です」
「月の民……か」
「知っているのですか」
「滅びた民と云われているね」
「月の民の史書を図書寮で見つけました。『月世史伝』といいます」
「なんと! 幻の、幻の書はあったのか」
 イヴァンが卓に両手をついて立ちあがる。椅子が激しい音を立てて床に転がった。
「幻の書?」
 終始おだやかに落ち着いていたイヴァンのとつぜんの昂奮にシキは驚き、目をしばたかせる。
「そう云われている」
「ラザール様はそんなことは……。いえ、そもそも『月世史伝』のことを知らないごようすでした」
「ラザール殿とは、星司長の?」
「はい。私は七歳でラザール様に拾っていただきました。それからずっとお世話になっています」
「そうか、シキはラザール殿の養い子か。ラザール殿の学識は、王国随一と誉も高い。そのラザール殿でもご存知なかったのか」
 ふむ、とイヴァンは腕を組む。シキはちらっと衛兵のほうを見やる。話の内容は聞こえているのだろうか。直立不動のまま戸口脇に立っている。
「おそらくだが」と、イヴァンはシキに視線をもどす。
「『月世史伝』という書がいにしえの世に存在したことを知り及んでいるのは、四村の領主だけ……かもしれぬ」
 シキは無言でイヴァンを見つめ返す。その瞳はなぜ、と問うていた。
 ――ああ、この童は聡い。
 衛兵が控えていることをシキは心得ている。
「私は塔から出ることができぬ。写しがあれば、でき得る限り解読の手助けをしよう」
 戸口脇に控える衛兵を振り返る。
「それくらいは、かまわないだろうか」
「上官のユラ大尉に確認をとりますが、問題ないかと思われます」
「ということだ。いつでも遠慮なくおいで」

「月の民」(5)

 以来、シキは午前中に図書寮におもむき、午後からは巽の塔を訪ねるようになった。多忙を極めるラザール様を煩わせることなく『月世史伝』を解読できることが、シキはうれしかった。
 イヴァンもシキとの時間を心待ちにした。幻の書の『月世史伝』が存在したことも僥倖であったが、それを読める幸運に身がふるえた。それだけではない。シキは男児であるはずなのだが、ふとした瞬間にルチルを思い出すのだ。ルチルに古代レルム語を教えているような錯覚にとらわれ、目をこすることもしばしばだった。退屈だった捕らわれの日々が明るくなった心地がしていた。
 イヴァンはパンをうすく切り、サケの燻製と乳蘇チーズをはさんだサンドイッチをこしらえる。衛兵のひとりが「自分が作ります」といったが、「いや、これくらいは私にもできるよ」と笑って断る。さて、きょうはカリヨン茶を用意してシキを待とう。

 イヴァンとシキは額をつき合わせるようにして、『月世史伝』の解読にいそしんだ。紙の劣化が激しく、いくつも虫穴があり、頁がちぎれている箇所もあったが、それでも秘されていた歴史がつまびらかになる昂奮は抑えがたいものがあった。

 ――はるか昔、ノリエンダ山脈の南には海岸線まで東西に広大な森が広がっていた。森は今のレルム・ハン国の全土におよぶほどであったという。月の民の祖であるルイとナイの二神は、月の舟に乗って月から森に降臨した。舟にはありとあらゆる種の毛ものや鳥が、一種につき一つがい乗っていた。ルイとナイは、森の主に、森で暮らす許しを請うた。

「森の主とは?」
 シキが首をかしげる。
「ここに書いてあるね。《森そのものである森の主》と」
「森そのもの? 精霊のような存在でしょうか?」
「さあ、どうだろう。白の森の王が、白銀の大鹿というのは知っているね。森は、白の森の王の意思に呼応すると云われている。だが、私は遥拝殿で祈祷を捧げても、王の御姿を見たことはないから、大鹿が実在するのか、精霊のような存在なのかわからない」
「史伝に書かれている森とは、白の森のことでしょうか」
「いにしえの森と白の森の関係がわからないから、なんとも言えない。あせらずに読み進めてみよう」

 ――ルイとナイの二神は、森の守りとして、北東の開けた場所に月の塔を建てることにした。塔を建てるには人手がいるので、二神は次つぎに子を生なし「月の民」とした。月の民はルイとナイの教えにしたがい、石を高く積んで月の塔を建てた。塔の天頂には月のごとき天蓋をこしらえ、月の通り道を刻んだ。そこに射しこむ月の光で月夜見を行った。

「この図は月の塔の設計図でしょうか」
 シキは最初に見つけた絵図をイヴァンに見せる。
「そうとも考えられる」
「月夜見寮に似ていませんか」
「側塔はないが月夜見寮の中塔と似ているね」
「これ」と、シキは模写した別の図を広げる。
「地図ではないでしょうか」
 図の上部には三角の山のような形が連なっている。下部には魚が描かれ、その上に海岸線のような曲線が引かれていた。山脈と海にはさまれた陸地には、大きくボルヘと記されている。ボルヘとは古代レルム語で「森」を意味する。
「そのようだね」
「おおまかな略図のようですが、これが月の塔だとすると」
 山脈の真下の右よりに三日月が描かれている。シキはそれを指さした。
「月夜見寮のある場所もこのあたりでは?」
 ふむ、とイヴァンが眼鏡をずらして顔を近づける。
「月夜見寮は、月の塔をもとにしているのかもしれないね」
 なかなか興味深い、とイヴァンもうなる。
「私たちレルム人は、月の民の末裔なのでしょうか」
「そうではないみたいだ、ほら、ここ」

 ――東からレルムの民がやってきた。遊牧の民であった彼らは、星を道しるべとし星夜見をならいとしていた。レルム人は、牛馬や羊などとともに小麦をもたらした。

「レルム人が月の民を滅ぼしたのですか」
「いや、話はそう単純ではなかったようだ。流浪の民であったレルム族は、定住する土地を探していた。そうして月の民が暮らす森にたどりついた。まず彼らは東の端の森の木をほんの少し伐採し小麦を植え、牛馬を飼育した。土地を所有する概念をもたなかった月の民は、旅人に宿を貸すように気前よく森の伐採を許した。レルム人の営みをみて、それまで狩猟と採集で暮らしてきた月の民は、農耕と牧畜が安定した食料をもたらすことを知る。その日暮らしではない、暮らし。さぞかし魅力的にみえただろうね。レルム人はもとより月の民も森を伐採しはじめ、森は急速に失われた。森を守ろうとする者と、農地を広げようとする者のあいだで諍いが起こった。それがやがて戦となる」
 イヴァンはカリヨン茶をひと口すすり、シキに確かめる。
「この先は、頁がちぎれていたのだったね」
 どのように頁が破損していたかまで丁寧に再現しているシキの生真面目さに、イヴァンは驚きを隠さない。それはまさに『月世史伝』の複製といってよいできだった。
「続きはここからだ」
 読みはじめようとしたイヴァンは、ぐっと唇を引き結んで頁を凝視する。紙を押さえた手が小刻みに震えていた。どうしたのかと、続きに目を走らせシキも驚愕する。
《天卵の子はよく戦った。かたわらには常に一頭のグリフィンがいた》とあったのだ。
 顔をあげると、イヴァンと目が合った。シキは戸口に立つ衛兵をそっとうかがう。
 衛兵は直立の姿勢を保ってはいたが、大きなあくびをもらしていた。ここ最近の衛兵どもの関心は、ダレン伯が指揮する天卵の捜索艦隊にあった。警備の交代のときによく、「ああ、あ、おれも部隊に加わりたかったよ」と嘆きあっていた。咎人とがびとでもないイヴァンの見張りに覇気を求めるほうが難しい。彼らの関心がイヴァンとシキにないことは、ふたりにとって幸いだった。
「日も陰ってきましたので、今日、解読いただいた箇所を筆記いたします」
 シキがことさら大きな声でいう。
「私も手伝うよ」
 ふたりは卓の上で目配せすると、今日の解読分をまとめているふうをよそおいながら、無言で先を読み進めた。シキはわからない箇所を筆談でイヴァンに尋ねた。小窓から忍び入る西日が床に朱色の裾をのばしていた。

