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病を得て人は変わるのか ~グレン・ティプトンを目撃して~

71歳のヘヴィメタル・ギタリストは弾き続ける。パーキンソン病を患い、一線からは引いても、ステージに立つ。思うように指が、体が動かなくても、練習を続ける。海外公演にも行く。なぜ? グレン・ティプトンがグレン・ティプトンでいるためだ。彼はミュージシャンだから。病気になったからといってミュージシャンを、ましてや自分を辞めることはない。

11月、JUDAS PRIESTの東京公演に2回行った。JUDASは10代の頃から好きで、コアなファンとはとても名乗れないけれど、私にとってのヘヴィメタルはJUDAS PRIESTだ。2018年3月にギタリストのグレン・ティプトンがパーキンソン病を患っていることを公表して、マジかK・K・ダウニングも脱退して、グレンもいなくなるの…と茫然とした。JUDASはなんというか因果なバンドで、圧倒的なブランド・イメージがある。そのほとんどを背負っているのはボーカルのロブ・ハルフォードだが、彼も脱退していた時期がある。その時に、ボーカルとはなんと替えの効かないものか、と思った。個性があればあるほど、どうしようもない。

メタルゴッド=ロブはバンドに戻ってきて、またJUDASは安定のブランド・イメージに落ち着いた(私の中では)。まあそれに比べたら、楽器陣は替えが効かなくなくはない。極論すればボーカルだって、そっくりの声、同等の力量とバンドへの愛・リスペクトがあればなんとかなる。高齢化が進むロック界では、そういうバンドも少なくない。かえって歌唱力や演奏力が衰えてしまったオリジナル・メンバーよりも、そのバンドを深く愛し、理解している実力ある若手のほうがよいこともある。

グレンのJUDASにおける重要性は、私なんぞが語ることはできないので置いておく。K・Kの後任となったリッチ・フォークナーも、グレンの代役でサポート参加したアンディ・スニープもしっかりJUDASのブランドを守って出過ぎず、愛のあふれるパフォーマンスを披露していた。まあその、アンディががっちりレザーに身を固めてるんだけど「借りてきたメタル」感がどうしても拭えず…なんでだろう。髪型?いやロブだってあの髪型だし、なんでかな…。

さて、日本ツアーではグレンが参加するかどうかは公表されていなかった。アメリカツアーには参加していて、体調の良い時にはステージに立っていたけれど、日本は1週間くらいの滞在だし、70歳越えた病身となれば時差やらケアやらで難しいだろうなと思っていた。それでもいい。しかたないというより、納得のつもりでいた。のに!なのに!!グレンは来た。終盤の東京2公演に登場したのだ。

私はパーキンソン病について多くは知らない。身近に患った人もいないので著名人のニュースぐらいしか知らない。MR.BIGのパット・トーピーもパーキンソン病を患い、公表後4年経った2018年2月に亡くなった。パットは公表した後、これまでのようにドラムは叩けなくなったが、ツアーに帯同して違うかたちでパフォーマンスを披露していた。俳優のマイケル・J・フォックスは30歳でパーキンソン病を患って一時は俳優業から退いていたが、ここ10年ほどは復帰しているという。医療が進歩して効果のある薬やリハビリも開発されている。とはいえ、まだ原因は特定されておらず、完治は難しい病だ。勇敢なパットは死の5カ月前の来日公演に参加し、自らの人生をつづったアニメーションを発表していた。私はふと忘れていた。パーキンソン病が死に至る病だということを。病気はあるけれど、せいいっぱいミュージシャンとして生きるパットの姿しか、目に映っていなかった。

パット・トーピー(2011年6月、Wikipediaより)

神経科医のオリヴァー・サックスの著書に『レナードの目覚め』(1973年初版発行)がある。第一次世界大戦後に大流行した嗜眠性脳炎による後遺症を負った患者たちに新薬(L-DOPA)を投与し、その効果を記録したものだ。医療モノとか記録集であるだけでなく、患者たちの身体と精神のヒストリーがつぶさに描かれて、病気や治療の内容だけではなく、「人間とは」を問う本だ。
まったく身体の自由を失った人が、その内部では精神や記憶がまったく自由を失っていなかったり、新薬によって身体を不自由から解放したら内部も精神も解放されすぎて“爆発”してしまったり、身体の自由を手に入れた時、じつは自由を奪っていたのは病ではなかったとわかったりする。嗜眠性脳炎後遺症の患者は、パーキンソン病と同じ症状があり、嗜眠性脳炎後遺症だけでなくパーキンソン病患者も症例として出てくる。新薬によって目覚めた人も目覚めなかった人も、良くなった人もそうでなかった人も、じつは病だけのせいで自由を失っていた――“閉じ込められていた”わけではないことが示される。サックスは言う。

