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新海誠の作品「君の名は。」を観て少し考えたこと

新海誠の作品といえば、この作品が最初に思い浮かぶであろう。私は最新作の「すずめの戸締り」を先に観て、それまでの先入観(*)が揺らぎ、先日「天気の子」を観てさらに関心が高まった(本記事の末尾に付記)。そして、今回、傑作との評判が確立しているこの作品の鑑賞へと導かれた。

私の娘は新海誠の大ファンで、たいていの作品は10回前後観ているという。また、ボランティアとして活動している日本語支援の生徒の多くが、中国人で、とりわけ若い男性が多いのだが、彼らとの会話でも、日本のアニメ作品が中国で大人気であり、今の若い世代には、新海誠は突出して人気が高いこともわかった。こうした背景からも、この機会に、主な作品を鑑賞しようと思い立った。

*少年時代は手塚治虫、横山光輝(「鉄人28号」、「伊賀影丸」)、梶原一騎(「巨人の星」、「あしたのジョー」)の漫画とそのアニメ版、成人してからは、宮崎駿と高畑勲のアニメワールドを楽しんできた人間にとっては、もう頂点を見尽くした、体験し尽くしたという感じがあった。また、モーレツカイシャ人時代、新たな趣向の作品に興味を向ける時間と余裕がなかったためだろうか・・・。世代が大きく異なる「若い」人たちの作り上げる世界を覗くことすらハードルが高くなっていたように思う。

余談: 
「昭和の映画」ファンにとって、映画「君の名は」は、1953年(昭和28年)から翌年にかけて、結果的に三部作構成となった大ヒット作品。恋愛文芸作品の名手と言われた大場秀雄監督作品で、岸恵子と佐田啓二の流転の恋愛物語。第1作がヒットしてから、恋愛の展開を広げるために、ストーリーがどんどん複雑、ややこしくなっていったのであろうが、今の時代ではありえないドロドロした男女関係や友人関係が展開する。最後の結末は思い出せなくなっていた。岸恵子はもとより、淡島千景、月丘夢路という当時の日本の男性を(のちの世代の男性にあたる私をも)熱狂させた名女優が脇役として出ている映画としても見逃せない作品である。
 考えてみると、昭和の時代、高校生の恋愛物語を描いた作品が広く世間の注目を浴び、ヒットすることがあったろうか。戦後、恋愛に飢えていた若い男女は、この作品のように、身の回りの障壁に立ち向かいながら、あるいは、制約に負けそうになりながら、必死に愛し合おうとし、求め合いつつ苦しんでいた。地位や家柄や、経済力などの多くの制約がありふれていた。そんな大人の世界に、高校生世代の恋愛が注目を浴びるような社会環境は全くなかっただろう。そもそもそういう余裕が、人々の間にもなかっただろう。しかし、世の中が豊かになり、恋愛も性体験も容易に実現できるようになり、ひたすら一人の相手を愛し求め合う”純愛”は、物語としてのリアリティもなくなり、人々の関心も向けられなくなったように思う。アニメの世界では、実写の世界と比べて、そうした余計な、不自由な周囲の環境を削ぎ落として、物語を語ることが、比較的容易という事情もあるだろう。そうして、地位や、金や家柄などに制約されない子ども世代ともいえる高校生の恋愛が純粋な恋愛として、若い同世代だけでなく、恋愛経験を終えた世代にまで、興味と関心を呼び起こして、社会現象になるほどのヒット作品を生み出すようになった・・・と捉えるのは、ピントがずれているだろうか。

(筆者余談)

正直に告白すると、この物語を見はじめた時は、期待外れの感じが湧いてきた。話の展開に独創性が感じられず、平凡な内容だなあと。日本アニメの質が下がってきているために、この程度の作品が、熱狂的に受けるのかと。ところが、中盤からの急展開で様相が変わってきた。
そのきっかけとなるシーンは、おそらく次の場面である;