 ――戦いは百日で終結した。天卵の子はレルムの族長と互いに不可侵の約定を交わし、古き民と毛ものたちを従えて西に旅立った。月の塔からグリフィンが飛び立った。彼らが西の果ての森にたどりつくと、海に突き出した半島の先にあった山が嘆きの火の粉をまき散らし、山ごと海に没した。赫い月がのぼり、月の民は失われた民となり、森は閉ざされた。

 『月世史伝』は、ここで終わっていた。

「月の民」(6)

 『月世史伝』を読み終えたふたりは、どちらからともなく吐息をもらす。瞳は昂奮で爛爛としていた。
<彼らが去った後に、レルム・ハン国を建国したのでしょうか?>
 シキが筆談で問うと、イヴァンがうなずき、
<西の果ての森とは、白の森かもしれぬ>と書き足す。
<では、イヴァン様やエステ村の人たちは月の民の末裔ですか?>
 わからぬ、とイヴァンは首をふる。
<四村の民は、月の民の末裔かもしれぬし、あるいは、白の森と月の民を見張る番人であったのかもしれぬ>
 番人……そう考えると、エステ村をはじめとする四村が白の森の四方を囲むようにあることもうなずける気がする。それよりも月夜見寮のことだ。シキはイヴァンに問う。
<月夜見寮と月の民の関係は?>
 わからないと、イヴァンがまた首をふる。
 月夜見寮が月の塔を基にしていることは『月世史伝』から推測できたが、それ以上の記録はない。
 ――月夜見士たちが月の民の秘された末裔であり、代々彼らだけにその秘密が口伝されてきたとすれば、とシキは考える。
 レルム人は星を信仰していたから、星夜見寮が優遇されるのだと恨みに思っているのかもしれない。六百年にわたる積年の恨みと妬み。昔からいがみ合ってきたのだろうか。
 仮に月夜見士が月の民の末裔であったとして……シキは考えを巡らせる。なぜ彼らは天卵の子とともに西の果ての森に行かず、レルム・ハンの王城にとどまったのだろう。レルム・ハン建国の祖、初代ラムル王は月の民が月夜見寮に留まることを許しただろうか。シキは卓に肘をつき思索の海をさまよう。沈思する顔を茜色に西日が染める。
 ランプに火を灯そうと顔をあげたイヴァンは、シキの端正な横顔に息をのむ。ルチルがそこに居る錯覚に目をこする。星童のシキは男児であるはずだ。だが、はじめて会った日からかすかな違和感がある。ふとした瞬間に、娘ルチルの面影が重なるのだ。ウエーブのかかった栗色の髪に鳶色の瞳のルチルとは、まっすぐな黒髪に青い瞳のシキは似ていないはずなのに。

「やあ、すっかり日が陰ってきたね。今日はここまでにしよう」
 瞳の奥に昂奮を宿し、シキが顔をあげる。陰翳に浮かびあがる聖女の絵を思い起こした。闇にまぎれぬ清澄な美しさ。その瞬間、ふいに尋ねてみたい欲望をイヴァンは抑えられなくなった。他人が秘匿していることを暴くなど趣味の良いことではない。だが、わが胸の裡に留めておくならば、そして力になれることがあるのであれば。娘を庇護するような気持ちを抑えられなかった。
 手もとの紙に<シキは女の子なのか?>とペンを走らせる。
 ぴくっとシキの肩がすくんだ。羽ペンの先に視点を合わせたまま塑像のように固まる。
 イヴァンは答えを知った。
 と同時に後悔した。<誰にも言わないから、安心しなさい>と慌てて記し、紙を暖炉に放りこんだ。紙片はたちまち、ちりちりと身をくねらせて炎にのまれた。
 ようやくシキは顔をあげたが、その目は怯えていた。
「日が落ちてしまう前に気をつけて帰りなさい。明日も、また、おいで」
 こくりと、うなずく。だが、もう二度と来ないのではあるまいかという予感がイヴァンの胸を悔悟とともに覆った。

 巽の塔をよろよろと出ると、シキはやみくもに駆けた。イヴァン様に挨拶をしたのか覚えていない。赫き落陽を右頬に受けながら駆けた。行く手に斜めに影が伸びていく。とうとう恐れていたことが起きた。イヴァン様が私の秘密を漏らされることはないだろう。けれども、どんなに武術の鍛錬をしようとも、男のような筋骨にはならない。同い歳の星童ヨサムの声が、ふた月前にとつぜん低くなって驚いた。私の声は細く高いままだ。先日、めざめるとシーツが真っ赤に染まっていた。シキは悲鳴をあげた。駆け付けたラザールに「怖い夢を見ただけです」といい、布団をかぶった。怖い夢。そう、夢ならどんなによかっただろう。とうとう月の障りを迎えたのだ。胸はどんどんふくらんでいく。シキは自分の体が呪わしかった。
 暁の門を出たところで嘔吐えずいた。胃袋が逆流する。吐いても吐いても、不安を吐き出すことはできなかった。
 リンピアの丘から臨む東南の海上を赫い月が波間をゆらゆらとのぼる。西南の海に沈む茜の落陽の裾とまじわり、近づく闇に朱の海が浮かびあがっていた。

 屋敷に帰ると、シキはベッドの下から薬研やげんを取り出した。
 ラザール様の書斎には鍵のついた本棚が一棹ある。
 その鍵が開いていたことがあった。秘密の扉が開いたような昂奮を覚え、棚を物色し『本草外秘典』という薬学書を見つけた。シキが表紙を開けようとしとたん、背後からラザールの手がのびた。
「シキ、その書はいけない。禁断の書だ。それに記されている薬は人に処方することも、己で試すことも厳禁だ。薬はそもそも毒であるこを忘れるんじゃないよ」
 ラザールが厳しい目をして立っていた。『本草外秘典』を棚に戻し鍵を掛けた。
 鍵は書斎の袖机にあることをシキは知っている。月の障りがはじまった日の午後、ラザールが出かけてからシキは書棚の鍵を開けた。はじめてラザール様と会った日、盗みを咎められたことを思い出した。罰は後でいくらでも受けよう、とシキは心に誓った。『本草外秘典』の頁を繰り、目的の薬の調合を写す。薬草のいくつかは山で採集し、耳猿の肝臓などは薬種店で手に入れていた。
 薬研車を挽いて薬草をつぶす音が、ごりごりと月明かりに響く。
 今宵の月は禍々しいほど赫い。シキは唇をぎゅっと結び目を引き攣らせる。自分の心臓をすりつぶしている心地がした。
 できあがった薬を三包に分け、薬包紙でくるむ。一包を口中に含み水で流し込んだ。
 たちまち喉が灼けるように熱くなり、シキは意識を失った。

