朝焼けに溶けろ

これは思い出じゃなくて、呪いだ。

なんとも身勝手な女性だな、と思うけど、私にも心当たりがある。


呪いをかけたあの日


生活のあらゆる場面で私のことを思い出せばいい、と願ったあの日。

それは彼が私の元を離れると決め、家から出ていく数日間。

上げ膳据え膳に、一緒に暮らしている時に振り分けた家事も、諸々すべてを引き受けた。

とはいっても、振り分けていただけで、彼が自ら家事をしてくれることなんて、ほとんどなかったけど。

出ていくと決めたくせに、荷造りひとつしない彼のために、荷物もまとめた。

花粉症持ちの彼のアレルギー薬から、"お腹が痛い時" "頭痛がする時"とわざわざ薬にメモまでつけて、箱にしまった。

それは別に彼のためではない、私のために。

出ていった日の夜、早速彼から一言連絡があった。

「すごいと思った」

引っ越し作業を終えた彼は、夕食のためコンビニ弁当を買ったが、箸が入っていなかったのだ。

「キッチン用品」とこれみよがしに私の字で書かれた段ボールを開けると、そこにはお箸やスプーンがしっかりと入っていた。


でもそれは、彼のためではない。

毎日目をする食器や、コンビニ弁当を見て、私のことを思い出せばいいと願ったからだ。

これは、願いではなく、呪いだ。

何とも身勝手な女の呪い。


そんな呪いが、この本のなかにはたくさん詰まっていた。

地方に住む私は、明大前の沖縄料理屋も写ルンですで撮った江の島も、飲み歩いた高円寺も知らない。

だけど、知らない事も、まるで自分のことのように鮮明に感じられた。

鮮やかすぎて、しんどい。

まるで、「カツセマサヒコ」という名が、私の名前だったのかと錯覚を起こしそうになる。


こうやって、彼女の形に空いた穴が、ぽっかりと彼の心のド真ん中に空き続ける。

彼女のズルさは

「彼女は、社会の評価よりも、自分の評価で行動できる人だった。」

の一文にこめられている気がした。

彼もまた、彼女の呪いにかかったのだ。


夜明け前の静けさに包まれた凛とした瞬間を、「マジックアワー」と呼ぶときに、私は少し気だるさを感じる。

まるで闇夜に体の後ろ側を引っ張られ、私の影が夜ににじんでいるようだ。

目に浮かぶ景色は明るいのに、そう感じるのは呪いのせいなのだろうか。


呪いのデメリット


ただ、この数々の呪いには、1つ重大なデメリットがあった。

それは、呪いをかけた人も同じように呪われるのだ。

めちゃくちゃ自分の首絞めとるやんけ。


呪いをかけた時には、そのデメリットの存在すら知らない。

彼が好きだといったあの曲や、まとっていた香り、呪いをかけたはずの私が、薬を見るたびに、優しさと憎さを詰めたあの日を思い出す。

いつになればあれを思い出さなくなるのだろう。


既婚者だからこそ出来る、あざと可愛いのつまった余裕は、「人のセックスを笑うな」の永作博美で再生され、ズルさを不快に感じさせない。

そして焦りと不安を、作中の彼女は最後まで見せることなく、まるでアリ地獄の中心で悪びれもなく、にっこりと微笑む。

でも本当は、彼女も呪いにかかっている事を、私は知っている。


思い出すんだ、彼の事を。

「私と飲んだほうが楽しいかもよ笑?」

という一言だって、一字一句間違えずに覚えているはずだ。

彼女は旦那と食卓を囲むとき、グラスにわざわざお酒を注ぐだろう。

そして、その時、缶を見て、彼のことを思い出している。

勝ち組飲み会を抜けだしていった夜の公園も、見上げた月も、彼の横顔も、感じた自分の気持ちだって、数珠繋ぎに思い出す。

呪いの始まりは、自分からだということも。

 

「明け方の若者たち」を読んで、きっと自分にかかった呪いにハッと気づいた人もいるだろう。

誰にでも覚えのある、夜の闇の深さに残された呪い。

それを押し出すようなまばゆい光が照らす今を、私たちはただ踏みしめながら生きるしかない。

いつか、呪いが朝焼けに溶ける、その時まで。

 

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ちょっといいもの食べて、もっといいヒトになりたい。