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”家族”という容れ物

”家族” というのは容れ物だと思う。
しかも出入り自由なやつ。


これは住んでいるのが田舎だからなのか、それともそれ以外のなにかがそうさせているのかは分からないけれど、 ”家族” というもののつながりの比較的強い家に生まれた。

年末年始は親戚揃って食事をするのが当たり前。
もちろん、それは高校卒業後家を出た後もそうだ。
長期休みは「いつ帰ってくるの?」という帰る前提で話が進む。
”家族” というだけで、一緒に過ごす時間が長いのは当たり前、というイメージ。


もちろん、子どものうちは親の庇護下で育つものなんだろう、それが自然なんだろうと思う。
けれど、いつかどこかのタイミングで、もしくはゆるゆるとゆっくりと、”自分” ”相手” というのを認識する時期が必要なんだろう。

母親は母親である前に一人の女性で、その前に一人の人で、
父親も父親である前に一人の男性で、その前に一人の人だ。
おじいちゃんだって、おばあちゃんだってそう。
自分は母と父の子どもであり、おじいちゃん・おばあちゃんの孫であるけれど、その前に自分だ。


家族の構成員すべての人が、当たり前だけれど一人の独立した人間なのだ。

そのことを、家族の構成員である全員が、それぞれ自覚して「相手は私の家族ではあるが、その前にひとりの人間だ」とちょっと俯瞰して見ることが、家族と上手く付き合っていくコツなんじゃないかと最近思った。

「家族だから」というなんとなく何でも許されるような気持ちの度が過ぎると、色んな軋轢を生む。
”家族” というのはあくまで容れ物で、その容れ物の中に入っている一人ひとりは独立した個人だ。
その気持を構成員それぞれが持っておくことが、すごく大事なことなんじゃないかと。

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