第15章「流転」

「流転」(1)

 ――さて、いかがしたものか。
 ラザールは跪拝しながら、先刻より事態を思案していた。
 真珠宮の正殿では四半刻ほどにらみ合いが続いている。

 事の発端は、こうだ。
 王妃の望みでラザールはキリト王子の師傅を引き受けることになり、王子とのはじめての謁見に真珠宮まで足を運んだ。後宮に続く回廊を春風が駆け抜け、アーモンドの白い花が散っていた。 
 キリト王子の師傅となることは、もっか王宮を二分している権力闘争のキリト派に入ることを意味する。かねてよりゴーダ・ハン国とセラーノ・ソル国の脅威に挟まれ、不穏な星夜見があった今、国として一丸とならねばならぬというのに、政治の中枢にいる廷臣たちが派閥争いしか頭にないことにラザールは嘆息する。名門とされる貴族ほど自陣営の勢力拡大の画策ばかりで、国の行く末など二の次だ。アラン王太子とラムザ王子の相次ぐ薨去は不測の事態ではあったが、なにゆえ王妃は実子のキリト王子の立太子をためらい、王太子の空位を長引かせているのか。混乱を助長しているようにしかみえない。土蜘蛛のごとく巣から出ずに、背後で糸を引くものがいる。王妃も踊らされているのだろう。一介の星夜見でしかない我にできることなどしれている。
 ラザールはしばし立ち止まり、春霞のたなびくノリエンダ山脈を見あげる。さて、キリト王子の資質はいかがなものだろうか。
 後宮でも正殿までは男臣も入廷できる。真珠宮は王妃の宮といっても、その正殿は小ぶりな広間くらいだ。ただし、真珠宮の名にふさわしく壁にも床にも白く輝く雪花石膏アラバスターが敷き詰められている。正面奥に縦長の窓が三つある。窓から縦に射しこむ陽が白くなめらかな雪花石膏の肌理きめに反射してまぶしい。窓の前に純白の絹の座面をもつマホガニーの玉座があった。
 ほどなくラサ王妃が侍女を従えて現れた。ラザールは跪拝する。王妃が扇をはためかせて艶然と座すと、ぱたぱたと駆ける足音がした。
「母上、何用でしょうか」
 声変わり前の高い声が聞こえ、左奥の扉が開いた。
「ラザール殿、おもてをあげられよ」
 王妃はちらとキリトに投げた視線を戻し、ラザールに声をかける。
「そちがラザールか」
 つかつかとキリトが歩み寄り、ラザールの前で膝をつく。
「王子、もったいのうございます。どうかお立ちください」
「かまわぬ。それより、シキはどこじゃ?」
 キリトはラザールの背後にせわしなく視線を動かす。
「シキは伴っておりません」
「病か? このところ藍宮にも来ぬ」
「ご案じいただき畏れ多いことにございます。シキは息災にございます」
 ぱしっと、扇を閉じる鋭い音が部屋に響いた。
「シキとは誰じゃ」
 王妃が詰問する。
「ラザール星司長の養い子です。藍宮で兄上とともに、シキに星の話を聞かせてもらっています。母上にもお話しましたよ」
「いちいち下々の者の名なぞ、覚えておらぬ」
「なぜですか?」
 キリトが立ち上がって王妃を振り返る。
「名とはその者のこと、覚えるのが礼儀だとソン爺が申しておりました」
 おや、とラザールは王子を見あげる。行いはまだ子どもであるが、王妃をたじろがせることわりを持っている。ふむ、これはみどころがあるやもしれぬ。
 もちろんラザールは、シキがカイル殿下と知り合ったことも、藍宮でキリト王子と出くわしたことも、王子に請われて星の話をしていることも、逐一報告を受けている。偶然にもシキが先に二人の王子と知り合ったことは僥倖であった。シキの曇りなき目を通して、王子たちの人柄と様子を知り得ている。
 様々な理不尽も静かに諦める忍耐があり、思慮深いカイル殿下。かたや、自由奔放で才気煥発なキリト王子。陰と陽。真逆のご気質であるが、お二方とも王たる資質の片鱗が垣間見える。うまく導けばいずれも賢王となられるであろう。だが、導くべき周囲の大人たちが、くだらぬ権力闘争を仕掛け、二つの希望の芽を摘み取ろうとしている。ご兄弟に争う意思などないものを。なんと愚かなことか。純粋な魂を汚泥にまみれさせねばならないのか。はつらつと瞳を輝かせている王子を見あげる。
「シキのことで参ったのではないのか?」
 キリトがまたラザールに視線を落とす。王妃とラザールのあいだに横向きに構え、キリトは半身を交互に話し手に向ける。
「ラザール殿はそなたの師傅を引き受けるために参ったのじゃ。賢者として名高いラザール殿について、しかと学ばれよ」
 王妃が告げると、キリトはいっそう瞳を輝かせる。
「兄上も、カイル兄上もごいっしょですか?」
「なにを馬鹿なことを申す。そなただけに決まっておる。よき王になるには、広く世の中のことを学びやれ」
「それは不公平にございます」
 キリトが頬をふくらませる。
「不公平とな?」
「なぜ吾だけが学ばねばならぬのですか」
「王になるために、決まっておろう」
「長幼の順では、次はカイル兄上です」
「カイル殿はサユラ妃の御子である、れたことを」
 呆れ顔で扇を閉じ、王妃は椅子の背にしなだれる。
「王妃の子でなければ、王位は継げぬのですか。ならば、なぜサユラ妃やアカナ妃がいらっしゃるのですか」
 ゆるりと体を起して王妃はキリトを睨む。
「吾ひとり勉強するなど、嫌でございます。王太子の位をめぐって吾と兄上を競わせるおつもりであれば、公平でなければなりません。どちらが優れているかは同じ師についてこそ明らかになります」
 王妃は口を噤んだままだ。理路整然と不平を述べているのが吾子でなければ、「無礼な」のひと言であしらい、即刻、退室を命じていたであろう。幼き反逆者の胆力を頼もしいと、ラザールは目を細める。母后に唯々諾々と従い傀儡でいることに甘んじた父ウル王とはご気質が異なる。
「兄上といっしょでなければ、師傅など要りません」
「我儘もたいがいにしやれ。母の命が聞けぬのであれば、藍宮に通うこともまかりならん」
 とうとう王妃が堪忍袋の緒を切らす。
「母上、それは卑怯というものです」
「卑怯と申すか」
 がたり、と王妃が椅子の両袖に手をついて立ち上がる。声も手もわなないていた。
 しかるにキリトは、母の挙措を意に介することなく涼しい声で続ける。
「武術の鍛錬と勉学を怠らなければ、月に二度、護衛を伴って藍宮に通うことを許すと母上はおっしゃいました。吾はその言いつけをたがえておりません。藍宮に通うことと、ラザール殿を師傅とすることは別問題にございます。約束は約束です。お守りください」
「いいかげんにせぬか」
 王妃の悲鳴が正殿の空気を震撼させる。