(三葉のおばあちゃんが語る言葉)
「土地の氏神様は『むすび』。『むすび』には深い意味がある。糸をつなげる、人をつなげる、時間が流れることも『むすび』。全部神様の力や」
「時にはねじれて、絡まって、切れても・・・」
「水でも米でも酒でも、人の体に入ったものが、”魂”と結びつくことも『むすび』」
伝統的な祭礼の儀式『口噛み酒』はその象徴だった。

この”思想”が、発展していき、
「ひもは『時間』の流れそのものだ。ねじれたり絡まったり戻ったり繋がったり、それが『時間』だ。すなわち、『むすび』=『時間』となり、この作品の主題になっていく。

(以下ネタバレの記述が続く)
3年前の2012年x月x日、彗星が割れて隕石となり、秋祭りの最中の飛騨の糸守の町を襲い、町は消滅し、500人以上が犠牲になる。
3年前の三葉と今の瀧が入れ替わりを繰り返していくうちに、お互いの素性を知りたくなり会いたくなって・・・
ところが突然、二人の入れ替わりが起きなくなってしまう。気になった瀧は今の糸守へ旅し、3年前の糸守消滅を知る。3年の『時間』を越えて『むすばれていた』ことに気がついた瀧は、絶望するが・・・。3年まえ、隕石落下のまえに三葉が作った『口噛み酒』に導かれて、口にする。と・・・再び入れ替わりが起き、3年前の糸守へタイムスリップすることができる。

瀧は、3年前の三葉になって、隕石衝突から三葉たち糸守の人々を救おうと、友人たちと力を合わせ、避難させようと奮闘する。しかし、娘を信じない町長の父親に阻止されて、万事休すと思われたとき、瀧(三葉の姿)は、御神体の山のことを思い出して、山に登り外輪山に到達する。一方の三葉は東京へ瀧に会いにいって、電車の中で瀧に声をかけるが、3年前の瀧には三葉が見ず知らずの少女にしか映らない。この時、かろうじて結び紐を瀧に渡すことができるが、気落ちして糸守に帰ってきていた。
(この後が分かりづらい展開だが)
三葉は御神体の前で瀧の姿で目覚め、同じように外輪山に導かれる。こうして、3年前の糸守で三葉(実は瀧)と瀧(実は三葉)は出会うことができた。しかし、時間が異なる世界にいるためにお互いの姿は見えない。しかし二人のお互いを想う強い気持ちが、”結び”の神に通じたのか、二人はそれぞれの元の自分(瀧は瀧の姿、三葉は三葉の姿)に戻り、ここで初めて二人が自分のままで直接出会うことになる。”愛(強い想い)”の力で「時空を超えた」クライマックスだ。目が覚めてもお互いの名前を忘れないように掌にお互いの名前を書こうとする。しかしこの後再び時間が戻り、3年前の糸守の三葉と今の東京の瀧に別れ別れになる。と同時に、お互いの名前を思い出せなくなる。

ここからは、三葉本人が、糸守の人々を隕石落下から救うために友人たちと力を合わせ、避難させようと奮闘する。しかし、娘を信じない、町長の父親に再び阻止され・・・。
ここで、物語が途切れる。

二人の時空間

こうして、記憶が失われたまま時間が経過して、5年後へ。就活に苦戦する瀧は、ふとしたことから2012年の隕石衝突の記事を目にする。そこには、”奇跡”の記事が・・・。
「・・・町民は、奇跡的に助かった。偶然に避難訓練中で、三葉たちが町民を避難させようとしていたあの高校に、隕石が落下した地域の町民全員が避難していた。町長が、強引に避難指示を出していた。」ということが書かれていた。

