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島の「基幹」産業、サトウキビ

南の島は農地面積が狭く、一面に広がる農作物の畑の風景はあまり目にしない。それでも奄美市内から空港に向かう途中(龍郷/笠利)にサトウキビ畑が道の両側に見える。奄美大島は毎年幾度も台風に直撃されるため、農作物の生産が難しいという地理的特徴がある。サトウキビは温帯で育つ作物であり、強風に対して比較的耐える力がある。そいう意味では、サトウキビは奄美大島にとって重要な作物と言えるかもしれない。
私たちは、サトウキビをそのまま口にすることはあまりないのだが、サトウキビからつくられる砂糖(黒糖)はかなりの量を消費している。歴史を辿れば、南アジアや東南アジアで発見されたサトウキビは、アレクサンドロスの帝国拡大によってアラブ世界に伝わり、十字軍の遠征によってヨーロッパに伝わった。その後コロンブスの航海によってラテンアメリカに持ち込まれ、プランテーション農園が進められた。そして、近代に入るとオランダの強制栽培政策によりアジアでも生産が拡大された。砂糖を摂取する側の都合により、サトウキビがつくらされたという視点から出発すると、サトウキビの歴史は奴隷という仕組みの上に成り立っているともいえる。
日本では北の甜菜と南のサトウキビから砂糖を生産しているが、国内の消費量は生産量を大幅に上回っている状況にある。このギャップを埋めるためにオーストラリアやタイなどから砂糖を輸入している。奄美大島に視点を戻すと、1600年頃からサトウキビが栽培されるようになったと言われている。元禄時代に薩摩藩の財政が悪化し、薩摩の財政再建のために奄美大島でサトウキビの生産拡大が進められた。明治時代は、海外から安価な砂糖が輸入されるようになると島のサトウキビ農家は厳しい価額競争にさらされた。戦後、アメリカの統治下では、サトウキビを外に出せなかったため、製糖工場で黒糖に加工し、黒糖を焼酎などの製造に使うようになった。こうした加工・製造・販売の工程が発展すると、サプライチェーンの労働者による経済的な波及効果があり、今でも基幹産業と位置付けられている。
しかし、近年ではサトウキビ農家の高齢化が進み、多くの農家では自分の子孫に後を継がせないで、農地を貸出している。奄美大島の農家はサトウキビが成長している間はほとんど手入れをしていない。それでも、植え付けと収穫の時期にどうしても労働力を投入する必要がある。最近、収穫期には農機「ハーベスター」の導入することで、高齢化・人手不足の課題は克服されているという声もある。他方、ハーベスターの操縦者に話を聞けば、「小規模なキビ畑ではハーベスターの運転効率が悪く、採算に合わない。」という。小規模農園の生産性は悪いが、それでも農家は補助金を受けながら栽培できるので、なんとかキビ畑は維持されている、というのが現状である。この状況では誰にとっての基幹産業なのか、と疑問に思う。
今、持続可能な農と食のシステムについて広く議論されている。最近では「アジア太平洋地域のサトウキビ生産における特有の問題や要求を抽出し、種間および属間雑種を利用するサトウキビ育種の進歩と製糖工場副産物の新しい利用技術を紹介することにより、将来のサトウキビ産業のための育種の方向性やサトウキビ研究のネットワーク形成を議論することを目的」にワークショップが開催されている。奄美大島にとってサトウキビが基幹産業ならば、持続可能なサトウキビの生産と消費を奄美大島の実情から捉え直す必要があるように思う。

今、奄美の大切なものを見つめ直し、島人の暮らしにおけるニーズの充足のために、奄美について語る会「ユニ奄美ティ」を主催している。



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