「流転」(2)

 ここまでか、とラザールは顔をあげる。王子はとにかく、王妃が感情を激させている。臆することなく、一歩も退かぬ交渉術。粗削りではあるが、なかなかのものだ。磨けば光る玉となるだろう。
「お鎮まりくだされ」
 低く鋭い声が床を這う。不穏な空気が、一瞬にして鎮まる。けっして大きな声ではなかったが、平素は森のごとく穏やかなラザールの一喝に王妃はその無礼を詰なじるのも忘れ、碩学の賢者を凝視する。キリトもラザールに相対して屹立する。
「王妃様は、キリト様をまことに健やかにお育てになられましたなあ」
 二人の視線を受け止め、ラザールは激した空気をなだめるように話す。
「キリト様ぐらいのお歳頃の子は巣立ちを前に不安と本能から、親の慈愛の比翼にむやみに抗います。王子がことごとく王妃様の命に抗われるのは、大きく羽ばたこうともがいておられる故であろうと臣はお見受けいたします。臣からことをわけてご説諭いたしますゆえ、王子と臣と二人だけにしていただけませぬか。なお、ゆめゆめキリト様の御心を踏みにじるような軽挙をなさりませむよう。それこそ親子の絆に取り返しがつかなくなりますこと、ご賢察のほど伏してお願い申しあげます」
 語り終えると深く頭を垂れた。
「相わかった。キリトの室を使うがよい。頼みましたぞ」
 王妃は扇をひと振りして立ち上がり退室した。

 キリトの居室は中庭をめぐる左の回廊を折れた最奥にあった。そこに至るまでに二室あり、立太子前のアラン王子とラムザ王子の室だったのだろう。閉まってはいるが錠前は掛けられていない。おそらく内は生前のままであろう。主を失った部屋は静かだ。ちらりとキリト王子が開かずの扉に目をやる。その背からは先ほどの覇気は消え淋しさが滲んでいた。

「なにゆえ、兄上ではなく吾を選んだのじゃ」
 部屋に入るなりキリトはくるりと向き直ってラザールに尋ねる。
「お待ちあれ」といったんキリトを制し、ラザールは廊下を窺ってから扉を閉める。扉前には警護の衛兵が立っていた。
 キリトの侍従が二名、部屋の隅に控えている。王族は常に多くの視線に晒されている。それらを横目で確認し、ラザールはキリトにおだやかな笑みを向ける。
「僭越ながら、殿下は堅苦しいのがお嫌いとお見受けいたします。今日は気持ちのよい晴天にございます。庭の四阿でお話いたしましょう。いかがですかな」
「おお、それはよい」
 キリトが顔を明るくする。駆け出す勢いで、両開きの掃き出し窓を押し開ける。庭園には獅子の口から水のこぼれる石造りの小さな池があり、四阿は池に架けられた橋の中ほどを広くとってしつらえられていた。庭は兄弟の三室に面している。数年前まではこの庭に三王子の笑い声が響き、水遊びに興じたことであろう。
「こっちじゃ、早う」と王子はラザールの手を引く。王妃との理詰めの態度とはうってかわって、まるで子どものはしゃぎようだ。その天真爛漫さがまぶしい。叶うのであれば、ゆっくりとお育て申し上げたかったが、事態は逼迫している。急いで大人になってもらわねばならぬ。
「アラン兄上たちとここで遊んだ」
 足もとの小石を拾い池に投げ入れて、キリトはラザールを振り返る。水紋が広がる。
「ラザール、そちは、吾のどこがカイル兄上より優れていると思うて、吾を選んだのじゃ。そちと会うは、今日が初めてのはず。どこぞで吾のことを見ておったのか。それともシキから聞いたか。吾は兄上ほども学問はできぬぞ。吾のどこに見所があった」
 真剣なまなざしでたたみかける。ごまかしを許さない目だ。
 うわべだけの言葉で褒めるのはたやすい。だが、そのような無責任な甘言ほど人を空疎にするものはない。自身を取り巻く世界の実態を知り、どう立ち向かうべきかを考えてもらわねばならぬ。魑魅魍魎のほうが権力の亡者たちよりもよほどまともだということも。清濁併せ呑む心の剛さを持ってもらわねばならぬ。
 ラザールは柔和な表情を消す。
「王子のお人柄も資質も関係ございません。そのようなことは慮外にございます」
「吾の見所は関係ないと申すか」
「残念ながら。むろんカイル殿下の資質も関係ございません」
「では、なぜ吾なのじゃ」
 キリトには納得のゆかぬことは許さぬ気構えがある。
「それを開陳いたす前に、王子にお尋ねしたき儀がございます」
 よろしいですか、とキリトに請う。
「かまわぬ、なんなりと問え」
 ラザールは四阿の欄干に立ち、立木の茂みと空をなめるように見回す。さすがに真珠宮の庭にはレイブンカラスの姿はないようだ。侍従たちは橋のたもとで控えている。侍女も茶の用意だけして下がった。四阿にはキリトとラザールの二人だけだ。それを確認すると、改めて王子の前に跪拝した。
「王子の偽りなき御心をお尋ね申し上げたい。カイル殿下のことはどのようにお考えでござりまするか。カイル殿下を排して王太子になりたいとお望みでしょうか。この老臣に王子の本心をお教えくださりませ」
 なんだそんなことか、とキリトは晴れやかに笑う。
「吾は兄上をお慕いしておる。すばらしいお方じゃ。シキから聞いておらぬか。兄上にこそ王位を継いでいただきたい。ここだけの話じゃが」と声をひそませ、上体をかがめラザールの耳もとに口を寄せる。
「アラン兄上より、カイル兄上のほうが優れておられる、と吾は思う」
 にたり、と口角をあげ頬を紅潮させる。
「それを伺い、臣の覚悟も定まりました」
「ならば、父上にカイル兄上の立太子を薦めてくれるか」
 ラザールは首を振る。
「いいえ、臣は王子をお育てする覚悟が定まりましてございます」
「なぜじゃ、なぜそうなる」
 キリトが解せぬという顔をする。
「長い話になります。老体には堪えますゆえ、失礼ながら、座してもよろしいでしょうか」
「もちろんじゃ。遠慮せず掛けよ」

「流転」(3)