隕石衝突で三葉を含む町民300人が亡くなった世界と、奇跡的に隕石衝突の難から三葉を含む町民300人が逃れられた世界と二つの世界があり、後者の世界で瀧と三葉の物語が続く。二人とも、誰か、何かを探しているような感覚をずっと持ちながら成長し、瀧は就職活動、三葉は東京に出てきて、一人暮らししていた。ただただ何かを探し求めていたのかもしれない。小雪の降る日、新宿駅西口のビル群の中にある歩道橋の上で二人はすれ違う。瀧は彼女の後ろ髪に結び紐を認めるが、そのまま見送る。その後今度はすれ違う中央線と総武線の車両の中にお互いの姿を見つける。総武線に乗って四谷方向に向かっていた三葉は次の千駄ヶ谷の駅で下車し、新宿方向に向かい中央線に乗っていた瀧は新宿南口で下車し、(行動的に辻褄が合わないが)お互いを探し求めて歩き続けると、(方向的に辻褄が合わない)須賀神社の石段の上と下で出逢う。階段を上り下りですれ違った後、振り返り、忘れてしまっていた相手の名前を尋ね合う。「君の名は?」と。

壮大な時空を超えた青春恋愛ドラマのため、つじつま合わせが不透明な点をいくつも感じるが、この物語を総括するとこんなことになるのだろうか;
・時空を超えた人の入れ替わりが、同じ高校生世代の男子と女子に設定されている
・その時空の差が手にとどきそうな近さに設定されている(東京と飛騨地方、現在と3年前)
・過去の悲劇を、その入れ替わりによって、奇跡の物語に転化する。
・その過程で、友人たち、家族たちが力を合わせて災難から逃れる。
・日本の古い伝統行事(『口噛み酒』造りと神への奉納)が、その力を紡ぎ出す。
・流星からの隕石が引き起こす悲劇と、人知の及ばない宇宙天体現象である彗星/流星/隕石落下という現象のもつ本来的な”美しさ”が、人間の思惑とは無関係に「結ばれ」ている。
・偶然の出会いと、互いにこの人しかいないと惹かれ合う説明不可能な心とで成立する、純粋な恋愛物語(そこに金も地位も家柄など、周縁の制約は何もない)がここにある。
・こうした物語が、現実にある場所で、映像からどこなのかわかる場所で展開する(東京の四谷、六本木、新宿西口や須賀神社、飛騨地方の駅や土地など)ことが、リアリティを高める効果がある。

新海誠のプロフィールを見たところ、今年で50歳。え、もっと若い世代のクリエーターと思い込んでいたので、ちょっと不思議な違和感を感じた。

余談になるが、ここで言及せざるを得ないのが、この作品の評価について;
この年、”映画界で最も権威がある賞”として広く認められている「キネマ旬報ベストテン」で、この作品「君の名は。」は13位。1位は、やはりアニメでヒットした「この世界の片隅に」(片渕須直)であり、2位が「シン・ゴジラ」(庵野秀明)でどちらも一種の社会現象を引き起こした作品だ。3位に「淵に立つ」(深田晃司)、4位に「ディストラクションベイビーズ」5位に「永い言い訳」(西川美和)、6位に「リップヴァンウィンクルの花嫁」(岩井俊二)など、力作が評価されている。が、「君の名は。」がベストテン圏外の13位というのは、どう捉えたらいいのだろうか。この年は、興行収入が2000億円を超えて、それまでの日本映画界の歴史を塗り替えた年であったようだが、この記録を牽引したのは、圧倒的に「君の名は。」の200億円を超える実績だった。ちなみに「この世界の片隅に」は、20億円超。
ここで思い浮かんだのが、宮崎駿監督「風の谷のナウシカ」。その構成と思想の大きさにおいて、アニメ&漫画の歴史上、傑出した作品であると言って間違いないだろう。この作品が公開された1984年の「キネマ旬報ベストテン」を調べてみたところ、1位「お葬式」(伊丹十三)、2位「Wの悲劇」(澤井信一郎監督;薬師丸ひろ子主演)、3位「瀬戸内少年野球団」(篠田正浩)、5位「さらば箱舟」(寺山修司)と傑作が並んでおり、「風の谷のナウシカ」は7位にとどまっていた。一方、読者選出では1位に選ばれている。「君の名は。」は、専門家の投票で13位だったが、読者選出では4位に食い込んでいる(1位はやはり、”圧倒的にわかりやすい物語”である「この世界の片隅で」)。どちらも、従来にない発想と緻密な構成でできていて、奥深い知的、人類的テーマが、少年少女が主人公の物語世界で展開している作品といえるだろう。価値観や評価の視点が固まった”専門家”集団には、評価が難しいということを示しているのかもしれない。

