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漁港の夜明け

早朝、奄美の漁港を散歩していると、目の前の風景の移り変わりに心酔する。5時ごろになると、30分ほどで夜空に瞬く星は消え、鳥のさえずりがあたりに響き始める。2日前に出航した鰹一本釣り漁船は近海から戻り、水揚げされた魚は組合の水産物加工施設に運ばれ、カツオと一緒に捕れたシビ(キハダマグロ)は地元住民の好物の刺身となる。私はこの間のまばたきを幕間のように感じたが、島人にとって一連の動きはあまりにも日常的で、胸が高鳴るような状況ではない。
それでも奄美は変わりつつある。年配の方に話を聞いてみると、最近は開発が進められ、新しい施設や観光客が増えている一方、昔に比べて人と人の関り・人と自然の関りは少なくなり、人情味がなくなってきた、という声もある。新たに開通したトンネルを通れば、確かに一つの集落から別の集落までの移動はずいぶん便利となった。しかし、そのせいで失うものもあるようだ。昔は島から出ることは言うまでもなく、島内の移動でも不便は多かったが、長い時間をかけて山道をまわる不便のなかにはいろいろな出会いがあり、そういう意味で多様な豊かさと恵みもあった。今では、有名な動植物の名前は知っていても実物を見たことがない、実物を見てもその特徴について認識できない、という人は少なくない。住民に話を聞かなくても、私の肌感覚で浜を見ればゴミが増えたこと、海を潜ればいきものが減ったことに気づく。変わらない奄美があるなかで、変わるものはある。
私が夢想している漁港の夜明けという劇に、鳥のさえずりが少なくなり、鰹船が出港できず漁港に停留・放置され、道端で会話する住民が減り…という幕は見たくない。問題は、私が夢想する劇ではなく、奄美の現実にその幕開けはするかもしれない。おそらくその幕では、「非島人による、非島人のための、非島人の奄美」にスポットライトが当てられる。そして、ろくろ首のように、首を伸ばすことができる一部の人だけが、元来の奄美を知ることができる(元来の奄美が一部でも残されていれば…)。人は何かを失う・不足する時、はじめてその何かの大切さに気付くことはよくある。奄美の漁港の夜明けは、静謐な自然から人情溢れる島人まで映し出すと同時に、私には大切なものが遠く離れていくような感覚も与える。

今、奄美の大切なものを見つめ直し、島人の暮らしにおけるニーズの充足のために、奄美について語る会「ユニ奄美ティ」を開いている。


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