 中央に三本の猫脚がついた小さな青銅の円卓をはさんでラザールとキリトが相対する。
 対岸では獅子の像がたえず水をはきだし、水煙をあげていた。声変わりもまだな少年に容赦なき現実を突きつけねばならない。ラザールは喉の奥で唾を呑む。
「王宮を二分している派閥争いが、王太子の空位に由来することはご存知でございますか」
「だから、早う、カイル兄上を王太子とすればよいのじゃ」
 簡単なことじゃないか、とキリトは逸る。
「王子とカイル殿下には、決定的な違いがございます」
「母上が王妃か、妃嬪かであろう」
「それは些末なことにございます」
「では、何だ?」
「王子がトルティタン皇家の血を引いておられることに尽きます。またそれが、派閥争いの火種でもあります」
「吾が愚かであっても、トルティタンの血筋であればよいということか」
「いかにも」
 ばん! 
 円卓を力まかせに叩いてキリトが立ち上がる。池の魚が跳ねる。
「ならば、そちについて学んでもしかたあるまい。勉強などしとうないわ」
 キリトは怒りを吐き捨てる。睨みつける瞳には、まだ王の威厳はない。駄々をこねる子と同じだ。
「カイル殿下をお救いするには……」
 ラザールはキリトを見据え、「必要でございます」と続けた。単調の低音で諭す。人を御すのは感情の昂ぶりではない。火を消すのは水である。
「兄上を……お救いする? 吾が?」
 燃えあがりかけた焔は、たちまち勢いを失う。戸惑いがその熟しきらない面にあがる。感情を揺らしたままキリトは椅子に身を落とした。
「カイル殿下は、早晩、窮地に陥られるでしょう。その折にお救いできるのは、キリト様しかおられませぬ」
 ラザールはキリトを見つめ静かに告げる。
「兄上の身が危うくなると申すか」
 キリトの声が尖る。
「おそらくは」
「なぜじゃ。カイル派の者どもは助けにならぬのか」
「残念ながら。彼らの関心事は、一族の隆盛と権力の美酒でございます。カイル殿下のお命が危うくなれば、掌を返し保身に走るでしょう」
「なんと卑怯な。それでも臣か」
 キリトの声がさらに鋭くなる。
「国に王は必要ですが、国を治めるのは王ではございません」
「どういうことだ」
 ラザールは威儀を正す。
「王族であられる王子には腹に据えかねるでしょうが、権力とは如何なるものか、その真実を正しく理解していただかねばなりません。それが御身を守り、ひいてはカイル殿下をお救いする手立ても見えてまいります。老臣の妄言に耳を傾けていただけますかな」
 うむ、とキリトはうなずく。
「聞こう。耳の痛いことほど聞かねばならぬと、カイル兄上も仰っておられた」
 ラザールはわずかに表情をゆるめる。
「王子はシキの申していたとおりのご気質であられますな」
「シキは、何と?」
「気持ちがまっすぐで聡いお方と」
「シキがそう申しておったか」
 キリトの瞳がたちまち輝く。自由奔放なまま放置されたゆえのまっすぐなご気質。それは人を魅了もするが、甘言に弄される危うさもある。教育を急がねばなるまい。

「流転」(4)

 ぴぃいいい。雲雀がひと鳴きして空にあがる。
 ラザールはそれを一瞥して威儀を正した。この心根のまっすぐな王子に権力の汚辱を開陳せねばならない。
「王の下に廷臣がおり、王が統べているようにみえます。ですが、それは幻影でございます。王は廷臣の上にまつりあげられた飾りにすぎませぬ」
「飾り……だと」キリトの語尾が跳ねあがる。
「左様。王宮の望楼にはためく双頭の鷲の国旗、あれと同じにございます。政治を行い、国を動かすは臣下でございます。王は国の象徴としてあればよい。極論を申し上げれば、玉座に座ってさえいればよいのです。王が無能であるほど、権力に群がる者どもにとっては都合がよい。これが権力の真でございます」
 王とは尊きものと教え込まれてきた王子が、初めて耳にする酷い現実。キリトは唇を引き結び、ラザールを睨む。
木偶でくであれというか」
「権力をほしいままにしたき者にとっては」
 キリトの眉根がつり上がる。
「初代ラムル王の伝説はどうなるのじゃ。英雄であらせられたラムル王が蛮族を倒しレルム・ハンを建国されたというではないか。お祖父様のカムラ王も勇猛果敢であったと、ソン爺が言っておったぞ」
 キリトはひっしで反論を試みる。納得のいかぬことには一歩も退かない気構えがこの王子にはある。
「ラムル王の事蹟は、六百年以上も昔のであるため真実はわかりませぬ」
「英傑王といわれておるではないか」
「歴史や伝説は、時の権力の都合の良きように創られるものでございます。ラムル王がいかに勇猛であられたとしても、お一人で建国できたでしょうか。一騎当千であったとしても、戦では鬼神のごときと讃えられようとも」
「兵を率い軍を指揮され、レルム・ハン国を建てられたのではないのか」
「むろん優れた族長ではあられたでしょう。ただし、王お一人の力に頼る国は脆い。王がたおれてしまえば、国は瓦解いたします」
 キリトは眉間に力を込めラザールから視線を外さない。
「カムラ王がお斃れになられたときが、まさにそうでございました。我が国は存亡の危機に瀕しました。現在の愚かな派閥争いの遠因も、かの折に端を発しております」
「どういうことだ」
「カムラ王がトルティタンとの戦場においてご薨去なされたことはご存知でしょう」
「むろんじゃ」
「あの戦はカムラ王が仕掛けられ、王自らが陣頭指揮を執られておりました。王がお一人で率いておられたのです」
 ほら見ろ、といわんばかりにキリトが勝ち誇った笑みを浮かべる。
 ラザールはひとつ咳ばらいをして続ける。
「それ故に、王がお斃れになられると軍はたちまち統率を失いました。王の死を秘匿して早々にトルティタンと『イルミネ講和条約』を締結し窮地を脱しましたが、それも王のご遺命であったと聞こえております。条約調印のテーブルに着いたのが王の影武者と露見すれば、我が国はトルティタンの属国になっていたやもしれませぬ。まことに危なき橋でございました」
「カムラ王の勇猛さが、国を存亡の危機に陥らせたというのか」
「いかにも。ラサ王妃様は同盟の証として我が国にお輿入なされましたが、ありていに申し上げれば人質でございました。ご婚儀の翌日にカムラ王の死が公表されウル王が即位されると、トルティタンのムフル皇帝が地団太を踏んだと伝え聞いております」
「だから……次の王はトルティタンの血筋を引くものでなければならぬのか」
「ご明察のとおりでございます。ゴーダ・ハン国とセラーノ・ソル国の脅威がある今、トルティタンとの盟約を反故はできませぬ」
 キリトは爪を噛む。
「吾は……レルム・ハンの王族でありながら、生まれながらの人質でもあり、同盟の象徴でもあるということか」
 ラザールは驚いて目をみひらく。なんと聡い王子であろうか。
「ご慧眼にございます」
「アラン兄上もラムザ兄上も身罷られた。吾しかおらぬ」
「左様。そもそも次の王太子はキリト様、一択でございました」
「では、なにゆえ派閥争いが起きたのじゃ。カイル兄上は、臣籍降下して諸国を放浪したいと仰っていた。兄上は王太子の位など望んでおられぬ」
「王子様方のご意思は関係ないと申し上げました」
「そうであったな」
 キリトは細い肩を落とす。そこにラザールは追い打ちをかける。
「やがて、ラサ様が王妃であられることを問題視する声があがりました」
「なぜじゃ。同盟のために母上は犠牲になられたのであろう」
「王統の純血が保てない、と主張する勢力が現れたのでございます」
 はっ?と、キリトがまじまじと目を剥く。
 ぴぃいいい。池畔の茂みからまた雲雀が蒼天を衝く。
「それで……カイル兄上の母上サユラ様が後宮に入られたのか。血とはそれほど大事か」
「象徴としての王にとっては」
 池を渡る風はぬるく淀んでいる。
「王統の純血を主張した勢力も、おそらく本音では純血に拘泥しておったわけではございません」
「どういうことだ。そちの話は混沌としてわからぬ」