筆者余談

(終わり)

(付記)
「すずめの戸締り」(2022年)ミニ感想

後半、主人公の鈴芽が、東日本大震災で母親を亡くして、叔母に引き取られて育てられていたという背景がはっきり分かってからの展開で、急速に、物語りの核心に向かって盛り上がってくる。しかし、それでも、巨大ミミズが巨大地震を引き起こす原因となっているということや、封印された出口が二箇所あって、その出口を塞ぐための祈祷師という存在が代々引き継がれてきている、そういう人物が存在するということなど、一体どうしてそういうセッティングが生まれたのか、その背景や、意味合いが曖昧なままなので、どうもしっくり受け入れられなかった。

震災の悲劇を心から排除して成長してきた主人公の鈴芽だけが、この巨大ミミズの姿を見ることができて、その戦いに打ち勝つことで、亡き母親との思い出を取り戻すことができ、悲劇を克服して未来に希望を持って生きていけるようになる。その結末は、とても素直で、わかりやすい。ここで新海誠が言うところの、『他人の苦しみ、悲しみを理解することはできないが「共感」することはできる。人類は、この「共感」を育むことで、社会を発展させてきたのではないか』(*)と言う捉え方が示されているということだろうか。

(*)「共感」については、過去に以下のnote記事で少し取り上げた:
『ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んで”ちょっと”考えたこと(「エンパシー」について)』


「天気の子」(2019年)ミニ感想

2019年は、とりわけ異常気象が多い年だった。

2019年気象10大ニュース
1.台風19号 13都県に特別警報
2.台風15号 首都圏縦断
3.台風10号 お盆休みを直撃
4.九州 梅雨の大雨
5.記録的に遅い梅雨入り
6.新潟・山形地震
7.九州北部大雨
8.“北”で異常な暑さ
9.台風20号、21号
10.即位礼正殿の儀に現れた虹
(ウエザーニュースから)

この作品は、この年の夏に公開されいるので、今から振り返ってみるとこの異常気象の予言にもなっていたようだ。

公開後、「すずめの戸締り」が国内だけでなく、中国でも記録的に大ヒットしているというニュースが耳に入ってきていた。新海誠の作品は、今まで、”関心を持たなかった”が、どうもそうは言っていられないほど社会への影響力が大きくなってきているので、あまり主題がすっきり理解できなかった「すずめの戸締り」で終わりとすることができなくなり、先行する作品を観たくなった。そしてまずこの作品を見ることにした。
アニメ作りの手法は、以前から同じようで、実在の世界、街、自然の風景をそのまま徹底的に描写して画面を作る。アニメと言いながら、光による映像のリアリティへのこだわりは確かに半端でない。

異常気象に襲われている世界で、日々の暮らしを送る人々を描く。その異常気象を生み出した人間の行為に対する批判や魔女狩りをするような視点はない。ただその異常気象の現実世界をありのままに受け入れた上で、その異常気象で一喜一憂する人々の日々を描く。人々は、日々の活動を楽しむために、ときには晴れた天気を期待する。その望みを叶える能力を備えた少女が現れる。しかし、彼女は、その能力を使うことによって、自分の命を削っていくことになる。世界が圧倒的な力で異常化していく中で、たった一人の少女が、儚い命を削って、人々のために抗おうとしているかのよう。別の視点からは、人類の集団として欲望の行為に対する「人身御供」のよう。しかしそこには、正義や悪といった視点は表立って現れてこない。そうであるからこそ、幅広い人々の心を掴む力があるのかもしれない。

(終わり)

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