生きているものはすべてが個である。健康は自分のものであり、病気も自分のものだ。反応もそうだ――心や顔が自分のものであるように。健康や病気、反応は試験管の中だけで理解されるべきではない。当事者とその感性、性格、世の中での存在(「現存性」)の表現として考慮されて初めて理解され得るのだ。(p396)

たぶん多くの人がグレン・ティプトンを(あるいはパット・トーピーを)ライブで見て、たいへんな病気なのになぜ活動を続けるの?と思うだろう。安静にして、大事に無理をしないでと。けれど、病を得ようが心身が不自由になろうが、その人であることは変わらない。“その人であること”を表明し続けなければ“その人”は無くなってしまう。“忘れられる”も同じかもしれない――それは、“死”だ。生きながらにして死んでいる、あるいは殺される。

グレンやパットを見て勇気や感動をもらった人は多いと思う。私はちょっと違って、ああやっぱりミュージシャンだ。ずっとミュージシャンだったしこれからもそうなんだと思った。私の大好きなミュージシャン。
本人たちもそうではないかしら、と思う。ミュージシャンとして、並々ならぬ覚悟と努力で生きてきたのだ。たとえ途中でどこか不自由になっても“自分”は変わらないと思うのだ。変わりたくないから続ける。たぶんリハビリも治療も、楽器の練習や鍛錬と同じで自分をつくりあげる一環になるだろう。自分の中では“患者”よりももっと大きなもの(彼らの場合はミュージシャン)が占めていて、病はそこに加わっただけなのではないだろうか。

そんなふうに考えると、自分をしっかり持っていない人が深刻な病や障害を抱えると悲劇になるように思う。気付いていなかったけれど重要な自分を手放して、取り戻せなくなるかもしれない。たやすく奪われるかもしれない。あるいは、手放した方が楽かもしれない。若い人たちには酷なことだと思う。まだ自分が確立していないのに、未知の希望や不安、不満に取り囲まれてしまうだろうから…。

グレン・ティプトン登場!(2018年11月28日)

自分は何者か、何がしたいのか。どうありたいのか。病や障害によって自由がきかなくなっていくのがわかった時に、やりたいことや行きたいところ、話したい人が出てくるだろうか。そのことを表明する手段を持っていることはすごく大切なことだ。苦痛をもっていると、 “自分”やその表明の手段をも失われたり奪われたりする。自分が自分でなくなっていく。また、“自分”として扱われなくなっていく。病人なんだからこうしなさい、こうあるべきと“自分”ではなくて“病人”に変身させられる。もしくは閉じ込められる。

ふたたびサックスの言葉をひく。

現代医学はますます私たち当事者の存在を無視し、決まった用法の決まった「刺激剤」に対して寸分違わぬ反応をするレプリカのように扱うか、あるいは病人との有機的なつながりを無視して、病気を侵入者だ、悪だと決めつけるかのどちらかだ。また治療という観点から見ればこうした考え方と相関関係にあるのは、もちろんあらゆる手段を講じて断固病気と闘い、病気の当人については一顧だにせず、好きなだけ病気を攻撃すべしという考えである。
(中略)病気はそれ自身の性質を持っているが、私たちの性質をも取り入れる。そして私たちは独自の性質を持ちつつ、世の中の性質を取り入れる。性質とは小宇宙的な個体であり、世界の中の世界であり、世界を表す世界である。病気-人間-世界はともに存在している。それぞれが独立していると考えることはできないのだ。(p396-7)

病気を治すことが、その人を否定したり無きものとしては、ならないと思う。“自分”を保つ、尊厳を保つ手段は確実に増えていて、それも医療の進歩だ。重要なのは“生きている状態”にすることではなく、“生きている”ことなのだ。そして、どういう死を迎えるかも含むと思う。死ぬ瞬間までは生きているのだから。死にかたをある程度決めておくことで、自分を保って生きる道が拓けることもあるだろう。

グレン・ティプトンはとてつもない努力で、限られたレパートリーであってもJUDAS PRIESTのギタリストとしてステージに立つ。私たちは、それを目撃する。生きるというのはたやすいことではないけれど、なんとしてでも生きるとは、こういうことではないかしら。そのためになら、努力は惜しまないし医療の力をいくらでも借りたい…そんなことを思った。

※じつはまだ『レナードの朝』を読了していないのです…汗。ただ、グレンを見ることができた時期に偶然、読んでいたので、なにかがぴたりとはまった気がしました。

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