「流転」(5)

「カムラ王が戦地にてお斃れになった折、王の遺志を実行し条約締結を成し遂げ、戦の処理にあたられたのがウロボス元帥です。これによって、一介の陸軍大将でしかなかったウロボス元帥が絶大な権力を手にされました。幼かったウル王は、飾りの王でしかございませんでした。実権を握られたのは、表向きは母后であられる王太后様でしたが、裏で権力を手にし国を動かしたのは、ウロボス元帥と王太后様の兄上のカール・ルグリス侯爵といわれております。これを苦々しく思っていたのが、サユラ妃のご実家であるギンズバーグ侯爵家をはじめとする名門貴族でした。ウロボス元帥とルグリス侯爵家の力を少しでも削ぎたかった。浅ましき権力の駆け引きでございます」
「純血かどうかは、政争の具にされただけか」
「いかにも」
「それが、今の派閥闘争につながっていると申すか」
「左様。なれど、不審な点がございます」
「まだあるのか、何だ?」
 キリトはいい加減、呆れていた。
 権力とは何だ。それほど魅力的なものなのか。実体のない、得体のしれない怪物に、吾もカイル兄上もまつり上げられ翻弄されるのか。持って行き場のない怒りが焔となって、躰の深部を灼くような心地がした。獅子のように吠えたい。
「トルティタンは、ウル王即位の折に煮え湯を呑まされております。故に、カイル殿下が立太子なされば、トルティタンが黙っていないは明白。同盟の解消だけで済めばよろしいが、ゴーダ・ハン国と手を結び我が国に攻め入ってくることも十分に考えられます」
 ぴぃいいい。また雲雀が晴天を衝く。
「にも関わらず、王太子の空位がいたずらに二年も続いております。そこに胡乱うろんな作為を感じるのでございます」
「どういうことだ」
「本来であれば、遅くともラムザ王子がご逝去の三月みつき後にはキリト様の立太子が公表されて然るべきでありました。なれど、王妃様が渋られたと承っております」
「ああ、母上が申しておった。アラン兄上もラムザ兄上も暗殺されたに違いない、立太子は不吉だと。兄上たちは真に謀殺されたのか」
「それは臣にはわかりかねます。ただし、王子様方を立て続けに亡くされた王妃様のお嘆きの深さは、尋常ならざるものでございましたでしょう。そこに付け込んだ輩がおったのではないでしょうか」
「付け込む?」
「アラン殿下とラムザ殿下の急逝は不可解であり、王統の純血を主張する一党の謀略によるのではないかと、王妃様に耳打ちされた者がいたのではないでしょうか。キリト様を無事に王にするには、反対勢力を炙り出し一掃すべきであると」
「そのための、引き延ばしか?」
「恐らくは。そのように考えると、この無意味な空位に合点がゆくのです」
「母上に吹き込んだは、ウロボス元帥かルグリス侯爵か」
「ウロボス元帥もカール・ルグリス侯爵もすでに隠居されておられます故、裏で操っている者を特定するのは困難でございましょう。ギンズバーグ侯爵家が踊らされたのでございます」
「踊らされた?」
「嵌められた、とも言えます。カイル派に組する貴族が明らかになった時点で、キリト様の立太子が公表され、ギンズバーグ家を筆頭に多くの貴族が失脚させられるでしょう。恐らくギンズバーグ侯爵父子とカイル殿下は謀反の罪を被せられて極刑に処せられます」
「なぜじゃ、なぜそうなる」
 キリトは椅子を蹴倒して立ち上がる。
 石造りの橋を打つ金属音に、橋のたもとで控えていた侍従が駆け寄ろうとする。
「大事ない。椅子を倒しただけじゃ」と片手で制し、キリトは椅子を起して座り直す。
「事態を収束させるには、見せしめとして誰かが罪を被らねばなりません」
「母上に吾がお願いしよう」
「事態は引き戻せないところまで進行しております。軽率に王妃様に嘆願いたしますと、かえってカイル様を窮地に陥らせるやもしれませぬ」
 キリトは半ば開きかけた口を噤んで唇を噛む。眉間が引き攣っている。
 淀んでいた空気がぴんと張り詰める。
「兄上の窮地を黙って見過ごせと申すか」
「臣は」と言ってラザールは立ち上がり、キリトの足下に跪拝する。
「キリト様とカイル殿下とお二方ともにお救い申し上げたいのでございます。それ故、キリト様の師傅を承りました」
 ひざまずくラザールをキリトは無言で睨む。
「そちの本心か。それとも駆け引きか」
 ラザールの瞳をきりりと凝視する。
「本心にございます」
「相わかった」
 それだけを告げると、キリトは振り返ることなく四阿を後にした。理不尽に抗う未だ消化しきれない感情が少年の肩を強ばらせていた。
 ラザールは跪拝したまま、踵で石橋を蹴るように歩む足音を聴いていた。

「流転」(6)

 キリト王子との謁見を終え、ラザールが正式に師傅を拝命してからひと月半ほどが経っていた。ダレン伯を指揮官とする捜索隊がリンピアの港を華々しく出航して三週間あまり。その余韻が冷めやらぬ中のできごとだった。
 十日前の昼過ぎにゆるい地鳴りがした。市場の果物屋のりんごの山から、一つ二つがころころと転がる程度の揺れだったが、星夜見の塔から海上を見張っていた物見は、はるか南の海上で火のつぶてが天に向かって吐き出されるのを目撃した。その直後に雷鳴が轟き、海も陸も突如嵐にのまれた。かの物見によると、火の礫があがる直前に巨鳥がノリエンダ山脈の方角に飛んでいったという。これも何かの予兆ではないかと色めきたつ者もいたが、南海に無数に点在する小島の一つで火山が噴火し天を揺るがしたにすぎぬというのが、おおかたの見方だった。
 ところが、嵐がおさまった翌朝、念のためにと派遣されたレイブン隊が驚愕の報せをもたらした。天卵の捜索艦隊が壊滅したのではないか、というのだ。島は噴煙をあげているため近づくことが不可能だったが、双頭の鷲の国旗や艦隊の残骸とおぼしき木っ端が海上を埋め尽くしていたという。それだけでも十分に王宮を震撼させるできごとだったが、その三日後に丸太につかまり漂流していた艦隊の一員を漁船が保護した。救助された兵士によると、島の山には魔物が住み、恐ろしげなときの声をあげ、その直後に山が噴火し旗艦が吹き飛んだと語ったのだ。
 「天は朱の海に漂う」との星夜見が当たったのだ。天卵による凶兆のはじまりだと、王宮は蜂の巣をつついたような混乱に陥った。さらに島の噴火はセラーノ・ソル国もすでに確認済で、この機に乗じて同国の艦隊が押し寄せるのではないかとの憶測まで流れた。王都リンピアの市街では、家財を荷車にまとめて逃げ出す者が続出するしまつだった。

 ラザールは王都の混乱を好機と捉えた。計画を立ててからまだひと月あまり。いま少し準備に時間をかけたかったが、何事にも機というものがある。実行に移す決断をした。

 コツン、コツン。
 書斎の暖炉からかすかに響く硬質な音をとらえると、ラザールの頬がわずかに緩んだ。隣で膝をつき祈るように固唾をのんでいたシキの頬もうっすらと紅潮する。
 あらかじめ灰を取り除いておいた炉床のレンガを、ラザールは金梃かなてこで一つ二つとはずしていく。シキも無言で手伝う。観音開きの鉄蓋がしだいに形をあらわにする。レンガをすべて取り除き、鉄の蓋を左右に開いた。
「お待たせしやした」
 ぬっと毛むくじゃらの黒い物体が飛び出した。前につきでるようにとがった鼻だけが白い。トビモグラだ。暖炉の穴からは続いてカイルが、カイルの後方を守るようにしてナユタが姿を現した。
「殿下、ご無事で何よりにございます」
 暖炉から這いずり出たカイルは、膝の泥を払う。
 その御前にラザールが額づく。シキも無言でひれ伏す。
「此度は世話をかけた。心より礼を申す」
「もったいなきお言葉です。ですが、まだ安堵はできません。まずはこれにお着がえください」
 町人ふうの粗末な衣服を手渡す。
「ラザールのだんな、あっしはトンネルの残りの仕上げをしてきやす」
 トビモグラはそう言い残すと、くるりと穴に消えた。
「ありがとう、アトソン。よろしく頼む」
 トビモグラのアトソンは、巽の塔に幽閉されているイヴァン殿から融通していただいた。
 カイル殿下をお救いする覚悟を定めてから、ラザールは日夜、方策を練った。王宮にいる限り殿下のお命が風前の灯であるのは明らかだった。派閥争いはすでに後戻りできないところまで進展している。キリト王子にも申し上げたが、行きつく先はカイル殿下の磔刑たっけいであろう。その前に殿下を城から救出せねばならない。王宮の者に気づかれずに城外へお逃がしするには、いかにすればよいか。厳しいレイブン隊の監視網をいかにしてかい潜るか。王妃をはじめとするキリト派の動向をキリト王子に探っていただいてはいたが妙案は浮かばない。考えあぐねていたときだった。
 シキが『月世史伝』解読のあいまにイヴァン殿から聞いた話をしだした。
「天卵を生んで、王宮から狙われていたルチル様はトビモグラの地下トンネルを使って白の森へお逃げになったそうです」
 これだ、と膝を打った。地下からなら人目にふれることなく王宮を脱出することができる。まずは協力してくれるトビモグラを探そうと思った矢先、
「これは秘密ですが」とシキが声を潜める。
「その英雄のトビモグラのアトソンが、イヴァン様の荷物にまぎれて付いて来たそうです。巽の塔の地下に穴を掘って暮らしているとおっしゃっていました」
 ラザールの瞳に光が宿る。
「シキ、明日も巽の塔にまいるのか? では、イヴァン殿に……」
 ラザールは計画の一端をシキに話し、イヴァン宛に書状をしたためた。
 ――藍宮からラザール邸まで、貴殿が帯同したトビモグラに地下道を掘ってもらえないか、と。

 それがひと月半ほど前のことであった。地下トンネルは嵐の鎮まった翌日に完成した。
 同時に、キリト王子からカイル殿下に計画のあらましをお伝えいただき、いつでも出奔できる心づもりでいていただくようお願い申し上げていた。

「流転」(7)

 上等の絹の長衣を脱いで質素な短衣の腰ひもを結び終えると、カイルは傍らに端座しているシキに目をやる。
「シキ、久しいな」
 一月は新年の行事続きでカイルが忙しかった。三月に王宮を震撼させた星夜見があり、星夜見寮が慌ただしくなった。その後シキは『月世史伝』の解読に勤しんでいたため、藍宮へ足が遠のいていたのだ。
「息災であったか」
 シキは無言でうなずく。
「その不遜な態度はなんじゃ。殿下が尋ねられておる。はきと答えよ」
 ナユタがカイルの背後から鋭い声で注意する。
 シキはびくっと肩を震わせ、瞳をあげた。
「じ…づ…れい…いだじ…まじ…だ」
 ヒキガエルがつぶれたような、とぎれとぎれのダミ声が書斎の空気を擦こすった。
「声を失うたは、まことであったか」
 カイルが目を剥き、シキの前に膝をつく。返事すらまともにできず、シキは唇を噛む。
「何があった?」
 カイルはうなだれるシキの両腕に手を添え、ラザールに目を向ける。
「臣が愚かでございました」
 いかなるときも表情の変わらぬ老臣の顔が苦渋にゆがんでいる。
「あまりときはございませんが、殿下には知っておいていただきとうございます。よって臣よりご説明申し上げます」
 ラザールが居ずまいをただす。
「シキは女子おなごでございます」
「そうではなかろうかと案じておった」
 シキがはっと顔をあげる。
「いづ…がら?」細い目を見開き、瞳を震わせる。
「初めて図書寮で出会った日を覚えているか」
 二年前のことだ。
「ナユタに打ち据えられて鼻血を流しておったそなたを、吾は抱きかかえて宮に連れ戻った。お転婆なカヤを抱くことが多かったからな。抱きあげた感触がカヤを思い起こさせた」
 カイルがシキに微笑みかける。
「シキを男児と偽ったは、星童にするためか」
 カイルはラザールに問いただす。
「左様でございます」
「星を観る才があったからか」
「それは後のちに判明したことでございます」
 ラザールは瞼を伏す。
「私は遠い昔、息子を星夜見の夜に亡くしました。その恐怖は今も胸に巣食っております。故に幼いシキを夜に一人にするわけにはいかないと案じました。私が傍らにいたとて息子を助けることができたとは思っておりません。なれど、私自身が恐れたのです。幼子を宵闇に一人にすることを」
「それで、男児と偽って」
「左様でございます。ほんの数年のつもりでございました。星童の時期を終えれば、娘に戻せばよいと。ですが、シキには星夜見の才がございました。私はその才が惜しうなりました」
「女子にも門戸を開けぬものかと画策いたしましたが、星夜見は国の吉凶に関わるだけに、忌み事に対する抵抗は思いのほか高うございました」
 ラザールは嘆息する。
「そうこうするうちに、例の星夜見があり、ますます禁忌に触れるのが難しくなりました」
 そうであろうな、とカイルも同調する。
「巽の塔に幽閉されているイヴァン殿も、殿下同様、シキが女であることに先日気づかれました」
「思いつめたシキは」と言いながら、ラザールは立ち上がる。机の抽斗から鍵を取り出すと、書斎の奥にある扉付の書庫を開け、角の擦り切れた古い本を一冊カイルに差し出した。
「『本草外秘典』でございます」
「禁断の奇書。そなたが持っておったのか」
「曾祖父が二代前の国王ソアラ様より託されたと聞いております」
「薬事寮が保管しているのかと思っておった」
「薬事寮では興味を持つ者が出来しゅったいする可能性があります。この一冊を残しすべて焼いたそうでございます」
「なにゆえ一冊だけ残した?」
「有事の保険……でしょうか」
「保険?」
「市中に出回っているものをすべて焼いても、書写して秘匿している者がいる可能性を排除できません。人は禁ずるほどに執着するものでございます。この奇書にある薬が悪用された場合、処方がわかれば対策もできようと、一冊だけ残されたのでございます。それがよもやこのような事態を招くとは」
 ラザールが中ほどの頁を開く。
「低声奇矯薬?」カイルが読み上げる。
「声を低くする薬でございます」
 カイルはシキの顔をまじまじと見る。シキは顔を背ける。
「シキは男として生きるために、禁忌の薬を調合いたしました。臣の浅はかさがシキの声を奪ってしまったのです」
 シキはそうではないと言いたいのだろう、激しく首を振る。
「殿下にお願いしたき儀がございます」
 ラザールはカイルの前に額ぬかづく。
「シキを連れて行っていただけないでしょうか」
「それはかまわぬが、どんな危険があるかわからぬぞ」
「シキは武術もひととおり修めております。また、農夫の娘であるので野営でも知恵が働きましょう。市場にもよく出かけ、町のことも心得ております。むろん星も読めるので道案内もできます。必ずや旅のお役に立てると存じます」
 ラザールは頭をあげカイルに視線を合わせる。
「シキを娘に戻してやりとうございます」
 なにとぞ、とラザールは面を伏せ声を細くする。
 カイルが背後のナユタを振り返る。
「民の暮らしぶりがわかっているシキの存在は大きいと存じます」
 ナユタの言に、シキが頬を紅潮させる。
「では」とラザールも床から顔をあげる。
「うむ。シキ、よろしく頼む」
 カイルの承諾を得るなりラザールはシキに向き直る。
「シキ、急いでこれに着替えなさい」
 町娘ふうのふわりとした膝たけのドレスをシキに手渡すと、シキは衝立の後ろに消えた。

「流転」(8)

 シキが席を立つと、ラザールはカイルに向き合った。
「さて、旅の設定でございますが。ナユタ殿とシキとを結婚したての商人夫婦。カイル殿下は、誠にご無礼ではございますが、若夫婦の従者ではいかがでしょうか。買い物などは主人がし、従者は荷物持ちになるので人目につきにくいかと存じます」
「それでかまわぬ。ナユタも異論はないな」
「御意にございます」
「早速ですが、言葉遣いにはくれぐれもお気をつけください。ナユタ殿は、殿下の主人になられるのです。畏まった言い回しはなされませぬように」
「心得申した」とナユタは首の後ろを掻きながら苦く笑う。
「また、これは戯言ざれごととしてお聞きくださりませ。グリフィンの爪は万病に効くとの言い伝えがございます。万に一つではございますが、シキの声を取り戻せるやもしれませぬ」
「グリフィンか……。神獣であるゆえ、めったと出現せぬという。遭遇は期待できぬぞ」
「心の片隅にでもお留めおきくださればけっこうでございます」
 娘を心配する老親の顔で目を伏せた。
「だんな、準備がととのいやしたぜ」
 暖炉の穴からトビモグラがひょこっと顔をのぞかせる。鼻が泥まみれだ。
「ご苦労だったね、アトソン。では、納屋まで三人を案内してくれるかな」
「承知いたしやした」
 アトソンが穴に首を引っ込める。
「納屋に荷馬車を用意してございます。アトソンが納屋まで地下トンネルを繋げてくれました。馬車は庭師のトムが御します。トムは毎週水曜日に馬車で市場に買い物に出かけますので、レイブンカラスに目撃されても不審がられないでしょう。荷台には雨除けの布をかけてございますので、その下に潜んでください。市場につくとトムが荷ほどきのふりをいたしますので、その隙に馬車からお降りください。市場の人混みにまぎれれば、王都からも怪しまれずに出都できましょう」
「これが通行手形でございます」
 三人分の木札と路銀を手渡す。
「路銀は用意しておる」
「多くとも困るものではございません。ただし、三人それぞれ分けてお持ちください。また、過分な支払いはなさりませんように。金を持っていると露見いたしますと賊に狙われます」
「心得た」
「苦難の尽きぬ旅になりましょう」
「籠の鳥で居るよりよほど良い。吾が望んだことだ」
「こちらはサユラ様とカヤ姫様からの文でございます」
 ラザールが懐から文を手渡す。
「母上とカヤからとは。いかにして」
「キリト様が翡翠宮にお忍びでまいられ、お二方よりお預かりして来られました」
 ふっとラザールが片笑む。
「カヤ様はキリト様に、早くあなたが即位してお兄様を救ってちょうだい、妾はあなたの駒としてゴーダ・ハン国でもどこでも嫁す心づもりはできているわと、啖呵を切られたそうにございます。なかなか勇ましき兄上思いの姫宮であられますな」
 はは、とカイルも乾いた笑いをもらす。
「キリトには世話をかけた。吾は王族としての責務を放棄して逃亡する。最も重たきものをキリトの肩に残していかねばならぬこと、誠に胸が痛む」
「微力ながらキリト殿下は、臣が全力を尽くしてお支えいたします。臣の望みは、いつの日か即位されたキリト殿下をカイル殿下が支えてくださることでございます。お二方が王旗のごとく双頭の鷲として並び立たれる日が来ることを衷心より願っております」
 ラザールはカイルに視線を据える。
「どうか、どうかその日までご無事で。生きてくだされませ」
 カイルは老臣の手を取り無言でうなずくと、立ち上がった。
 まずナユタが暖炉の穴を降りる。カイルが続く。
 ラザールはシキを胸に掻き抱き、
「シキ、そなたと過ごした五年は私にとって喜び以外のなにものでもなかった。ありがとう。おまえのことは、かけがえのない娘だと思っておる。カイル殿下を頼む。そして、シキ、どうか生きて帰って来ておくれ」
 最後にきつく抱きしめると、「さあ、お行き」とその背を押した。
 二度と会うことは叶わぬかもしれぬ。ラザールは胸のうちで三人の無事をただひたすらに祈った。

<第3幕「迷宮」完>



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